本当の自分って?|サポーターをやめてからの話|740C

毎日投稿740日目。今日は2年前に書いた「サポーター以外の生き方に挑戦する」という記事をあらためて読んで、コメントを残したくなったので書く。


サポーターを降りる

私は過去記事に「スキ」がついた時には、その記事を読み返すというルーチンがある。

なのでスキをつけてもらえることは私自身がその記事と再会するきっかけにもなって大変ありがたい。

今回スキをいただいてコメントしたくなったのはこちらの記事。なつかしいことにもう2年前のものだ。

私はサポート気質があり、しかもけっこう細かい&継続的に実行するタチだ。その意識は一般的なサポーターよりもかなり強いと思っている。

しかし、他者から見える私は「懇切丁寧なサポートをするような人間」には見えないらしい。その感覚の不一致から、私にサポートされると違和感を感じる、という人もいらっしゃった。

この時期にはそんな意見をいくつもいただいて、自分は「サポート」する仕事への「ふさわしさ」を持っていないのだと悩んだ。

何事にもそれをやる「ふさわしさ」というものがある。それをある意味「才能」と言ってもいいのかもしれない。物事を続けることでふさわしさを帯びていくケースも多いが

いずれにしても人は内外での認識が一致する「ふさわしい」物事に「ふさわしい」仕方で関われている時には、自分自身にも関係者にも豊かなものを生み出せる。


クリエイターを目指す

「サポートする」という意識を手放すことにした私は、以降はウェルスダイナミクスという才能判断のツールの用語を参考にして「スター」や「クリエイター」的な働きをしようと考えた。

人から見る私はどうやらそれっぽいということであり、スターはやりたくねえと思ったが(今もそう)クリエイターはやりたいものだったため、2023年8月には「クリエイターに俺はなる」みたいな宣言記事もぶちかました。

これは「恥ずかしげもなく夢を語ろう」というjさんの企画に乗じて書いたものであったが、その後の動きがまったくだめで、恥ずかしすぎて該当記事は下書きに戻している。笑

それでも、ずっとそういう方向には向かってきた。

最近はようやくクリエイターのマインドセットみたいなものもできてきて、気兼ねなく自己表現ができつつある。


"本当の"自分を開いていく

そんなわけで、2年前まで私は「自分はサポートに向いている」と思って生きていた。

しかしnoteを始めて自分と向き合い気づいたことは、私が「人をサポートしたい」と思うその信念は「自分の痛み」から来ているということだ。

今はこの欲求を歪(いびつ)なものだと解釈している。

「私自身が昔からずっとつらくて、誰かにサポートをしてもらいたかった」「しかし私が望むようなサポートをしてくれる人は誰1人としていなかった」「だから私はそれを他者にしてあげたい(そしていつか私がされたい)」

こういった理由から育った私の「サポート気質」は、なので自分の本性、そもそも持っている素質ではなく、歪みから生まれた環境要因なのだ。

環境だって一つの「自分」であるし、それはそれで長いことやっていれば「自分のもの」となる面もあるのだが、しかし自分の場合は痛みを忘れるとその能力もまた薄れていくことも確認できて、私の本当の才能はこれではないな、とわかってきた。


そもそも「本当の自分」なんてものはあるのか。人間は環境によって形が変わる社会的な生き物だ。それを探せば迷子になるようなもので、固定的な、確固たる本当の自分なんてものはない。

また「本当の才能」なんてものもなく、人はそれぞれの持っている能力や気質の「偏り」が「活きる場所」にハマって発揮されている時、それを「才能」として評価される。

なので私のサポート能力も、それがハマる場所に行けば今でも価値になる。

だが、そういうこととは別に、自分が素を出して過ごしている時、なんの制約もなく安心して満ちている時、ようは「本来の自分」でいられる時に、自分はどんな振る舞いをするのか。

そこに基づいた仕事の選択や、その取り組み方の設計をしなければ、ずっと「自分を矯正する」ような仕方で生きていくことになりうる。

そのため、「自分」を見つめて紐解き、仮説を持って試し、理解に基づいてデザインしていくような作業というのは、とても価値のある取り組みだと思っている。


メンバーシップは畑のようでもある

そうしてクリエイターとしての活動を意識して動いている私が、今めっちゃ手応えを感じているのが今月から始めたメンバーシップだ。

これがもう本当に楽しい。

以前、メンバーシップという場所は「魚にとっての水」だと表現したが、別の言い方をすれば「種を撒くための畑」ともいえる。

自分のアイデアの中でも、オープンにするにはまだ未熟すぎる、しかしどこかに出さないと腐ってしまう、みたいなものを出せる場が私にとってのメンバーシップだ。

これができたことで、どのアイデアものびのびと育っていくような感覚があって、今まで腐らせてきたたくさんの種が花開いていきそうでワクワクしている。

そして、このワクワク感と取り組み方を客観的に見つめてみると、ようやく私は「ただクリエイターになりたいと思っている人」から「実際にクリエイター」になってきているように思える。

その力はとても小さいものだとしても、私はサポーターではなくクリエイターの"形"に変わってきているのだ。

そんな感じで、2年前に書いた「クリエイターを目指す」ことにした道のりは、今ようやく形としてあらわれつつあるなと、そんなことを感じられた過去記事だった。

こういうものもいちいち書き残していてよかったなと思う。なので今回もいちいち書き残した。また2年後はどうなっているのか、楽しみだ。


あとがき

ここで書いている「サポーター」「クリエイター」「スター」といった単語は抽象的なものだ。

音楽を作っているからクリエイター、映画に出ているからスター、教師をしているからサポーター、というような具体的なものとは結びつかない。

概念としての、そして私の感覚としてのソレになる。

これまで持っていた「自分はサポーターに向いている」という認識はちょっとズレていて、他人からすれば昔から私はクリエイター的な本質が表出していたのだろう。やっぱり自分の背中は見えないのだから、人から見てもらわなければわからない。

たしかに小学生の頃に商売を始めた私はクリエイター的だったと思うし、その後に叩きのめされて人をサポートするようになった自分が、その傷が癒えればまたクリエイター的な振る舞いに戻るのは自然だ。

そんな自分が自覚なく「サポーターです」なんて言っていれば、周りは「そうかなあ」と気持ち悪さを感じるのは当然なのかもしれない。

今でもサポートの欲求はあるし、今後もやっていく仕事ではあるが、それも自分がクリエイター的な特性を持つと自覚した上でサポートする、という仕方でやれば、受ける側も違和感がなくなるのではないだろうか。

引き続き自己省察と自己表現の試行錯誤を重ねて、発見があればまたシェアしていきたい。

なお、ウェルスダイナミクスは自分を見つめるための使いやすい「型」を提供してくれる。気になった方でご存知でない場合、こちらの本がわかりやすい。タイトルはちょっとアレかもしれないが、考え方や視点など学びになる1冊だ。

※私のウェルスダイナミクスの解釈や活用方法はたぶん独自なもので正式には誤りである可能性があるのでご注意を。

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