「清和源氏」の歴史④
「鎌倉殿の13人」で脚光を浴びている「清和源氏」にまつわる逸話を、何回かに分けて書いています。
①で、「源氏」も「平氏」も、もとは天皇の御子の皇親であり、子供、孫の世代に皇籍を離脱して、臣下になる際、「姓」を下賜されたことを示した。
「源氏」は、祖となった天皇によって21流に分類される。しかし、近世以降は、武士となった系統のうち清和天皇の子孫「清和源氏」を指すことが多いと思われる。
「鎌倉殿の13人」で、存在感を急速に増している源仲章は、宇多天皇の第九皇子の敦実親王の系統「宇多源氏」である。これの主流は、京に留まり芸能の途を選んだ。今夜の回では、北条義時に隠居を勧め、自分が執権となると言い放ったが、裏を返せば、征夷大将軍にはなれないと自覚していたのかもしれない。
話を「清和源氏」の由緒に戻そう。その主流は、源頼信以降の「河内源氏」であり、源頼義、義家の父子において、最初の頂点を迎える。前九年の役・後三年の役である。
前九年の役は、陸奥国で勢力を伸ばした安倍氏が朝廷に対する貢賦・徭役を拒否したことから起きた。律令政治が行き詰まっていたからだ。源頼義、義家父子は、安倍貞任、宗任兄弟の抵抗に苦戦するが、1062年、清原氏の支援を受けて、安倍氏を降伏させ、反乱を鎮圧した。
後三年の役は、清原一族の内紛が原因として起きた。陸奥守兼鎮守府将軍となった源義家は、1087年、藤原清衡を援助して清原家衡を滅ぼした。
しかし、朝廷はこれを私闘と見なし、源義家には行賞を与えなかった。他方、藤原清衡は、陸奥国・出羽国の押領使となり、奥州藤原氏の繁栄の礎を築いた。これが、後年にわたって因縁となる。
源義家にとって、父とともに目指した陸奥国の支配を巡る野望は頓挫したのだ。この背景には、前年から始まった白河上皇による院政があった。摂関政治に対する批判が、藤原氏と結託した武力集団である「河内源氏」に向けられたと考えられている。
しかし、源義家は、自分の家来達に私費で行賞を与えたことにより、かえって名声を高めることになった。曽祖父以来の蓄財があったのだろうか。
そして、源義家は、東国の小領主達から荘園の寄進を受けることになった。朝廷は、これを禁じたが、義家の声望を無視できず、1098年、武士としての最初の昇殿を許した。
ようやく「清和源氏」の栄光の時期が訪れた。しかし、間もなく院政との暗闘の時代の幕が開くのだ。
(つづく)
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