音楽家と歴史・社会 -16: ベートーヴェンの交響曲とナポレオン戦争
主にクラシック音楽に係る歴史、社会等について、書いています。今回は、19世紀初頭のナポレオンの時代に、聴覚を喪失しつつも、傑作の森(ロマン・ロラン曰く)を生んだルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770年 - 1826年)の壮年期について、書きます♪
今日も、某アマオケを聴きに行った。交響曲第4番変ロ長調作品60。ロベルト・シューマンが「2人の北欧神話の巨人の間にはさまれたギリシアの乙女」の称した本曲は、3番「英雄」と第5番「運命」の合間の1806年に作曲された。演奏時間が短く、楽器編成も最小規模で、第5番で史上初めて導入されたピッコロやトロンボーンは、勿論ない。しかし、古典音楽の神髄を感じさせる名曲だ。
ベートーヴェンの楽曲は、個々の演奏者の技能が表れやすく、その出来を評するのは控えておくが、弦楽器の対向配置が面白かった。第1バイオリンと第2バイオリンが前側左右に分かれているだけでなく、ビオラが第1バイオリンの横に陣取っていたのは、初めて見た。このアマオケは、古典の西洋音楽に忠実というのが「売り」らしいが、19世紀初頭のオーケストラの弦楽器はそのような配置だったのだろうか?
さて、当時の欧州情勢は、フランス革命戦争から、1803年の英国によるアミアンの和約の破棄を経て、ナポレオン戦争と呼ばれる更なる動乱に変遷していた。
ベートーヴェンは、ナポレオン・ボナパルトを讃える交響曲(第3番変ホ長調作品55)を作曲したが、完成直後の1804年5月、国会の議決と国民投票を経て皇帝の地位についたことに激怒し、ナポレオンへの献辞の書かれた表紙を破り捨てたと言う伝説がある。
しかし、実際には、楽譜の表紙に書かれた「ボナパルト」という題名とナポレオンへの献辞を消した上に「シンフォニア・エロイカ」と改題され、「ある英雄の思い出のために」と書き加えられていた。むしろ、大人の事情で、ナポレオンへの称賛を示しにくくなっていたのではないだろうか。
現在の西欧の思想は、フランス革命を契機とした民主主義・自由主義に基づいており、封建主義を打破し、近代世界を作るべくナポレオンが果たした役割は大きい。
音楽の世界も、貴族の楽しみから大衆の娯楽として、変革しつつあった。平民出身のベートーヴェンが、ナポレオンを個人崇拝していたとはいわずとも、階級社会を超えた人類のための音楽の創造を目指す観点で、彼に大きな関心を持っていたことは確かであろう。
このシリーズの第2回で紹介した通り、28歳に難聴者となり、1802年に自殺(ハイリゲンシュタットの遺書)まで考えたベートーヴェンは、崇高な目的(というよりも生き甲斐か?)を持ち、作曲に没頭していく。
実は、この辺の下りは、弟子のシンドラーが脚色し、ドイツが帝国として統一されていく中で、ベートーヴェンを神格化していった経緯によるものであり、真の人物像かどうか不明だ。
前に書いた通り、酒が好きな陽気な性格で、女性にふられては落ち込み、しかしすぐに立ち直る愛すべき男だったかもしれない。
交響曲第5番ハ短調作品67は、実は第4交響曲の前から構想を練られていた。同時にピアノソナタ第23番ヘ短調作品57「熱情」にも取り掛かっていた。1808年には、交響曲第6番ヘ長調作品68の表題を「田園」とし、各楽章(史上初の5つの楽章)にも表題をつける。
その頃、プロイセン軍に壊滅的打撃を与え、絶頂期にいたナポレオンは、ベルリンに入城した後、大陸封鎖令を発動する。しかし、世界の工場と呼ばれたイギリスとの貿易の制限は、むしろフランスの産業を苦境に追い込んだ。
そして、1812年、ナポレオンは、ロシアに侵攻し冬将軍の前に完敗する。ロシア人は、それを祖国戦争と呼び、クリミヤ戦争、大祖国戦争(第2次世界大戦のうちナチス・ドイツ等との戦い)の経験を踏まえて、今も西欧に対する警戒心を有している。
ベートーヴェンが壮年期に作曲した交響曲は、第8番ヘ長調作品93の1814年2月27日の初演で一段落した。皮肉なことに、同年3月31日、対仏大同盟の連合軍がパリに入城し、4月4日、ナポレオンは部下の裏切りによって無条件に皇帝を退位させられ、エルバ島の小領主として追放される。
後に、同島を脱出して100日天下を取るものの、ワーテルローの戦いで完敗し、ナポレオン戦争は終結した。
交響曲第9番の構想を練る頃のベートーヴェンにとっては、過去の英雄譚になっていたかもしれないが。