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日本の風船爆弾

■風船爆弾への回顧


冬も近くなると、上空を吹く偏西風のことが頭をよぎる。上空1万メートルの上空で、恒常的に西から東に向かって吹く風というか、空気の流れのことである。

その強い偏西風に乗せて、太平洋戦争末期に日本がアメリカに風船爆弾を飛ばしていたことが思い出される。
それは冬の入り口である11月に始まった。

太平洋戦争を語るとき、ハワイ真珠湾攻撃はよくでて来るが、アメリカ本土を攻撃しようとして行われた風船爆弾のことは、戦後、幻のように消えてあまり知られていない。

暗い歴史だが、今回は忘れちゃならない。今回はその風船爆弾のことを記してみたい。

筆者の作図-1


写真:TBSの報道の魂「風船爆弾~女学生が作った幻の決戦兵器~」のHPより

■一撃講和を狙って


太平洋戦争の末期に近い1944年10月25日、日本軍は神風特別攻撃隊を発進させ、米艦への体当たりをした。いわゆる特攻隊である。

ほぼ時を同じくして、日本は風船爆弾でアメリカ本土を空襲する「ふ」号作戦を開始した。

それは共に、勝ち目はないにしても、相手に一泡吹かせて、少しでも有利な条件で講和にもっていこうとする「一撃講和」の目的である。

音もなく飛ぶ風船に爆弾(爆弾+焼夷弾)を積み、無人でアメリカ本土まで飛ばし、森林火災を起こさせるなどして、アメリカを恐怖のどん底に落とし込もうという作戦だ。

これに対してアメリカは、国民の戦意高揚を落さないためと、国民の不安を掻き立てない為に箝口令かんこうれいを敷いた。
だからアメリカ国民は、日本軍の風船爆弾のことを知らなかった。知らなかったがゆえに、後述のオレゴンの悲劇が起きた。

■どうやってアメリカまで飛ばすのか

その1: 8,000㎞を偏西風に乗せて

風船は、動力を持たない。だが地表の約1万メートル(10㎞)上空には一年中、西から東に吹く偏西風(ジェットストリーム)がある。この偏西風は冬の季節は特に強くなり、おおよそ時速200㎞という速さである。
その偏西風に乗せて風船爆弾を飛ばせば、8,000㎞東にあるアメリカ本土に届く。これだと飛ばした日本もどこに落ちるか正確には分からないが、アメリカも分からない。
風船爆弾は、合計約9,000個飛ばしたが、その一部は確かにアメリカに届いた。

風船というと、多くの人はゴム風船を思い浮かべると思うが、これは和紙をこんにゃく糊で5層に張り固めた気球である。その気球に水素ガスをつめて上空1万メートルまで浮かせ、偏西風に乗せたのである。

筆者の作図-2

その2: 上下の移動は、砂袋で自動調整

上空1万メートルの成層圏では、夜には温度がマイナス50度にも下がる。

昼は太陽が照り付けるので、風船はパンパンに張り浮力は増すので高度1万メートル~1.2万メートルを飛ぶ。
だが、夜になると気温が下がるので風船がしぼみ浮力が下がり、結果として高度が下がる。

そこで高度9,000mでまで下がると、高度計と連動して、おもりにつけている砂袋の紐が自動的に切れて、気球が軽くなる。すると全体としては軽くなるので気球は再び上昇する。

つまり、気球は同高度で一直線に東に向かうのではなく、高度8,000メートルから1万2千メートルを上下しながら、東に向かうのである。


筆者の作図-3

これを繰り返して、太平洋上の8,000㎞を昼夜飛ぶ。飛行時間は約40時間だから約2日の行程だ。
そして、アメリカに着いた頃、最後の砂袋が無くなり、高度が5,000メートルに下がると自動的に爆弾や焼夷弾を落す仕掛けになっており、気球はその後自爆するようになっている。
自爆させるのは、敵にこの兵器のことを知られたくないからだ。

■オレゴンの悲劇


1944年11月から翌1945年春に掛けて、日本軍は千葉、茨城、福島から合計約9,000個の風船爆弾を放球した。

このうち、アメリカ本土に到着したのは285発とも、1,000個とも言われている。一番遠くまで飛んだ地は、アメリカ中西部のミシガン州である。

飛ばした風船爆弾のうち一つは、アメリカ本土西海岸のオレゴン州に落ちた。爆弾を落とす装置の故障か、自爆装置の故障かは分からないが、クシャクシャの状態で森林の木に引っかかった。これがオレゴンの悲劇を引き起こすことになるのであった。

当初は森林警備隊の人達も、これを探そうと必死だった。ヘリコプターも出動した。だが発見できなかった。1週間も経つと、捜索は切り上げられたようだ。

それから何日も経った。

そして1945年5月5日の晴れた日、子供たちがワゴン車に乗せてもらってピクニックにきた。そして偶然に風船爆弾を見つけた。
爆弾はまだ切り離されていないから、そこに残っている。子供たちは、最初はパラシュートだと思ったらしい。あちこち触っているうちに、爆弾は破裂した。ドカーンという音とともに、地面には大きな穴が空き、子供達5人と、日曜学校の引率女性教師1人の肉片が飛び散った。

森林警備隊も、軍隊も、新聞社も、風船爆弾のことは知っていた。だが市民を動揺させないように、風船爆弾のことを知らせないよう命令が下されていた。
だから市民からは「秘密にするからいけないんだ。風船爆弾の危険性を皆に知らせていれば、子供達だって用心してこんな事故は起きなかったはずだ」との声も聞かれた。

その後、その地に「ミッチェル・モニュメント」が建てられた。
6人の名前が刻まれたその碑には、こんな文章が刻まれていた。

「この地は第二次世界大戦中、アメリカ大陸で、敵の攻撃のため死者を出した唯一の場所である」


ミッチェル・モニュメント
アメリカ・オレゴン州の南西部、ギアハート山の麓の森林公園にある。

その地の牧師のミッチェルさんが、
犠牲者を悼んで発起人となり、建立されたとのことだ。
亡くなった女性教師は、ミッチェルの妻だった。

■ただ一つの救い


風船爆弾のことは、暗くて悲しい出来事だ。
ただ一つのせめてもの救いは、風船に生物兵器の搭載が計画されていたが、天皇は本作戦を裁可したものの、細菌の搭載は裁可しなかったことだ。

この記述を読んで、少しでも関心を持たれたら、ネットや書物で、さらに見て欲しい。
広島、長崎の原爆を語るとき、この風船爆弾のことも知っておいて欲しいと切に思う。再び愚かな戦争を起こさない為にも。

参考文献
高橋光子著「ぼくは風船爆弾」潮出版刊、その他Wikipediaや、TBSの報道の魂「風船爆弾~女学生が作った幻の決戦兵器~」等を参照して、総合的に記したものである。


高橋光子著「ぼくは風船爆弾」潮出版刊
著者の高橋光子女史は、作家であると同時に、
実際に風船爆弾を作らされた女学生の一人である。

#風船爆弾 #オレゴンの悲劇  

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