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北海道滞在記 エピソード10: アイヌコタン(集落)の二風谷へ 


■一路、二風谷アイヌコタンへ


8月16日朝8時、私と斉藤博君の2名を載せたスバルレガシーは、北海道のほぼ中央部にある歌志内を出発し、富良野→占冠(しむかっぷ)を経て、襟裳岬(エルモノッド)を目指した。行程は片道300㎞と結構長い。

途中、日高地方の平取(びらとり)町沙流(さる)川流域の二風谷(にぶだに)に立ち寄り、アイヌ文化資料館を見てみようという行程である。
斉藤博君も私も、アイヌ資料館の類を訪れるのは初めてなので、少々期待に胸を膨らませた。
それでまずは、進路を南に取り、富良野から国道237号線の日高街道を、ひたすら走った。

カーナビからは「ここから道なりで55㎞」と言われ、さらには「道なり100㎞で進んで下さい」などと案内が流れる。関東なら、「せいぜい道なり10㎞」だが、流石「でっかいどう北海道」だけあって、スケールが違う。私はその「北海道国」広さを実感しながら走った。

数時間後、二風谷コタン(集落)に着いた。道路を挟んで施設が点在している。


平取町の二風谷コタンの位置図


ここには、アイヌ人で初めて国会議員になった萱野茂氏の「萱野茂・二風谷アイヌ資料館」がある。
実は私は萱野茂氏のファンであり、尊敬もしている。なぜなら彼の言動が誠にシンプルで、心に響いたからである。

それらを織り交ぜて、二風谷コタンことを書いてみたい。


二風谷コタン



鹿の角で作られた椅子。
萱野茂アイヌ民族資料館にて


■心が動いた言葉


「我々先住民のアイヌは、和人に土地を貸したことも無ければ、売ったこともない。なのに和人は・・・」と言葉が続いた。萱野茂のその意の言葉に、深く心が動いた。

萱野氏のその言葉を耳にしたのは、もう何十年も前のことだった。
以後、氏の名前がしっかりと頭に入り、先住民であるアイヌの文化、歴史に関心が湧いた。
和人との戦いはなかったのだろうか? はたまたどの様に同和が図られて行ったのだろうか?

今回のアイヌ資料館を訪れた時点では、そんな疑問は持ち合わせているが、詳しいことはほとんど知らなかった。
だが、今回の訪問をきっかけに、東京に帰ってから図書館で調べ、その疑問への答えが少しづつ分かってきた。

アイヌは文字を持っていなかったので、詳しいことは分からないが、北海道に和人が入ったのは、14世紀末頃からとのことだ。すると先住民のアイヌとの問題はなかったのだろうか。

いや当然あった。1969年のシャクシャインの乱で、ほぼ全島のアイヌ人が決起。19隻の交易船を襲撃した。これに対し、江戸幕府は東北諸藩にも出兵を命じ、アイヌ軍は敗北し、日本最北の潘である松前藩に絶対服従の誓詞を提出。
その結果アイヌは和人に隷属する道を選ぶしかなかった。以後、いろいろなことがあったが、歴史が大きく動いたのは、明治政府になってからだ。

■「北海道 旧土人 保護法」は政府の隠れ蓑


旧土人とは、アイヌのことである。
明治政府はアイヌモシリ(人間の静かな大地)を「北海道」と呼ぶようにしただけでなく、アイヌと言う先住民がいるにもかかわらず、未開の土地として、明治維新で録(ろく)の無くなった旧藩の人々を開拓民として北海道に送り込んだ。

狩猟民のアイヌに土地の所有権意識が無いのを良いことに、土地を収奪し、多くのアイヌを不毛の土地に追いやった。

それではアイヌが可哀想だと、明治政府が反省した証のように「北海道 旧土人 保護法」を、明治32年(1899年)を公布した。
しかしこれは、アイヌモシリ(北海道のこと)への侵略を続ける隠れ蓑であったようだ。

■不条理撤廃 アイヌの萱野茂が立ち上がった。


「北海道 旧土人 保護法」は、アイヌ民族の保護を謳いながら、実際には同化政策の根拠とされた。
そして差別意識の含まれる「旧土人」と言う呼称を用いたことなどから、そんな不条理な「北海道 旧土人 保護法」の即時撤廃と「アイヌ新法」の制定を求めて、アイヌ人は立ち上がった。
それに大きく貢献したのが、萱野茂である。

こうして萱野は多くのアイヌ人の先頭にたち、1997年にアイヌ文化振興法(アイヌ新法とも呼ばれる)を成立させ、国会議員としての目的を果たした萱野は一期限りで引退した。

その際、萱野は「人(狩猟民族)は足元が暗くなる前に故郷へ帰るものだ」という言葉を残している。いかにもこの人らしい言葉だと思う。


憲政史上、初めて国会に響いたアイヌ語


萱野茂氏

■萱野茂という人

この二風谷アイヌ資料館の訪問をきっかけに、萱野茂氏の著書も数冊読んでみた。印象に残ることを幾つか記してみたい。

1・萱野茂は、1926年(大正15年)に、この二風谷で生まれた。アイヌは文字を持たないから、祖母から色々なことを聞き、そのお蔭でアイヌ語と、日本語の二つが母語となった。

2・小学校を卒業した彼は、造林、測量、炭焼き、木彫りなどの出稼ぎをして家計を助けた。彼曰く、自分の家が村で一番貧乏だったという。

3・彼が数え年20歳の時、祖母が死んだ。
祖母の死とともに、アイヌ語も彼の身近から消えたようになった。
その後いろいろなことが重なって、彼はアイヌが嫌になり、アイヌから7~8年ほど逃げた。

4・だが1953年(昭和28年)に出稼ぎから、もう一度、二風谷に戻った。その時、囲炉裏端をみて愕然とした。父が命の次に大事にしていたお祈り用のトッキパスイ(棒酒橋=ぼうしゅばし)が消えていた。

5・国土を不法占拠され、民族固有の言葉を剥奪され、わずかに生活文化の片鱗として残っていた民具まで持ち去られるとは・・・! よし、これからは俺が集めると心に誓った。
それが今日のアイヌ文化資料館へと繋がるのである。


北方圏の少数民族が書かれたパネル
世界最大の淡水魚 エンペラーフィッシュ
寿命は人間と同じ50~100年生きるとのことだ。
通常このような展示物には、「お手を触れないで下さい」と書かれていることが多いが、これは全く逆で、「手を触れて、本物の鮫肌を感じて下さい」と書かれている。
アイヌ語でチセと呼ばれる住居

■歴史を知る尊さ

過去があり、今がある。
歴史を知ることは、今の自分、今の北海道、今の日本を知ることに繋がる。
どうぞ、歴史を辿って欲しい。

日本人が勝手に北海道にやって来て、手始めにアイヌ民族の主食を奪った。日本語の分からない、日本の文字も読めないアイヌに一方的にサケを捕ることを禁じてしまったのである。
アイヌ民族の生活する権利、生きる権利を取ったことに他ならない。ある国が日本に侵略してきて、日本人に、突然「米は一切作るな。食べるな」と押し付けたのと同じである。
これは今も続いているとのことだ。

これらを含め、関心を持たれた方は、ネットで調べ、図書館で調べて欲しい。
幸いにして、アイヌ語と日本語の両方が分かる萱野茂氏の著書も多数出版されている。
そこには、アイヌの考え方、自然から学ぶもの、はたまた村のおさ(長)の条件は①器量の良い人、②度胸のある人、③雄弁な人であることなど、知識の宝庫ともいえる。

そして機会をみて、二風谷アイヌコタンを訪れて欲しい。
萱野茂氏は既に故人となられたが、きっと氏の伝えたいことが、伝わると思う。


#二風谷 #アイヌ #萱野茂
次回エピソードに続く

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