溜池随想録 #26 「ITと企業戦略の関係を考える(最終回)」 (2011年7月)
ITは重要ではないのか?
2003年、米国では企業戦略におけるITの役割について大論争が巻き起こった。きっかけは、このコラムの第1回で取り上げたニコラス・G・カーの”IT Doesn’t Matter”という論文である。
たとえば、ニューヨーク・タイムズ紙は5月中に2回、6月に1回この論文あるいはこの論文に関する論争を取り上げている。コンピュータワールドやインフォメーション・ウィークなどの業界誌はもちろん、ワシントン・ポストやUSAトゥデイなどの新聞、フォーチュンなどの雑誌もカーの論文を取り上げた。インテルのクレイグ・バレットやマイクロソフトのビル・ゲイツなどのIT企業の経営者、ジョン・シーリー・ブラウンやハル・バリアンのような研究者もカーの論文に対する反論やコメントを発表している。
この論文のタイトルだけを見れば、おそらく多くの人は「ITは重要ではない」というように誤解するだろう。実際、カーの論文に対する反論の中には、カーの実際の主張をよく理解せずに「ITは生産性の向上をもたらすものだから企業にとって重要である」、「ITはまだまだ進歩し、企業にイノベーションをもたらす重要な要素である」といった的はずれな反論が数多くみられる。しかし、カーは論文でも著書でも「ITは重要でない」とは一言も言っていない。
カーの論文と著書の最も重要な部分を大胆に要約すれば、その主張は「ITは、電話や電力、鉄道などの基盤的技術と同じように技術的な成熟にあわせてコモディティ(日用品のように誰でも容易に入手できるもの)になりつつあり、もはや企業にとって持続的な競争優位の源泉ではなくなっている」というものである。つまり、情報技術は(電話や電力と同じように)ビジネスには不可欠であるが、企業戦略や事業戦略から見れば重要ではなくなっていると主張しているのである。
競争優位をもたらすものは何か
IT系コンサルタントや企業のCIOはもちろん、一部の企業経営者は、ITの戦略的重要性を信じ、先端的なITを導入することによって、他社との差別化を図り、持続的な競争優位が得られると考えていた。しかし、カーは、もはやITにはそうした戦略的価値はないと断言した。
おそらくここが”IT Doesn’t Matter”論争でもっとも議論が激しい部分だろう。
持続的な競争優位の源泉となるものはどのようなものなのかとカーは問いかける。それは普遍的なものではなくて、希少なものでなくてはならない。ライバル企業が持っていないものを持っているか、ライバル企業ができないことを実行できなければいけない。しかし、ITはコモディティ化し、誰もがそこそこの金額を支払えば入手できるものになってしまった。だからITは競争優位の源泉とはなりえない。それがカーの主張である。
したがって、ITがコモディティ化する前であれば、ITは競争優位をもたらす源泉になり得たのである。カーが例に挙げるのは、医薬品販売企業のアメリカン・ホスピタル・サプライ(AHS)が、顧客の病院向けに開発したASAPという受発注システムや、アメリカン航空の座席予約システムSabre(セーバー)などの情報システムである。
これらのシステムを開発するためにAHSやアメリカン航空は巨額のIT投資を行っている。しかし、ライバル企業が同様のシステムを開発して普及させるまでに相当の時間を要したため、両社はこの間に大きく業績を伸ばすことができ、そのIT投資額を十分に回収することができたのである。
ITと競争戦略論
ここで、カーの論文を少し離れて、ITと競争戦略論の関係について簡単に振り返っておこう。競争戦略論を確立したのはマイケル・E・ポーターである。ポーターは、市場におけるポジショニングが持続的競争優位をもたらすという「市場ポジショニング論」を唱えた。これは、他社との競合関係を考えつつ自社は市場の中でどのような位置を占めていくかを考えるという戦略である。ポジショニングを考える上でベースとなる要素は3つある。商品、顧客、アクセスである。どのような商品を扱うのか、どのような顧客をターゲットにするのか、どのような地域あるいは場所でビジネスを行うのかである。ポーターは、ITについて、オペレーション効率を向上させるものであり、それだけでは一時的な競争優位は獲得できても持続的競争優位の源泉にはならないと考えている。
競争戦略のもう一つの大きな潮流が「資源ベース論」である。資源ベース論が注目を集めるようになったのは、1990年にC・K・プラハラードとゲイリー・ハメルが「コア・コンピタンス」というコンセプトを発表してからである。コア・コンピタンスとは「顧客に特定の利益を与える一連のスキルや技術であって、他社に真似できない核となる能力」のことである。ただ、彼らの研究は、コア・コンピタンスを企業戦略にどう生かすかという分析が十分行われていない。資源ベース戦略論は、J・B・バーニーらによって概念が整理され、企業のもつ資源(人材、資金、技術力、専門能力、組織文化など)が生み出す模倣困難性が持続的な競争優位の源泉になるという基本的な枠組みが固まった。したがって、資源ベース論に従えば、ITがコモディティ化し、模倣可能な要素であれば、ITは持続的な競争優位の源泉とはなり得ないことになる。
ITは競争優位の源泉となりうるのか
カーの考え方は資源ベース論に近い。ITが、誰でも容易に入手できるコモディティになってしまったため、もはやITだけによってビジネス上の模倣困難性を創り出すことは不可能になってしまった。したがってITは持続的な競争優位の源泉とはなり得ない。それがカーの主張である。
この考え方を根本から揺るがすような反論は見あたらない。たとえば、CIOマガジンの編集長であるアビー・ランドバーグは、インターネットの世界を見れば、アマゾンやeベイのような例があるではないかと反論する。しかし、カーは、それは「ITによって得られた一時的な競争優位をビジネスの領域にうまく転換できたがゆえに競争力を維持していられるのだ」と答えている。確かに両社はともに先行的なIT投資で得られた優位性をブランドという別の資源に置きかえることに成功している。特に、eベイの場合には、ネットオークションの参加者が増加することによって、出品される商品が増加し、それがまた入札者を増加させるというネットワーク効果によってネットオークションの市場で圧倒的な市場シェアを獲得した。アマゾンやeベイは、First Mover Advantageを最大限に生かした事例であり、ITによって競争優位を得た事例ではない。
また、ランドバーグは、グーグルの例を持ち出して先進的なITインフラが他社との差別化を生み、高い競争力を生むこともあると主張する。これに対して、カーは、「確かに、非常に小規模な企業であっても、独自の機密的なアルゴリズムを採用することで高い競争力を獲得できるということは、私も否定しない。ただし、グーグルが検索エンジン・ベンダーというきわめて特異な立場にあることを忘れるべきではないだろう」と答え、グーグルにおける成功が、一般の企業で応用可能なものではないことを指摘している。
ただ、それほど例は多くないにしても、アマゾンのワンクリック技術のように特許権を付与されたITの場合には、ライバル企業による模倣を困難にする要素として持続的な競争優位の源泉となりうるだろう。工業製品と同じように、特許はソフトウェアにおいても模倣を防ぐ重要な武器になりうる。
ITによる競争優位という幻想
そもそも現在、戦略論の中でITを単独で戦略優位の源泉として考えている研究者は少ない。市場ポジショニング論をとる研究者はもちろん、資源ベース論派の研究者でもITそのものだけでは持続的な競争優位の源泉にはならないと考えている。
SISの提唱者としてしられているコロンビア大学のチャールズ・ワイズマンは、SISを「競争優位を獲得・維持したり、敵対者の競争力を弱めたりするための計画である企業の競争戦略を、支援あるいは形成する情報技術の活用である」と定義している。SISの信奉者たちは、SISの導入によって、その企業と事業が劇的にイノベートされ、競合企業に打ち勝つことができると信じていた。しかし、よく事例で取り上げられているASAPやSabreなどに続く成功事例が生まれなかったために、90年代にはSISを信じる人はほとんどいなくなった。(ちなみに日本では、花王のネットワーク受注システム、セコムの連絡網システム、セブンイレブンのPOSシステムなどがSISの事例として取り上げられ、その当時は、これらの情報システムが競争優位の源泉になったと考えられていた。)
つまり、ITによって競争優位が得られるというのは、過去に遡っても、かなり希なケースであったことがわかる。
にもかかわらず、現在でも、一部のITベンダーやITコンサルタントは、ユーザー企業に対するセールストークの中で、ITを、戦略優位を生み出す魔法の杖のような特別な道具のように説明している。
情報システムの歴史を冷静に振り返れば、ASAPやSabreのような事例は極めて希な存在であり、大多数の企業にとって、ITによって持続的な競争優位を獲得できるというストーリーは、かなり古くから幻想だったと考えた方が正しいように思える。
ITに戦略的価値はまったくないのか
ITそのものが競争優位の源泉にはなり得ないからと言って、直ちにITには競争戦略上の価値がないと結論することはできない。ITは、競争戦略を実行に移す際に必要な道具の一つだからである。
カーに対する反論の中にも、ITの価値は利用方法によって異なってくることを指摘するものがある。たとえば、ジョン・シーリー・ブラウンとジョン・ヘーゲル3世は、ITをテコとして新しいビジネス手法を生み出そうと徹底的に考える企業経営者が少ないから、ITがコモディティとしてみなされるようになったのだと主張し、「差別化は、ITそのものにあるのではなく、それによって可能となる新しいビジネス手法にある。とはいえ、ITなくしてそれは不可能なのである」と述べている。
しかし、カーは論文の中で、ITシステムと密接に関係したプロセスは、ITがコモディティ化し、標準化されるにつれて、ライバル企業に模倣されやすいものになるという議論を展開している。また、著書 ”Does IT Matter” の中では「論文に寄せられたコメントの中には、ITそのものが競争優位の源泉ではなく、ITの使い方にこそ競争優位の源泉があるのだという意見がある」と書いた上で、アメリカン航空のSabreの例を再び取り上げ、差別化につながるどのようなITの利用方法であっても、ライバル企業にコピーされてしまう運命にあるだけでなく、ライバルはより進んだシステムを導入することになると指摘している。
したがって、ITの新しい利用方法を見つけ出した企業は、その利用方法による優位をできるだけ早期に他の持続的な優位をもたらす何かに転換する必要がある。しかし、技術の複製サイクルはどんどん短くなっているため、ITの斬新な利用方法によって得た一時的な優位を持続的なものに展開するチャンスは少なくなっているとカーは主張する。
本当に利用方法は模倣できるのか
確かに、カーが指摘するようにERP、SCM、CRMなどの分野のビジネス用のソフトウェアは、ベストプラクティスを取り込む形でバージョン・アップが行われている。したがって、ITの優れた利用方法は、ITベンダーを介してどんな企業でも入手できるようになるだろう。
しかし、利用方法がソフトウェアに組み込まれ、誰でも利用方法を含めてITを簡単に入手できるようになっても、それをビジネス上有効に活用できるかどうかは、また別の問題のように思える。先進ユーザーの斬新なIT利用方法をコピーすることはできても、それをビジネスや経営に有効に利用できないことも十分に考えられる。(それは、ちょうどトヨタ以外のメーカーがトヨタ生産方式を導入しても十分な効果が見られないケースが数多くあるのと同じである)
カリフォルニア大学バークレー校のハル・バリアンは「ITがコモディティ化し、もはや競争優位をもたらさないというニコラス・カーの主張は正しい。とはいえ、ITの効果的な活用方法が広く理解されているかと問えば、依然スキルが不足しているといえる。(中略)ITではなく、その効果的な使い方を知っている人たちが、競争優位をもたらすのである」と主張する。
これは、「ITケイパビリティ」の問題である。ITケイパビリティとはITを使いこなす能力であり、ITあるいはITそのものに関連する資源、ITを活用する人に関する資源、ITを活用する組織に関する資源の3つの構成要素に分解できる。
カーが主張するようにITそれ自身とその利用方法は、標準化されコモディティ化し、誰でも容易に入手できるので、問題は人と組織に関する資源である。ITを活用できるスキルを持った技術者とITとその活用方法を理解している経営者がいて、組織の構造や企業文化がITを活かせるものであることが重要なのである。こうした人的・組織的資源は模倣が困難であることを考えると、ITケイパビリティは競争優位の源泉になりうる。
最後に
ニコラス・G・カーが言いたかったことは「ITは、技術的成熟にあわせて誰でも入手可能なものになりつつあり、持続的競争優位の源泉にはなりえない」ということであり、最近の企業戦略論からみて、それほど突飛なものではない。
カーは、ITの利用方法についてもソフトウェアの中に埋め込まれるようになっており、利用方法も含めてITはコモディティ化していると述べているが、ITを実際にビジネスや経営に活用する能力(ITケイパビリティ)は、企業の抱える人材や組織形態、企業のカルチャーに依存しており、これは簡単に模倣できるものではない。つまり、ソフトウェアを含めたITはどんな企業でも容易に入手可能なものとなっているが、それを十分に使いこなせるかどうかは、個々の企業によって大きな差があると考えられる。このITを活用できる組織能力こそが競争優位の源泉の一つとして重要になっているのではないだろうか。