幸福という名の蜃気楼
誰もが皆、幸福を求めていると思う。でも、考えてみてほしい。その幸福って、いったい何だろうと。幸福というものを求めるけれども、その自らが求める幸福について、しっかりと定義を設けて、そのうえで追求している人は一体どれだけいるだろうか。
ジェレミー・ベンサムという哲学者は幸福というものを非常に簡潔に定義した。幸福とは、快か不快かだと。そして、不快の総量を減らし、快の総量を増やせば、幸福に至れると。しかし、本当にそうだろうか。
幸福を求めることは確かに大切なことだと思う。けれども、ときとして僕たちは、単に不幸な出来事で苦しんでいるだけでなく、幸福という掴みどころがなく、どこか曖昧なものを求めて、それ故に苦しんでいるのではないだろうか。幸福とは、砂漠を放浪する者にとっての蜃気楼のようなものなのではないか。
このnoteは、僕が勝手ながらいつもフォローさせて頂いている櫻本真理さんの記事である。この記事で述べられていることは、よく世間で述べられているような現代人へのアンチテーゼなどではない。決して満足することの大切さを強く述べたり、幸福を追い求めることを否定しているわけではない。そうではなく、幸福を追い求めて疲れてしまった人へ、いったん立ち止まってその不完全さや不幸を楽しもうよという、暖かなメッセージだ。
自らの不幸に嘆いたり、苦しんだりしつつも、そういう自分もすべて抱え込んだうえで、そんな自分も笑って認めてあげられるようになったとき、はじめて幸福の片鱗みたいなものが観えるようになるのではないだろうか。