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令和日本紀行 -16:陸奥国(盛岡周辺)の旅

今まで訪れた日本国内の地域の地理・歴史について、記録しています。今回は、「12:陸奥国(青森県南部地方)」の続編となります。岩手県の県庁所在地盛岡市周辺と同市出身の偉人原敬について、書きます。

陸奥国は、令制国としては、現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県と秋田県の一部に当たる広大な国であった。「古事記」では「道奥」、「日本書紀」では「陸奥」と表記されていたが、どちらも「みちのおく」と呼ばれ、都より遠い奥の国と認識されていたようだ。(再掲)

現在の岩手県は、南部藩の一部と伊達藩の一部で構成されていた。その名称は、現在の盛岡市を中心とする「岩手郡」に由来し、「住民の悪鬼追討の祈りに対し、人々の信仰を集めて『三ツ石さま』と呼ばれていた大岩がそれを懲罰し、二度とこの地を荒らさないという鬼の確約を岩の上に手形で残させた」との伝説に基づいているらしい。

かつて、この地域を治めた南部氏は、鎌倉時代から明治時代まで続いた名門である。ただし、寒冷な気候により米の収穫量には恵まれず、江戸時代に幾度となく飢饉に襲われるなど、領民の生活は苦しかった。
明治元年の戊辰戦争での南部藩は、奥羽越列藩同盟の一部として、新政府側についた久保田藩に攻め込んだ(秋田戦争)が、劣勢を悟り新政府に恭順した。
そして、財政難から、最も早く政府に廃藩を自ら願い出る藩の一つとなり、明治3年に盛岡県となり、明治5年に岩手県に改称した。

岩手県公会堂は、1927年竣工したネオゴシック様式の公共施設

さて、盛岡市から見える岩手山は、岩手県のランドマークである。その麓に設立された小岩井牧場は、日本最大の民間の農場であり、岩手山の美しさを堪能できる。
私は、「小岩井」は古い地名であると思っていたが、今回、牧場の実現に尽力した3人の名字を並べたものであることを知った。すなわち、日本鉄道副社長の小野義眞、三菱社社長の岩崎彌之助、鉄道庁長官の井上勝の3名の頭文字をとったものである。
現在も小岩井農牧株式会社が存在しており、本社は東京丸の内の三菱ビルに置かれている。

初秋の小岩井農場

小岩井牧場で、ミルクや牛肉を楽しんだ後、盛岡市に向かう。市街地に入り、盛岡城跡(岩手公園)に行く前に「原敬記念館」に立ち寄るのがよい。原敬の生家の隣接されている。

原敬の生家

原敬(はらたかし)(1856年- 1921年)は、爵位を断った平民宰相として有名だが、より重要なことは衆議院議員で初の内閣総理大臣になったことだ。
原家の出自は近江浅井氏であり、江戸時代に南部氏に仕えた家系だそうだ。最初の名前は健次郎といい、14歳まで藩校作人館で学んだ後、単身上京した。その後、敬と改名した後、司法省法学校に2番目の成績で入学。寄宿舎の待遇改善を求めたため放校処分を受けたが、それを機に郵便報知新聞社に入社し、言論人としてのキャリアを積む。

井上馨の知遇を得た原敬は、外交官となり、天津、パリの駐在を経て、39歳で外務次官に昇進した。その後、立憲政友会の創設に関わり、第1次西園寺内閣、第2次西園寺内閣、山本権兵衛内閣の大臣なり、1918年に内閣総理大臣への就任の大命が下る。
原敬は、教育政策、交通政策、選挙制度の改正に加えて、1919年1月から開始された第1次世界大戦後のパリ講和会議に、西園寺公望を首席全権、牧野伸顕を全権とする全権団を送った。

1921年11月4日、東京駅において大塚駅転轍手であった中岡艮一に刺殺された。謎が多い暗殺事件であるが、原が普通選挙法に消極的であったこと、尼港事件が起こったことなどに加えて、ワシントン海軍軍縮条約の協議における日本政府の弱腰を憎まれたという説もある。
現代日本でも、衆人の前で、元内閣総理大臣が銃殺される事件が起きた。原敬の暗殺から数えて101年後のことだ。

原敬の写真

さて、原敬記念館で興味深かったのは、以下の2点である。
(1)原敬の号「一山」は、東北に対する蔑視に敢然と挑戦する姿勢を示した
 戊辰戦争において薩長を主体とした官軍は、「白河以北、一山百文」と放言し、「白河の関」以北の陸奥国つまり現在の東北地方は、経済的な価値が低いとした。
 原少年は、故郷を馬鹿にした西国の人々に対する意地を見せるために、単身上京し、立身出世を目指したのではないだろうか。

(2)自由民主党は立憲政友会と立憲民政党の系譜を踏襲しているらしい
 政党政治家の草分けである原敬は、立憲政友会の立役者であった。原の死後、昭和時代初期の経済恐慌の中で、立憲政友会と立憲民政党との間の激しい政争が起き、国民は政党政治に愛想をつかし、軍国主義に傾倒していった。
 戦後、保守政党の間で合従連衡が起きたが、1955年に自由党と日本民主党が自由民主党を結成し、万年野党の社会党等との間のバランスがとれた国内政治の下で高度成長を実現した。
 しかし、令和時代においては、自由民主党の内部が完全に分裂しており、他方、国会における与野党間の政策論争の基となる対立軸を喪失している。
 安全保障、経済政策等を真剣に議論するため、与野党の再編が必要かもしれない。

最後に知りたいこと。
米ソ冷戦後の日本政治において、二大政党制を目指した小沢一郎氏は、故郷の英雄である原敬を見習おうとしていたのだろうか。残念ながら、私には、小沢氏に会う機会もないし、その思想を示す書籍も持たない。
どなたか、陸奥国が生んだ政党政治家の思想が、その歴史や文化を背景しているのかどうか、全く関係ないのか、ご教示いただけると幸いである。

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