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音楽家と歴史・社会 -39: メンデルスゾーンの晩年を支えた女性たち
主にクラシック音楽に係る歴史、社会等について、書いています。
今年10月にフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809年-1847年)(以下「メンデルスゾーン」)に関心を持ち、彼の生涯とライプツィヒについて調べてきて、あっという間にクリスマスまで9日間を残すのみです。昨日、無知な私は、有名な讃美歌「天には栄え」の原曲が、メンデルスゾーンの「グーテンベルク・カンタータ」の第2曲であったということを知りました。”Logophile”さんの投稿に対して、心から敬意を表します。
さて、今回は、メンデルスゾーンを語る際に絶対外せない女性たちのうち、姉ファニー、妻セシル、そして晩年に共演した歌手ジェニー・リンドについて書いてみたい。
前回までに、姉ファニー(1805-1847)とメンデルスゾーンが、幼少期にベルリン・ジングアカデミーで活躍したことを紹介した。2人の天才は、音楽のみならずあらゆる分野において高い能力と知性を備えており、他の人々には理解できない、深い絆で結ばれていた。
父アブラハムと母レアが、ファニーを音楽家にすることを躊躇わなかったならば、おそらく、クララ・ヴィーク(後にシューマン姓)と並ぶ、欧州で最高のピアニストとして知られるようになっていたであろう。作曲家としても多くのピアノ曲、声楽曲その他を残しており、20世紀の末からジェンダー研究の隆盛もあいまって、彼女の作品の再発見がトレンドとなっている。
ファニーは、16歳の時に、画家のヴィルヘルム・ヘンゼルと出会った。当時27歳のヘンゼルは、ファニーに魅せられたが、アブラハムとレアの思惑もあり、二人が結婚できたのは、7年後の1829年10月3日であった。
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しかし、ヘンゼルは、気づいていた。ファニーが義弟メンデルスゾーンに見せる愛情は、夫である自分に対してよりも大きいことを。ヘンゼルは、寛容さを見せ、二人の親密な関係を見守った。
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1837年3月28日、メンデルスゾーンは、フランス人牧師の娘、セシル・ジャンルノーと結婚し、家庭を築いた。子供は、カール(Carl)、マリー(Marie)、パウル(Paul)、リリ(Lili)とフェリックス(Felix)の5人。フェリックス(Felix)は早く他界したが、カール(Carl)は歴史家、パウルは化学者、マリーとリリはそれぞれ著名人と結婚するなど、一家揃っての高IQのエリートであった。
夫婦仲もよかったようだ。
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博物館「メンデルスゾーンの家」に展示されたフィギュア
さて、メンデルスゾーンの晩年を鮮やかに彩ったのは、「スウェーデンのナイチンゲール」こと、歌姫ジェニー・リンド(1820年-1887年、本名ヨハンナ・マリア・リンド)である。
1838年のスウェーデン王立歌劇場でのウェーバー「魔弾の射手」におけるアガーテ役で人気が出たジェニー・リンドは、美貌と美声をあわせ持つ欧州で最も著名なオペラ歌手となった。1843年デンマークで公演した彼女に一目ぼれしたのは、ハンス・クリスチャン・アンデルセン。これは、片思いに終わる。
ジェニー・リンドは、シューマン、ベルリオーズなど名だたる作曲家から称賛されたが、弟子入りまでして、最も親密な関係になったのは、メンデルスゾーンであった。一説には、彼女は、知性豊かでかつ富裕な一族のメンデルスゾーンにあこがれていたとも言われる。他方、メンデルスゾーンは、手紙に「私はすっかりジェニー・リンドの虜です。・・(中略・・その歌はおそらくこれ以上の離れ業はないだろうというくらい信じがたい高度な技術です」と書いている。
1845年12月、ジェニー・リンドは、メンデルスゾーンの指揮でライプツィヒのゲヴァントハウスで初出演した。ライプツィヒに滞在した彼女は、セシルとも会っているが、セシルがリンドに対して好意的な態度を示したかどうかは不明である。周囲の人々は、緊張したのではないだろうか。
1847年、ジェニー・リンドは、メンデルスゾーンからの誘いもあり、イギリスでの公演活動に入った。同年5月4日にヴィクトリア女王がお出ましになった女王陛下の劇場(Her Majesty's Theatre)での演奏会は大成功であった。この劇場は、1830年代に、メンデルスゾーンが指揮者として活躍し、「フィンガルの洞窟」や交響曲第4番「イタリア」を初演したことで有名である。
某Webサイトの記事によると、ジェニー・リンドのデビューとも言える公演の夜、メンデルスゾーンは、彼女に対して賛辞を述べた後、ライプツィヒにいる子供が病気なので、自分のピアノ演奏(ベートーヴェン作曲ピアノ協奏曲第4番ト長調と思われる)が終われば、急遽帰国すると告げたとのこと。その後、ジェニー・リンドは、メンデルスゾーンに対する思慕をぶちまけたらしいのだが、これらは、ほぼ空想の産物だろう。実際には、彼女は、翌年、フレデリク・ショパンとも親密になっている。
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ジェニー・リンドの女王陛下の劇場での公演の10日後、メンデルスゾーンの姉ファニーが脳卒中で急死し、精神的に大きなショックを受けたメンデルスゾーンも、同年11月4日、同じ病で亡くなった。
近年の解釈では、鉄道など交通機関が発達していない当時の欧州において、姉ファニーと同様の頭痛の持病を持ちながらも、イタリア、スイスなどを旅行しまくり、10回も渡英したことにより、疲労が限界に達したと考えられている。
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短い人生ながらも、愛する家族、偉大な友人、弟子たちに囲まれて幸福だったメンデルスゾーンが、ユダヤ人であった故に、後に不当に評価されたことについては、稿を改めて書きたい。