【追悼・大林宣彦】『花筐』は“大林映画”の到達点にあらず、ただただ“映画”をつくりつづける大林宣彦の現在にほかならない
大林宣彦は、誤解されつづけてきた映画作家である。その作品に批判的な方面からだけでなく、いわゆる熱心な大林フリークからも少なからず誤解されてきた。それはごく一般的なレベルでは無理からぬことでもある。大林作品は、一見して受ける印象と、その深層にあるものの大衆的浸透にひらきがあり、前者の要素、すなわち情動に訴えかけてくる面だけでも存分に映画的快楽を享受したというカタルシスがあるからだ。そして実際、大林フリークの多数派はその圧倒的な情動にこそ共鳴する。一方、批判的な者は、同じくその