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棟梁さんの背中
※この記事は過去にブログに掲載したものを編集したものです。有料ですが最後までお読みいただけますので、本棚に入れたいなという気持ちになった方はよろしければご購入ください。
諸行無常ー。
これは仏教が説かれる際の大前提となるこの世界の物事の捉え方です。
あらゆる存在は必ず何かしらの変化をしていく。
じゃあその上でどう生きるべきか、というのがお釈迦様の説いた教えなので、まさに仏教の教えの大前提なんです。
今回はこの「無常を生きる」ということのヒントをもらったお話です。
これはまだ東京に住んでいた7~8年前のある日、法事の手伝いのためにお寺に帰った日のこと。
その日の法事に、お寺を建ててくれた大工の棟梁さんが参列されていました。
子どもの頃、棟梁さんはお茶を飲んだり一杯やっている時は陽気なおじさんで、仕事中は話しかけるのも恐いくらい真剣な、無骨だけど優しさもある、私の中で「かっこいい大人」の一人でした。
しかし久しぶりに会った棟梁さんは、背中は丸まって顔には深いシワが刻まれ、一気におじいちゃんになってしまったように見えました。
すると棟梁さんはそんな私を見透かしたように、
「背中曲がったんね~って言われるけど、曲がるべき方向に曲がってんだからなんの問題ありゃしねえよ!反ったんじゃ困るけどな!」
と笑い飛ばしていました。
一瞬呆気に取られた私でしたが、大工さんという職業を考えると納得できました。
名工っと言われる大工さんは木材が年月とともに縮んだり曲がったりすることも計算して建物を建てるそうです。
さらには木が生えていた土地や向いていた方向まで、木材の一本一本の個性を見極めることまで求められます。
そんな仕事をずっとしてきた棟梁さんだからこそ、自分の体が変わっていくことは何も不思議ではないし、当然のことと笑い飛ばせるのかもしれません。
「無常を生きる」というのは、実はこんな生き方なのかもしれないなあと、私は考えさせられました。
歳をとっていくことを嘆くのではなく、年輪を重ねてどっしりと構える棟梁さんは、やはり私にとっての「かっこいい大人」でした。
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