セカンドチャンス
『セカンドチャンス』
Tが捕まったのは一人逃げ遅れたせいだった。北関東の小さな村にある太陽光発電施設から銅線を盗もうとして、土竜の巣穴につまずき足を挫いてしまったのだ。Tは若い頃にとある文学賞を受賞したこともある小説家だった。三冊ある彼の著作はいずれも小学校の保護者便り並みの発行部数で、評判もすこぶる悪く、出版社からはとっくにお払い箱にされていた。警備や清掃などの底辺アルバイトで己の無能さを思い知ったあと、リゾート地の季節労働を渡り歩き、近年では養鶏場で鶏たちの世話をして暮らしていた。小説など、もはや書きもしなければ読みもしなかった。ある日、Tは町役場にガソリンを撒いて放火騒ぎを起こしたきり姿を消した。ネットで知り合った共犯者たちとケチな窃盗事件を起こしたのは、それから約八カ月後のことだった。
「ここから逃がしてあげる」拘置所に面会に来た初めて会う女が言った。三十代後半の不美人で刑事だという。Tは不審げに女を見返した。「あなたの本は全部読んでる」それはもっと信用できなかった。「閉所恐怖症のあなたに刑務所が耐えられる?」公言したことがない持病をなぜ知ってると疑問を挟む暇もなく、女は「本物の読者なら分かる」と断言した。確かに、閉所も規則に縛られることも苦手な彼に刑務所暮らしなど不可能だった。だが、刑事と言えど、どうやって逃がすというのか。女がにんまり笑って「ここからよ」と股を開く。下着をつけていなかった。Tは頭を鷲掴みにされると、二本指でぐいと押し広げられた彼女の性器に吸い込まれていった。蜘蛛の巣が張った狭い穴倉を潜り抜けると、女の部屋に出た。倒れ込むTの傍らに件の女がしゃがみ込み、本物だぁと無邪気に笑った。そして、Tの足に手錠をかけ「書いて?小説」Tの直観がここで断ったら死ぬと訴えた。
書くふりをするしかなかった。幸い、執筆には何ヵ月もかかるという言い分は通ったが、常に女の機嫌を損ねないよう振る舞わねばならず、夜には騎乗位で精子を搾り取られるという苦行の日々だった。鶏の方がまだましだった。配慮の足りない行為のせいで女はすぐに身籠り、瞬く間に子が生まれた。女は子を省みず、世話はすべてT任せだった。ある日、まだ首も座らない子が文字を書いた。天才か。いや、それどころではない。子は文字を連ねて言葉を作り、文章にまで仕立てたのだ。よく見れば小説の出だしだった。子は続きを書いて止まらず、Tは傑作の予感に眩暈がした。彼自身がかつて理想とした小説を体現したような傑作になる。これは、俺の小説だ。
Tはこっそり出版社と連絡を取り、自分を覚えている編集者を探し出した。子が落書き帳を何枚も使って書いた文章を清書し、己の名を署名して一章分の原稿を送った。すぐに反応があった。「続きは?」まぁ書いてますがね。「会議にかけてみましょう」文芸誌への連載が決まった。怒り狂ったのは女だった。「これは私だけのものなんだよ!」Tの著作を読んでいるほどなのだから、女が文芸誌をくまなくチェックしていることは気づいて然るべきだった。どんな説得にも耳を貸す様子はなかった。育児のために拘束を緩められていたTだが、女は今度こそ彼の自由を完全に奪おうとした。揉み合いになり、気づくとTは女を絞め殺していた。女は返品にあった本みたいにぴくりとも動かなかった。その間も子は小説を書き続けていた。床には噛み潰したおしゃぶりがいくつも転がっていた。
「バレバレだよ」かつてTの本を担当した編集者Yが絡んできた。当時「売れるかどうかは結局性格。あんたは性格にも人間性にも大いに問題がある」と人格否定をしてTを精神的に追いつめた男だった。彼が小説をやめたのはこの編集者のせいもあった。「どうやったか知らないが、あんたにあの小説は書けっこない。あれはあんたが書いたものじゃない」Yは鼻で嗤って決めつけ、己の推測を補強する嫌味ったらしい言説を喋り続けた。Tは彼の言葉の裏にある嫉妬を見抜き、小説が生成される現場を見せてやろうと家に誘い出した。生後数か月の赤子が落書き帳に一文字ずつ字を書いていく姿に、Yは絶望の闇に落ちたとも奇跡を目の当たりにしたともつかない表情で目を潤ませ、その場に膝をついた。Tは背後から鉢植えを振り下ろし、彼の脳天を割った。
小説が出版されると瞬く間に話題をさらった。有名な文学賞の受賞も決まった。そうなると黙ってないのが十数年前に縁を切ったTの両親だった。彼らは非合法的なやり方でTの住所を突き止め、ヒット作が生み出す金にたかりに来たのだ。玄関ドアの叩き方でもう彼らだと分かった。室内の空気を震わせるその震動により、幼少期に受けた虐待の記憶が一挙に甦った。Tの心は決まった。彼の両親は玄関の向こうで突如体から炎を発すると、一瞬のうちに燃え上がり、脛から下だけを残して死んだ。
Tは子を連れて旅に出た。子は休む間もなく二作目を書き出していたが、それも傑作になることは疑いなかった。だが、Tが行く先々で人を殺す羽目になることも、なぜかまた避けようがなかった。地方都市のあるビジネスホテルでのこと。Tが己の不幸を嘆きながら体をベッドに投げ出すと、子が反動でベッドから跳ね落ちて床に頭を強打した。救急医は子に外傷はなく、脳にも異常はないと言った。一方、この年齢でまだ発話がないのは自閉症の可能性が高いと示唆した。その日から子は一切小説を書かなくなった。何度ペンを握らせてもすぐに放り出してしまった。Tは自ら続きを書こうと試みたが、ただの一行も書けなかった。彼は別荘地を管理する住み込みの仕事を見つけ、子と二人で世間から孤立して暮らした。小説は棚の奥にしまい込んだきり二度と取り出さなかった。ときどきネットで割りのいいバイトを見つけると、犯罪と知りながら手を染めて家計の足しにした。