「清和源氏」の歴史⑥
「鎌倉殿の13人」で脚光を浴びている「清和源氏」について書いています。
源(八幡太郎)義家には、息子が6人いた。早世した長男義宗のかわりに、次男義親が後嗣となる予定であった。
しかし、⑤で示した通り、源義親は、九州と出雲で「康和の乱」を起こし、平正盛に鎮圧され、斬首された。四男義国は、常陸国にて叔父の源(新羅三郎)義光と戦い、家督を継ぐことはなかったが、その子孫は土着して新田と足利に分かれた。彼らは南北朝の内乱で闘うのだが、かなり先のことだ。
結局、家督を継いだのは、三男義忠だった。この頃、白河法皇は、藤原摂関家と近かった「河内源氏」に代えて「伊勢平氏」を優遇した。このためか、源義忠は、実兄を殺害した平正盛の娘を妻に娶り、加えて、妻の弟の烏帽子親となり「忠」の字を与えて平忠盛(清盛の父)にするなど、白河院政と「伊勢平氏」に迎合していく。
これを良しとしない「河内源氏」一門の反発等を背景に、叔父の源義光が鹿島三郎に命じて、源義忠を暗殺してしまう。ちなみに、鹿島三郎は、口封じのため、生き埋めにされた。
当初、源義忠暗殺の下手人は、源義光の実兄の源義綱の子とその家人と推測されたため、源義親の四男(はっきりしない)為義が、源義綱の息子達を攻めて、近江国甲賀山で自害に追い込み、義綱を捕縛するという手柄を立てる。真犯人が源義光であったことが判明したのは、かなり後らしい。
一連の「河内源氏」の血で血を洗う内紛は、皆の名前が似ていてわかりにくい。そもそもの原因も理解困難である。白河法皇の策謀があったのかも知れない。
この暗黒史を踏まえると、源頼朝が弟達を粛正していったことは、異常ではなく、前例に習っただけだと思えてくる。また、後白河法皇も、白河法皇の黒い手を研究していたのかもしれない。
さて、親族内闘争で生き残り、新たに「河内源氏」のリーダー?になった源為義は、1124年に検非違使を任ぜられるが、その後長く官位が上がらず、不遇を囲う。その理由としては、本人と郎党による相次ぐ狼藉行為があった。例えていえば、暴力団が警察を兼ねていたようなものだろうか。
時代が鳥羽上皇による院政に移る中、源為義の嫡男義朝が力をつけ始める。平家と源氏が拮抗するようになったのは、藤原摂関家の内紛とともに、鳥羽上皇の息子達の争いが関係している。
1156年の保元の乱は、武士が政治の表舞台に出る最初の幕開けだ。
(つづく)