排泄小説 4
翌朝は時間いっぱいまでブースで過ごした。それでもまだ朝の六時だった。
おれは駅ビルと呼ぶほどでもない、改札を含んだ三階建ての建物の裏の壁の窪みのところで、ただうずくまって時間をやり過ごした。
午後からはバイトが入っていた。一時から夜の九時までだ。その前に少しでいいから横になって休んでおきたかった。ネットカフェの椅子でいくら仮眠を取ったところで疲れは取れない。恵野茶子が仕事に行ったあとならこっそり部屋に戻れるかもしれないと思ったが、あの女は今日は休みだった。仕事がないとまず部屋から出ない女だ。そうなるとこちらは外で時間をつぶすしかなかった。
おれは地べたに座り込んで、仕事やら学校やらに出かけていく人々を眺めた。おれのことなど誰一人として見やしなかった。そうなのだ。うんこを漏らしでもしない限り、連中がおれに気づくことなどない。おれなどその程度の存在にすぎないのだ。
その場所にとどまっているのも二時間かそこらが限界だった。おれは、とりあえずバイト先のスーパーがある隣駅まで行くことにした。電車に乗ればほんの三分足らずだが、歩いていくのだ。時間がたっぷりあることもそうだが、自転車がパンクして以来歩いて通うのが習慣になっていた。ゆっくり歩いてもせいぜい三十分の距離だ。
電車には滅多なことでは乗らなかった。電車というやつは普通トイレがついてないし、閉じ込められているも同然の状態になるからだ。もし事故や何かで思いがけず途中で停まったりしたら、おれの腹の中の悪い虫が黙ってないだろう。そうしたらどうなるか考えてみればいい。
隣駅でおれが時間をつぶす場所といったら、チェーンの喫茶店迅速と決まっていた。コーヒーを安く飲ませる店で、フロアが広く長居しやすいのが特徴だ。トイレは店の奥まったところにあり、男女別にも分かれていて使いやすかった。ただし、男トイレは大と小の区別なく便器が一つあるだけなのでランクはB級だ。
もし仮に誰かがトイレを無駄に占領するようなバカな真似をしたとしても、店を出たすぐ向かいにある区の施設を利用すればよかった。出張所とか呼ばれているその建物には一階から三階の各階にトイレがあり、いずれも複数の個室がついていた。建物自体は古くさいが、管理も行き届いていて紙が切れているなんてトラブルとも無縁だった。そこでゆっくり用を足したあとは、店に戻って何食わぬ顔で元の席に座ることもできた。迅速はたいして金をかけずに快適に過ごせる数少ない場所なのだ。
迅速に着いたのは午前九時過ぎだった。店内は思いのほか混み合っていて、年寄り客たちがあちこちにグループを作って座っていた。
ここに来るジジババの多くは、近くにある公営団地の住人だ。以前、暇に任せて店を出たジジババどもを尾けたことがあるから知っているのだ。連中はいかにも貧乏くさい身なりをしていて、騒々しく、コーヒー一杯でやたらと長居するのが特徴だった。連中の長居ぶりときたら、おれなんかの比ではなかった。だが、そのおかげでこちらは目立たず過ごすことができるというわけだ。
おれはセルフサービスのお冷やを入れるふりをして、誰かが返却口に置いていった新聞をさりげなく取り、コーヒーをすすりながらそれを読んだ。本当に読むわけじゃない。ふりをするだけだ。そうしていると眠くなるからだ。おれはある記事の出だしの数行を行ったり来たりしながら、寝ては覚め、寝ては覚めを繰り返した。やがて三十分ほど寝た。
もともと朝飯を節約するためにネットカフェのドリンクバーでココアをたぷたぷになるまで飲んでいたが、昼が近づくとさすがに腹が減った。バイトはそれなりに力仕事だから、何も食べないわけにもいかなかった。迅速でたっぷり三時間も過ごしたあと、おれは食い物を求めて少し早めにバイト先に向かった。
うまい具合に惣菜コーナーに万賀市(まんがいち)がいた。おれと同じ食品部門のバイトだ。おれは揚げ物を詰めこんだ398円の弁当を一つ手に取り、後ろからやつに近づいた。
「万賀市、ちょっとこれ頼む」
やつはおれを振り返ってあっと言うと、弁当に視線を落としてげんなりした顔になった。
「また?」
「消費期限切れそうになってるし」
もちろん嘘だった。おれはやつが腰にぶら下げているハンドラベラーで、こっそり値引きシールを貼ってほしいと頼んでいるのだ。
やつはまたかなどと人聞きの悪いことを言うが、これをやるのは本当に金に困ったときだけだった。確かに、おれはだいたいいつも本当に金に困っていたが、この店はバイトが買い物するときに何も優遇してくれないから、これは賄いみたいなものだと思えばよかった。万賀市にも何度かそう言い聞かせていたが、やつはいまだに折り合いがつけられないらしい。
「今月やばくて」
おれは万賀市が押しに弱いことを知っていた。真面目で礼儀正しく、全然愛すべきところがないこの退屈な間抜けは、おれの方がこのバイトをはじめたのが少しだけ早いことや、おれの方がほんのちょっと年上なことを、こちらが嬉しくなるくらいきちんとわきまえていた。
「頼む。言うことを聞いてくれたらお前にはいいことがあると思う」
万賀市は、他の従業員や客が見ていないのを確かめると、すばやく弁当を見切ってくれた。三割引きだ。
「この恩は忘れない」
「いいから、早く」
万賀市は、おれにすみやかに立ち去ってもらいたがった。おれはひゃっひゃと笑いながら立ち去ってやった。あとはレジで下手をこかなければいいのだった。おれは何かと勘が働くパートのババアを避け、鈍い男子学生のバイトがいるレジに向かった。
「おつかれっす」
あちらが言うので、おれもにっこり笑って挨拶を返した。こういうちょっとしたコミュニケーションは、物事をスムーズに進めるのに実に役に立つ。そいつは何も気がつかないまま三割引きで処理してくれた。
おれはバックヤードの休憩室でテレビを見ながらもそもそ弁当を食べた。テレビというのは便利なもので、面白いことなど何一つ起きてなくてもただ眺めてさえいれば時間がどんどん過ぎてくれるのだった。IT技術がどれだけ発達しようと、これこそが人類史上最高の発明品であることに疑いはなかった。
弁当をいくらか安く買えたのはよかったが、手元の金は底をつきかけていた。次の給料が振り込まれるのはまだだいぶ先で、またかつかつの生活をしなければならなかった。金、金、金。うんざりだった。金のようなつまらないもののことで悩みたくなかった。そろそろおれももっと稼ぎのいい仕事を探すべきなのかもしれない。必要より少しだけ多く稼げるような仕事を。
スーパーのバイトの時給は千円だった。土日祝日はそれにプラス五十円だ。一日七時間のシフトを週四ペースで入ると、だいたい月に十二、三万の稼ぎになった。決して多くはないが、その日暮らしをしている分にはそれで何とか足りた。ときには贅沢をしたくなることもあるが、おれのように使い尽くされた男にはそんなもの似合わなかった。
あるいは、おれなんてある意味では完璧な障害者なんだから、国だか自治体だかが援助してくれてもよさそうだった。だが、おれをバカにして「うんこ野郎」と笑う連中は山ほどいても、誰一人としておれが支援されるべき障害者だと言ったやつはいなかった。多分もっと見た目に分かりやすくないとダメなのだ。同情に訴えやすいものでないと。
世の中は不公平だから、おれがいくら下痢ピーでまともな生活が営めないと訴えたところで失笑を買うだけだった。世間では下痢ピー野郎は障害者として認められないのだ。おれはくそを垂れ流しながら、汗水まで垂らして働かなければならない定めなのだ。
出勤時間が近づくと、おれは少し早めに着替えを済ませてタイムカードを押した。同じ中番の連中はまだ誰も来ていなかった。ふいに何かが聞こえたような気がして耳を澄ますと、裏手の通用口を出たところで誰かが怒鳴っていた。
見て確かめるまでもなかった。洟垂れデブの模糊山(もこやま)だ。
相手は万賀一のようだった。やつ自身の声がしなくてもすぐに分かった。模糊山より立場が下で、年齢が下で、性格が軟弱な万賀一は、模糊山の奴隷となるべき条件をことごとく兼ね備えていたため、以前から格好の餌食になっていたのだ。
おれはくすくす笑いながら通用口に近寄っていき、話を盗み聞きした。
「おれだって急がしいんだからいちいちバイトの面倒まで見てらんないだろうが。そうだろうが、あ? バイトのことはバイトがちゃんと責任持ってやってもらわないとおれが困るんだよ。ミスがあればおれの責任にされんだよ。分かってるよな、あ? 誰がやるんだよ? お前がやるんだよ。指示待ってないで自分で考えろよ。何のために頭がついてんだ、バカ! いつやるんだよ? 今だろうが!」
おれは吹き出しそうになって両手で口を押さえた。
運動部出身でやたら声がでかいことだけが取り柄の模糊山は、こんな内容の薄っぺらい話を延々十分も二十分も怒鳴り続けることができるのだ。まったくたいした才能の持ち主というしかなかった。
それを黙って聞き続ける万賀一も万賀一だった。こんな何の対応力もないやつがお笑い芸人を目指していたというのだから、まったくふざけた話だった。そんなだからその道も諦めるしかなかったのだろう。
一発蹴飛ばしてみろ、それだけで相手の態度は変わるから。そう助言してやったこともあったが、やつは試そうともしないのだった。ガンジー主義でも気取っているのか、あるいは真性のマゾなのか知らないが、まったく処置なしだった。
万年契約社員で一日でも早く正社員に昇格したい模糊山にとって、バイトのくせに無駄に仕事ができる万賀一の存在は目障り以外の何物でもなかった。万賀市は、フリーターという点ではおれと同じだったが、のらくらやるおれなんかとは違って文句も言わずに時給以上の働きをする男だった。できるやつなのだ。しかも大学も出ていた。この職場の標準からすると、それはほとんど天才的なことだった。
模糊山はもちろん高卒だ。やつ自身が経歴を明かしたわけではないが、ちょっと振る舞いを見ればそんなの簡単にお見通しだった。
運動などとっくにやめ、今やぶくぶく太る一方となったこのいけ好かない洟垂れデブは、己の取り柄を思う存分発揮して目下のものをどやしつけることを自らの使命としていた。ここで働く連中はみんなやつの言いなりだった。どこでもそうだが、声のでかいやつが上に立つのだ。人は普通、相手に一発蹴りを入れるよりは黙って服従する方を選ぶものだ。こういうところにいる連中は全員、人の格好をした犬みたいなものだった。
おれの場合は少し事情が違った。初対面のときにたまたま手に持っていたラーメンの五食パックを投げつけてやって以来、模糊山はおれにへりくだった態度を取っていた。記憶が定かではないが、白桃か何かの缶詰も投げたのだったかもしれない。顔面めがけて思いっ切り。暴力に訴えるなんてよくないことだが、体が勝手に動いてしまったのだから仕方なかった。だが、それでやつもおれにナメた真似をしたらどうなるか分かったのだ。やつ自身も犬と同じなのだ。
いずれにしろ、模糊山のようなやつは死んで当然だった。誰もがあんなやつ死ねばいいのにと思っていた。うそじゃない。ちょっと前におれが同僚たちに「あんなやつ死んで当然だよな」と話を振って回ったところ、誰一人として否定も反論もしなかった。ただ、自分で手を下したくはないというだけなのだ。まったく虫のいいやつらだ。
模糊山が死んだところでやつが飼っているインコでさえ悲しまないだろう。インコなんか飼っているかどうか知らないが。
「おはようございまーす」
おれと同じ時間に入る学生バイト二人が来て、能天気に挨拶しながらタイムカードを押した。
「だからできないんだったらお前が残業してでもやれよ!」
模糊山が怒鳴る声が聞こえて、やつらはすぐに状況を察した。
二人は、触らぬ神に祟りなしとばかりにそそくさと売り場に出ていった。おれはにやにやしながらあとに続いた。
売り場で作業するときは、顔がすっぽり隠れるようなでかいマスクがマストアイテムだった。スーパーの客というのは、こちらが仕事しているのもお構いなしに、やれ粉チーズはどこだ、餃子の皮はどこだ、キッチンペーパーはどこだと訊いてくる。でかいマスクはこちらの表情を隠し、こういううざい質問をシャットアウトするのに役に立つのだ。
出勤早々つまらないパワハラ現場を見せびらかされては、働く気など起こるはずもなかった。恵野茶子のことも頭に重くのしかかっていた。あの女は遅い朝飯を食べて今頃二度寝を決め込んでいる頃だろう。このままだとおれは二日続けてネットカフェで寝る羽目になるし、そうすればまた余計に金がかかってしまう。
おとぎ話の外に出てみれば、あの女もただのメス豚にすぎなかった。すみやかに部屋から出ていってほしかったが、おれは口下手だから直接言うとまた揉めそうだった。厄介な女だ。おれはゆるゆると品出しをしながら、こちらの正当性をそれとなく主張するメールを送るなどして穏当に済ませられないか考えてみた。うまくいくイメージはなかなか沸いてこなかった。
バックヤードで飲料の入った重い段ボールを台車に積みあげているとき、私服に着替えた模糊山が社員二人に付き従うようにして帰っていくところに出くわした。そのうちの一人は副店長だった。バイトの間で使えないハゲと呼ばれている、使えないハゲだ。
模糊山はおれを見つけると、横にいる使えないハゲを意識しながら得意のでかい声で言った。
「あと頼むよ、峰打くん!」
上司の前でおれたちバイトを取り仕切っている風にしているところを見せられるのが嬉しくて仕方ないのだ。おれはやつに協力的なところを見せる気はなかったので、どんな返事もしなかった。
ついでに言っておくと、このスーパーの社員たちは誰一人として模糊山のことを相手にしてなかった。さらに、やつらは模糊山のパワハラについても見て見ぬふりをしていた。管理職も含めて全員がだ。そういうもんだ。そしてだ、模糊山もそうしたことを承知でやつらに取り入ろうとしているのだ。
社会の縮図とでも言うしかない、うんざりするような不毛な関係だった。
使えないハゲ御一行が帰っていくと、入れ違いに万賀市が戻ってきた。普段からマスクをしていない万賀一は、血の気の失せた顔を蛍光灯の明かりのもとに晒していた。その顔には、やつもまた「あとよろしく!」とか何とか言われたことがはっきりと書いてあった。そう、馴れ馴れしく肩を叩かれながら。おれたち犬は不条理コントと同等の現実を生きる宿命にあるのだ。第三者による笑い抜きで。
「万賀市」おれはやつに声をかけた。
「え?」
「今日泊めて」
「え、何?」
「今日。泊めて?」
「いや、ちょっと無理」
「無理?」
「ちょっと」
「マジ?」
「彼女いるし」
万賀市は夢破れてブラックバイトに甘んじているくせに、女と同棲などしているのだった。
「なんかあったんすか? 部屋に帰れないとか」
「いや別に。関係ねーし」
おれは個人的な事情を教えてやるつもりはなかった。
「ソファーとかで寝かしてもらうだけでいいんだけど」
「ソファーないんで」
「いや、例えばの話だけど。ダメ?」
「悪いけど」
「だよな」
おれはあきらめて話を変えた。
「万賀市ってバイトやめないの?」
「え、なんで?」
やつは意外そうな顔をした。模糊山の洟垂れデブに毎度毎度自尊心を踏みにじられて、いやにならないはずがなかった。それともこいつは本心では虐げられることを喜んでいるのだろうか。そういう気持ち悪いやつなんだろうか。
「お前、大丈夫か?」
おれは真性のマゾというのが何を求めているかなんて全然分からなかった。
「おれ、結婚しようと思ってんだよね」
万賀市が言った。話が飛躍しすぎていて言っている意味が分からなかった。
結婚する? とするとマゾではないのか? マゾも結婚はするのか? 相手はサドか? それともこいつは何か妙な宗教にでもはまっているのか?
おれはやつの目をよく見た。やつはおれを見返したが、その目はまるで何も映し出さないガラス玉のようだった。この男は何かずれてしまっていた。前からこんなやつだったかどうか、おれにはよく分からなかった。パワハラのされ過ぎでおかしくなってしまったのかもしれない。おれは万賀市と慎重に距離をおくべきだと判断した。
「なんかそんなことになりそうでさ」やつは一人で含み笑いしながら言った。
「その同棲中の彼女と?」おれは鳥肌が立つのを半ば楽しみながら話を合わせた。
「そう」
「マジで?」
「資金とか貯めなきゃいけないし」
「式とか挙げたいんだ?」
「まぁ何でも金かかるから」
なんだかよく分からなかった。こいつはとち狂ってしまったわけではなく、ただ視野が狭いだけの愚か者なのだろうか。元お笑い芸人志望だし、もしかしたらそうなのかもしれない。人に夢を与えるような華やかな職業の志望者には、かなりの割合でおかしなやつがいるものだから。自意識過剰だったり、思い込みが強すぎたりして、救いがたいようなやつが。これが差別に当たらないといいのだが。
万賀市の女というのは、おれも何度か見かけたことがあった。やつと一緒にこのスーパーに買い物に来たことがあるのだ。見た目はよくも悪くもないが、特別気を引かれるような女ではなかった。縁の太い眼鏡をかけ、肩まで伸びた髪を薄茶に染めた女だ。いつか遠目に会釈したことがあったが、愛想は悪くなかった。印象に残っているのはそれくらいだった。確かトリマーの仕事をしていると万賀市が言っていたはずだ。よく知らないが、動物の床屋みたいなことをする仕事だ。
「もう、なに、言ってあるわけ、彼女に?」
「まだだけど。ある程度金貯めてから」
「断られたらどうすんの?」
「え?」
万賀市はその可能性を考えてないみたいだった。たいした人生設計だった。
「でも彼女にはおれしかいないし」
逆だろと思ったが言わないでおいた。万賀市こそ彼女なしにはやっていけないのだ。言ってやってもよかったが、下手するとパワハラより傷つくかもしれなかった。こいつが自分で現実に直面して傷つくまで放っておくしかない。
「彼女を幸せにするのがおれの夢だから」
「へぇ」
言葉もなかった。こいつ、やべぇやつだなとおれは思った。このバイトで知り合って一年くらいの付き合いで、はじめてこいつという人間を知ったような気がした。
おれはやりかけていた飲料を品出しし、続けて米を品出しした。重いもの続きで腰にきた。飲料は1・5リットルなら8本入り、2リットルなら6本入りで、いずれにしてもダンボール一箱が12キロだ。米は2キロ米、5キロ米、10キロ米をそれぞれ2、30袋は新たに出す。スナック菓子の品出しとか、乳製品や調理パンの見切りだとか、もっと楽な作業もあるが、ぼんやり考え事をしているうちに他の連中に取られてしまったのだ。
今夜このあとどうすべきか、何のアイデアも思いつかないまま終業時間になった。おれたちがタイムカードを打つときになっても、万賀市はバックヤードで在庫整理と発注をやっていた。いつものことだが、模糊山に言いつけられたのだ。
「残業代つくし」
万賀市は上がろうとするおれにわざわざ声をかけてきた。そんなこと知ったことではなかった。
「全然大丈夫だから」
万賀一は例のガラス玉のような目玉で迫ってきた。おれはぞっとしてロッカーに逃げ込んだ。二秒で着替えてとっとと帰った。