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「清和源氏」の歴史⑤

「鎌倉殿の13人」で脚光を浴びている「清和源氏」について書いています。

1098年、武士としての最初の昇殿を許された源(八幡太郎)義家。彼は、坂東での源氏繁栄の基礎を築いたのだが、皮肉なことに、その親族の運命は過酷なものとなった。

源義家の嗣子であった次男の義親は、白河法皇の命により、対馬の国司として、西国に赴任させられた。理由が不明だが、源義親は九州で反乱を起こし、鎮圧されて隠岐国に流される。さらに、出雲でまたもや暴れたので、父の源義家に息子義親の討伐の任が下される。

討伐に出る前に源義家は、68歳で亡くなるが、代役となった平正盛が源義親の反乱を鎮め、斬首した。白河法皇は、即座に平正盛に行賞を与え、それが息子の忠盛から孫の清盛にかけての平家の隆盛につながっていく。この戦いを「康和の乱」と呼ぶ。

「康和の乱」の真相は不明だ。その頃に常陸国で起きた義家の弟の源義光と、義家の三男の源義国の私闘など「河内源氏」の内紛も含めて、白河法皇が背後にいたという説がある。院政は、藤原摂関家から権力を取り戻そうとした。藤原氏と近かった「河内源氏」は、白河法皇の黒い手の中で、冷遇あるいは迫害されたのだ。

特に、源義親の遺児である源為義の運命は、大きく変転するのである。

(つづく)


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