音楽家と歴史・社会 -8: チャイコフスキーとウクライナ
主にクラシック音楽に係る歴史、社会等について、書いています。今回は、ピョートル・チャイコフスキー(1840年-1893年)の祖先はウクライナのコサックであること、妹アレクサンドラとの交流で、定期的にウクライナを訪問していたことなどについてです。
明日、ロシアによるウクライナへの侵攻開始から1年経った日を迎える。
チャイコフスキーという姓は、 伝統的なウクライナ苗字であるチャイカ(「かもめ」を意味する)を改めた姓であり、ピョートル・チャイコフスキー(以下「ピョートル」と呼ぶ)の祖父の先祖は、ウクライナの現在のポルターヴァ州に住んでいたらしい。
ピョートルは、ウラル地方ヴォトキンスクにおいて、鉱山技師(軍中佐)の父親イリヤと、フランスに出自を持つ母親アレクサンドリア(後妻)の7人兄弟の次男として生まれた。ピョートルは、妹のアレクサンドラ、双子の弟アナトーリーとモデストとの仲は良かった。
5歳からピアノを習い始めて音楽的才能を示したが、14歳の時に、母アレクサンドラがコレラで死去し、大きな打撃を受け、音楽にさらに傾倒するようになった。
ピョートルは、法律学校を卒業し、法務省に文官として就職したが、音楽への熱い思いを捨てきれず、アントン・ルビンシテインの知遇を得て、ペテルブルク音楽院にて専門的な教育を受けることとなる。
他方、妹のアレクサンドラは、ウクライナのカーメンカ(カーミアンカ)の大貴族ダヴィドフ家に嫁ぐ。ピョートルは、この地が気に入り、1870年代には毎年のように訪れた。
1871年に作曲された弦楽四重奏曲第1番ニ長調 作品11は、第2楽章の「アンダンテ・カンタービレ」が有名。ピョートルがカーメンカで聴いたウクライナ民謡を元にしたものと言われている。
50年ほど前の私事で恐縮だが、奈良の耳成山の麓の小学校での下校時間には、この曲が流されていた。哀愁を奏でるメロディは農村の夕暮れに似合っていたことを、今も覚えている。
また、交響曲第2番ハ短調作品17も、カーメンカに滞在中に作曲された。ウクライナ民謡の旋律を取り入れたこの交響曲の愛称は「小ロシア」だが、これは当時のウクライナ地方の呼称らしい。(政治家等公人は、SNSなどでは書きにくい?)
さて、ロシアのウクライナ侵攻に対する非難から、チャイコフスキーの楽曲を取りやめる動きもあるが、個人的には反対だ。ウクライナとロシアの長い歴史は、コサックが活躍した時代以前に遡る。この地域の民謡、音楽を語る上で、お互いの民族間の影響は計り知れない。そもそも、「キエフ音楽院」の正式名称は「ウクライナ国立チャイコフスキー記念音楽院」だ(←変えられてないですよね?)。
とにかく、私は、音楽、美術、舞踏など芸術の世界においては、国籍や民族による差別はなくすべきと思う。
カーメンカには、プーシキン・チャイコフスキー博物館があるらしい。いずれは平穏の時も訪れるはずだ。いつか行ってみたいと思う。
なお、ピョートルの私生活、ナジェジダ・フォン・メック夫人との交流、ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品35(いわゆる「チャイコン」)などについては、稿を改めたい。
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