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7.真心の御供
中山家が谷底を通っておられた頃のこと。
ある年の暮れに、一人の信者が立派な重箱に綺麗な小餅を入れて、
「これを教祖にお上げして下さい。」と言って持って来たので、
こかんは、早速それを教祖のお目にかけた。
すると、教祖は、いつになく、「ああ、そうかえ。」と仰せられただけで、一向御満足の様子はなかった。
それから2、3日して、又一人の信者がやって来た。
そして、粗末な風呂敷包みを出して、
「これを、教祖にお上げして頂きとうございます。」と言って渡した。
中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡餅が入っていた。
例によって、こかんが教祖のお目にかけると、
教祖は、
「直ぐに、親神様お供えしておくれ。」と
非常に御満足の体であらせられた。
これは、後になって分かったのであるが、先の人は相当な家の人で、
正月の餅をついて余ったので、とにかくお屋敷にお上げしようと言うて持参したのであった。
後の人は、貧しい家の人であったが、やっとのことで正月の餅をつくことが出来たので、
「これも、親神様のお陰だ。何は措いてもお初を。」というので、
そのつき立てのところを取って、持って来たのであった。
教祖には、二人の人の心が、それぞれちゃんとお分かりになっていたのである。
こういう例は沢山あって、その後、多くの信者の人々が時々の珍しいものを、教祖に召し上がって頂きたい、と言うて持って詣るようになったが、
教祖は、その品物よりも、その人の真心をお喜び下さるのが常であった。
そして、中に高慢心で持って来たようなものがあると、
側の者にすすめられて、たといそれをお召し上がりになっても、
「要らんのに無理に食べた時のように、一寸も味がない。」と、
仰せられた。
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このご逸話で教えていただくのは、物の珍しさや価格ではなく
大切なのは、
「真心」を見ておられるということです。
私たちがさせて頂く「お供え」も、金額ではなく、精一杯の真心が込められているか、ということです。
あるからする、のではなく、ない中を運ぶ心を受け取られています。
何を置いても、どんないただき物も「お初」をお供えするといった
自分たちが口にするより先に神様に…という意識が大切だとつくづく思います。
特に子供たちに、まずは神様に「お供え」という心を映していくことが大事なことですね。
親神様はその心を一番喜ばれるということを伝えていきたいと思います。