音楽家と歴史・社会 -19: アメリカでのマーラーの活躍
主にクラシック音楽に係る歴史、社会等について、書いています。前回は、グスタフ・マーラー(1860年 - 1911年)の妻アルマ(1879年 – 1964年)の波乱の生涯を採り上げました。今回は、ニューヨーク・フィルハーモニック(New York Philharmonic)の指揮者時代のグスタフ・マーラー(以下「マーラー」)について、書きます。
先週、アメリカ西海岸に出張した。仕事の合間、クラシック音楽に対するアメリカ人の認識を考察した。結論としては、クラシック音楽の愛好家は、激減している。特に一般庶民の関心はほとんど無くなっているだろう。アメリカン航空の機内エンターテイメントでも、クラシック音楽のチャンネルは少なかった。
一般のアメリカ人が想起するクラシック音楽とは、今も西欧音楽ではないだろうか。それは19世紀後半以降に経済成長したアメリカ人が猛烈に求めた、多くの移民の出自である欧州への羨望ではないか。そこで、出てくるのは、ドヴォルジャークとマーラーなのだが、ここでは、マーラーに絞る。
1909年、マーラーは、ニューヨーク・フィルハーモニックの常任指揮者として迎えられ、演奏のレベル向上に大きく貢献した。メトロポリタン歌劇場の指揮者としても活躍した。マーラーは、ウィーン官邸歌劇場監督を引退するときに、多額の年金を受け取っていて、生活には不自由しなかったが、妻アルマを伴い、ヨーロッパとの間を行ったり来たりしながら、20世紀初頭の音楽文化の世界レベルの発展に寄与した。
あまり知られていないが、マーラーは、アメリカの作曲家にも少なからず影響を与えている。例えば、チャールズ・アイヴズ(1874~1954)の交響曲第3番( キャンプ・ミーティング)の楽譜を購入し、その支援を目論んだらしい。
指揮者としてのマーラーと、その後にメトロポリタン歌劇場の指揮者となったアルトゥーロ・トスカニーニとの関係は、微妙だった。これは、アルマが1962年のラジオ対談で語ったことだ。
いずれにせよ、20世紀初頭のアメリカにおいて、有力オーケストラでの常任指揮者は、欧州の著名な指揮者を迎えるのが普通であった。
アメリカ人として国際的にも知られる指揮者が登場するのは、第2次大戦後のこと。レナード・バーンスタイン (1918年 - 1990年)だ。このユダヤ系アメリカ人が、指揮者として、最も得意としたのが、マーラーの交響曲であった。宗教が関係あるかどうかは、不明だが。
映画「TAR/ター」の終盤で、ベルリン・フィルから追放された主人公が、ニューヨークの下町の実家で、師匠(これはフィクション)のレナード・バーンスタインが司会をしていたCBS放送の「オムニバス」(これはドキュメンタリー)のビデオを観て、涙ぐみ、自らの音楽のための再起を図る。
行先は、東南アジアのフィリピン。演奏曲は「モンスター・ハンター」。
私は、時代、立場(国籍、性別、宗教等)は違えども、楽団員等との妥協をせずに、新世界に旅立ったマーラーをモデルにしていたと確信した。
さて、現代アメリカのクラシック音楽については、構想を改めて、別の機会に分析したい。
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