音楽家と歴史・社会 -14: クララとブラームス
主にクラシック音楽に係る歴史、社会等について、書いています。今回は、クララ・シューマン(1819年-1896年)とヨハネス・ブラームス(1833年-1897年)の親密な関係について、私なりの推論を書きます♪
ロベルト・シューマンが、1856年に精神病院で死去した後も、ブラームスは、シューマン一家との親交を続けたが、14歳年上のクララと結婚することはなかった。
ブラームスは、他の女性と何度か交際している。1858年、アガーテ・フォン・ジーボルトと婚約したが、翌年には「結婚には踏み切れない」との理由で破棄した(アガーテは、日本の長崎で鳴滝塾を開いたフィリップ・フォン・シーボルトの従弟の娘に当たる)。彼が結婚に踏み切れなかったのは、クララへの恋慕であったからとする説がある。
その根拠の一つが、着想から完成まで21年を費やした交響曲第1番ハ短調作品68の第4楽章での序奏第2部でのホルンの旋律だ。ロベルトから、ベートーヴェンの正統な交響曲の後継者として指名されたブラームスは、様々な工夫を凝らし、推敲に推敲を重ねた。そして第4楽章の最初の山場で、1868年9月13日のクララの誕生日祝いのために作った旋律を用いた。その日旅先のスイスにいたブラームスは、アルプス・ホルンの旋律を走り書きし「高き山上、深い谷あいより、僕はあなたに千回ものお祝いの挨拶を贈ります」という歌詞をつけて、クララに手紙を送っていたのだ。
1876年10月、ブラームスは、全曲をクララの前でピアノ演奏し、想いを示すとともに、天国にいる恩師ロベルトに報告した。上記のクララに贈った旋律は、「ミーレドー」だが、これを短3度下げると「ド#ーシラー」となり、ロベルトがクララに贈ったピアノ協奏曲イ短調の第1主題(C・H・A・A)に似ている。
クララは、この交響曲第1番を聴いて、どのように感じたのだろうか?その記録は残されていないが、後年、クララは、ブラームスのことを「不可解な人物、全く見知らぬ人と同じ」とも語っている。また、シューマンの交響曲第4番ニ短調の改訂稿を巡り対立したこともある。二人の関係は、他人からは窺い知れないものであったようだ。
晩年のブラームスは、1885年の交響曲第4番ホ短調の後、小規模な楽曲に専念する。1893年に完成した「ピアノのための6つの小品」作品118は、当時病気がちであったクララに献呈された。その2番目の曲「間奏曲イ長調」は、内気でシャイなブラームスの想いをまたもや旋律に託したものと思われる。
1896年に脳血栓で亡くなったクララを追うように、ブラームスは翌年、肝臓がんによりウィーンで逝去。生涯独身を貫き音楽に全てを懸けた彼の人生は、幸福であったと言えよう。
最後に訊きたい。あなたは、ブラームスが好きですか?
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