
やはり、父になれず。
あらすじ
山下徹(30歳)は精神病の方々の職業指導員として働いている。
音楽クリエイターになるという夢を持ちながら、忙しい毎日を送っていた。
四歳の灯と二歳の風花、結婚五年目になる妻の雪乃と妻の家族と共に過ごしているが、子育ての過酷さと肩身の狭さに心が折れかけていた。
そんなある日、音楽クリエイターとして大きな仕事を獲得することとなる。
夢への第一歩として絶対に失敗するわけにはいかないと意気込む徹。
しかし、役職を持っている本業を蔑ろにするわけにも父親業を放棄するわけにもいかないジレンマの中で、家族との関係性は悪化していく。
眠れない日々が続き、徹の心と身体は疲弊していた。
どうにか活路を見出そうと奮闘する徹だったが、とある夜に完全に心は崩壊する。
夢の狭間で、キャリアの途中で、果たして徹は父として生きることが出来るのか?
この作品はこの世の全ての父親に送る、心震える物語です。
第一章 自由に生きられず
4Kテレビのブルーライトが眼鏡に反射している。
日曜の昼間からカーテンを閉め切り、幻想的な世界が目の前に広がっている。
山下徹(やましたとおる)は二階の自室にて、長い時間遊んだテレビゲーム[神殺しの怪物と六人の約束]をプレイしていた。
いくつもの困難を乗り越え、ラスボスを倒し、感動のムービーシーンの最中、突如下の階から娘の声が響き渡る。
「パパー!!!!早く下に来て!!」
ああ、耳障りだ。
そう心の中で呟きながら、この瞬間しか味わうことの出来ない物語のクライマックスに集中していた。
「うわぁぁーーん!!うわぁあ!!!!」
「もう!!ふーちゃんが悪いんでしょ!!」
テレビ画面に集中したいが娘達の声により集中が途切れる。
どうやら下の階では二人の姉妹が喧嘩をしているようだ。
4Kテレビには苦楽を共にした仲間達が抱擁するシーンが映し出されている。
徹は心から込み上げる言葉に出来ない感情が溢れ出し、目に涙を浮かべていた。
その時、下の階から妻の声が響く。
「うるさい!!あんた達が騒ぐから何も手につかない!!」
その怒鳴り声を聞いて、目に溜まっていた涙は一瞬で引いていった。
「はぁ、、、」
徹は深くため息をつき、本来ならば号泣する予定だった感動のクライマックスをただ眺めていた。
もう二度とこの感動を味わうことはないだろう。
仲間達との絆、手に汗握るラスボスとの戦い、そしてようやく倒した後の感動のムービーシーン。
結末が気になっていたが、絶対にYouTubeで検索することはしなかった。
この感動を味わうためだ。
しかし、その感動も現実の喧騒に掻き消される。
「はいはい、俺のせいですよね」
徹は虚しく流れるエンドロールをそのままに、下の階へと降りた。
「パパ!!遅い!!何回も呼んだのに何で来ないの!?」
体全身を使いながら怒りを露わにしているのは長女の灯(あかり)である。
「ごめん、聞こえなかった」
そう言い訳をするも、灯の怒りは収まらない。
「うわぁあん!!!パーパ~!!!」
泣きついてきたのは次女の風花(ふうか)だ。
「ふーちゃんはなんで泣いてるの?」
徹の問いかけに風花は覚えたての日本語で頑張って説明を開始する。
「あーちゃんが、、、ふーちゃんのおもちゃ、とったの!!」
その言い分に姉の灯はたかだか二歳差のアドバンテージを存分に使い、鬼の形相で風花へと距離を詰める。
「いっつもふーちゃんが使ってるから良いでしょ!!だって!!、、だってふーちゃんがぁあああ!!!!」
話しながら、遂に灯も泣き出した。
「うわぁあああああん!!!!!」
ネガティブな感情を撒き散らした轟音の合唱が突如として始まる。
「はぁ、、、、そんな理由で俺のたった一度の感動を奪ったのか」
徹はその後言葉を発さず、リビングへと歩き出した。
そこへ洗濯物を畳み終えた妻の雪乃(ゆきの)がやってきた。
雪乃の眉間には皺が寄り、今にも苦言を発しそうな雰囲気である。
「いや~ゲームがいいところでさ、なかなかやめられなかったんだ」
事実ながらも苦し紛れの言い分を聞き、雪乃は明白なため息をついた。
雪乃は何も言わずに子供達の昼食の用意を始める。
先程までゲームを楽しんでいた自分は、今ここで子供達を落ち着かせなければならない。
そんな義務感と罪悪感を感じながら、徹は子供達をあやし始めた。
あやしながらも心の中で疑問を唱える。
この義務感は何なのだ?
この罪悪感は何なのだ?
たまにやりたいことをやることが悪なのか?
自分は悪者なのか?
あやしているうちにいつものことながら、娘達の矛先は何故か徹へと向かう。
「もう、うるさい!パパあっちいって!!!」
「パパ嫌い!!」
灯の真似をして風花にまで敵対視される。
そして二人は先程まで喧嘩していたにも関わらず、突然仲良く遊び出すのだ。
「仲直り出来たなら良いか」
そう呟いてリビングのソファに腰掛けると、雪乃は不満気に徹を睨んでいた。
その視線を感じ、徹はゆっくりと立ち上がる。
おそらく一緒に遊んであげろというメッセージなのだろう。
しかし二人は仲良く遊んでいる。
先程二人に暴言を吐かれた徹としては、悪役を演じ、平和が訪れ、クランクアップしたつもりだったのだ。
「遊ぶかぁ」
徹の言葉に娘達は嬉しそうに駆け寄って来た。
先程の敵対視はどこに行ったのだろうか?
彼女達の情緒はどうなっているのだろうか?
先程暴言を受けたことを覚えている自分はどう対応したら良いのだろう?
様々な疑問が頭を巡りながら、徹は娘達とおままごとを開始した。
おままごとは徹にとって一番苦手な遊びである。
何故ならゴールと目的がないからだ。
絵本の読み聞かせならば読み切るというゴールがある、積み木ならば如何に上手く積むか、考える余地がある。
おままごとは難しい、役柄を真剣に考えて演じても、小さな監督に違うと言われる。
永遠に与えられる食べ物やら飲み物を「美味しい」と言いながら頬張るだけの役なのだ。
しかし頬張るだけの役として手を抜いて演じては、監督からの演技指導が入る。
表情豊かに心から「美味しい!!」と言う必要がある。
それを何十回、何百回と同じシチュエーションを繰り返すのだ。
「美味しい!!」
口ではそう言い、それっぽい表情をしているが、心の中ではいつも、この時間には何の意味があるのだろうか?と自分に問いかけている。
一日は二十四時間だ、定職に就いている人は毎日十時間近くの時間を労働に使っている。
子供がいる親達は帰宅後数時間子育てに時間をとられる。
子供が寝てから自由時間、山下家ではそれが大体PM10時からだ。
そこから趣味と夢のために時間を注ぎ込む。
そんな毎日では満足出来るわけがない、時間が圧倒的に足りない。
「パパはちょっとゲームやってくる」
夜は音楽制作に集中したい、この時間は娘達の遊びに付き合うのではなく、自分の趣味を楽しみたい。
そう思って立ち上がると、娘達は一斉に泣き出し、徹は嫌々役者に戻るのであった。
六年前、徹は東京でミュージシャンを目指していた。
作詞作曲、PCを使っての編曲も自分で行なっていた。
ギターの弾き語りでライブを行なっていたが客足は増えなかった。
原因は自分でも分かっている、作詞作曲に定評はあったものの歌が上手くなかったのだ。
その事実に気付いてからはステージに立つ回数も減り、音楽仲間に楽曲提供をする日々を送っていた。
しかし、PCで音源を作る作業は東京じゃなくても出来る。
そう思い、当時バイト先で恋仲だった雪乃との結婚を決め、雪乃の実家がある宮城に引っ越して来たのだった。
子供が出来た今も音楽制作は続けている。
SNSや動画配信サイトに自分で作った楽曲を投稿している。
自慢じゃないが、我ながら多くのフォロワーを獲得し、新曲を投稿するたびに沢山の評価を頂ける。
それが今の徹にとって、唯一の生き甲斐だった。
評価を貰えるのは嬉しい、しかしその先がないことも事実である。
その楽曲がお金を稼ぐわけでもなく、趣味の範囲を抜け出せていなかった。
おそらく雪乃は楽曲制作に勤しむ徹をよく思っていない。
そんなことよりも子育てをしろ、言葉にはしないがそう思っているのが視線で伝わる。
今は趣味と思われても仕方がない、でも絶対に見返してやる!と、雪乃の冷めた視線を感じれば感じるほどに徹は楽曲制作に精を出すのである。
今日も仕事中に浮かんだ歌詞とメロディをトイレの中でスマホのレコーダーに小さく録音していた。
帰宅した今、PCで楽曲を作る必要がある。
曲調は?コードは?使用する楽器は?
頭の中でどんどん曲が作り上げられていく。
一刻も早く頭の中の作品を形にしたい。
帰宅後、徹は家族にバレないように静かに玄関の扉を閉め、自室にあるPCの電源をつけた。
しかしその時、ドンドンドン!!!
自室の扉が激しく叩かれる。
徹はヘッドフォンを外し、ため息をついた。
誰がやって来たかは見当がついている。
「パーパー!!!何でここにいるの!?隠れんぼするよ!!」
やってきたのはやはり灯だ。
「ただいま。ごめん、今パパ仕事中なんだ」
こんな台詞じゃ引き下がってはくれないことは分かっている。
「嫌だ!!隠れんぼする!!パパ、ズルいよ!」
「いや、ズルくはないだろ」
なんとか居座ろうと灯と問答を繰り返すが、引き返す様子は見られない。
「もう!!パパ面倒くさい!!もう遊んであげないからね!」
「お、いいよ。ふーちゃんと遊びなよ」
「もう!パパなんて知らない!!パパなんて、、、ママに言うからね!」
「どうぞどうぞ、ママに言ってきてください」
「もう知らない!!!」
灯は泣きながら階段を降りて行った。
ふぅ、ようやく音楽制作に集中出来る、そう思ってヘッドフォンを耳に当てる。
歌詞とメロディが一緒に思い浮かぶ時は経験上良いものが出来上がる。
ここ最近は仕事と子育てに気を取られ、良い曲が書けなかった。
今回は違う、そんな予感がしている。
「あーもう!!何も出来ない!!」
しかし、ヘッドフォン越しにでも分かる雪乃の怒鳴り声を聞き、徹はそっとヘッドフォンを外す。
明日の仕事は残業になることが分かっている。
だからこの曲は今日のうちにある程度形にしておきたい。
今、下に降りて子供達の相手をしていてはそれが叶わない。
これは良い曲になる、このチャンスと勢いを無駄にするわけにはいかない。
徹は娘達の泣き叫ぶ声と妻の怒鳴り声を掻き消すようにヘッドフォンを耳にかけ、PCの音量を上げた。
楽曲制作ソフトはもう使い慣れたものだ。
最初の頃は説明書もマニュアルも何もないこのソフトに頭を悩ませたものだった。
徹は昔から目的のための努力は惜しまない性格で、一度やると決めたらとことん突き詰めて学習する。
真面目な性格も相まって、どの環境にいても[優秀]という評価を獲得してきた。
今の仕事でも主任としての役職を与えられ、日々奮闘している。
しかし子育てにおいて優秀ではないことは自分でも分かっていた。
優秀ではない、ならまだ良い方だ。
実際は絶望的に子育てが向いていない。
理由としては三点ある。
一つ目は論理的じゃないことが許せない性格であるということ。
二つ目は何一つ忘れることが出来ない性分だということ。
三つ目は優先順位の最上位に野望があるということ。
子供というのは全くもって論理的ではなく、喜怒哀楽が三秒ごとに変化する。
子供と関わっている時、良く出来た親ならば「まだ子供だから、、」と言って許すことが出来るのだろう。
しかし徹にはそれが出来ない。
「何故?」という問いが圧倒的に勝るのだ。
子育て以外の物事では、その「何故?」という問いが問題解決の助けになる。
学びにおいても「何故?」があるから新たに知識を吸収することが出来る。
しかし子供に対して「何故?」と問うのは御法度である。
どれだけ思索しても、答えがないからだ。
いや、あったとしても無意味だからだ。
何故なら三秒前というのは彼女達にとっては、もう過去なのだから。
そうやってごちゃごちゃと頭で考えて疲労を蓄積していき、野望と現実の狭間で力尽きて眠る毎日である。
徹はこんな日々から抜け出したかった。
TVで活躍するアーティストのように、この人生を熱く生きたかった。
限られた時間の中で、一度きりの人生を精一杯生きたい。
自己研鑽とスキルアップを繰り返し、自分の限界を知りたかった。
絶対に良い曲を作ってみせる。
そう心を燃やす徹だったが、やはり心のどこかにある義務感と罪悪感が、胸の炎に水を差すのであった。
世の中には、誰かと一緒じゃなきゃ生きられない人もいれば、一人の時間がなければ生きられない人もいる。
徹は断然後者である。
しかし子供の成長にとって、親以外の人と関わることはとても良いことだと思うので、結婚を機に妻の実家がある宮城へと越してきたのだった。
そのため徹は現在九人暮らしである。
山下家は徹、雪乃、灯、風花。
妻の母である美智子(みちこ)、妻の兄、妻の弟、妻の祖父母と共に暮らしている。
唯一、一人の時間を過ごせる場所は二階の寝室であるが、妻の家族の目があるため子供達を一階に放置して自由な時間を享受することは難しい環境だった。
子育ては向いていない、しかし良い父親のフリをしなければならない。
そうしなければ摩擦が起きる、他の家族というものは生きてきた文化が違うのだ。
異質なものが混ざると和が乱れ、空気が悪くなる。
この集団に属するためには徹が合わせるのが定石というものだろう。
徹の日々のルーティンは仕事に行き、帰宅後は一階にて良いパパを演じ続ける。
そして娘達が眠るのを待つ、それの繰り返しだ。
徹の実家は北海道にある、地元と東京に友達はいるが、もちろん宮城に知人はおらず、孤独な日々を過ごしていた。
当初はそれで良いと思っていた。
自分は一人が好きだということと、子供の成長と妻の負担を考えたら妻の地元に住むことが最良の選択だと確信していたからだ。
しかし、今はそうは思わない。
結婚をしたことや子供達に出会えたことを後悔しているわけではない。
心から家族を愛している。
それでも、こんな生活を望んでいたわけではない。
夢を追うことも難しく、ただただロボットのように仕事に行き生活費を稼ぎ、帰ってきてからは子供達の奴隷となる。
たまには一人で飲みにでも行こうか?たまには一人でギャンブルで散財しちゃおうか?
そんなことが頭をよぎるが、妻の家族の目を気にし、仕事終わりはいつも真っ直ぐに帰宅する。
子育てが終われば仕事が終わった後の時間は自由に過ごせるはずだ。
そう心の中で日々唱えながら耐え忍んでいる。
しかし、子育てが終わるのはいつなのだ?
妻の雪乃は三人目が欲しいと言っている。
徹は何とかその要望を断っているが、子供は三人欲しいと当初から言っていたことと、早く定職に就いてキャリアを積みたい雪乃の気持ちを考えると早いうちにその要望を叶えるべきだと思う。
まだまだ手がかかるとは思うが、経験上小学校に行くようになればある程度自立して過ごすようになるだろうか。
仮に三人目が来年生まれたとしたら、少なく見積もってもあと七年はこのルーティンが続くことになる。
実際はもっと長いかもしれない。
そう考えれば考えるほどに、自分の人生ってこんなはずじゃなかったなぁと思うのだ。
徹は無駄に長い風呂洗いを終えて、ようやくリビングへと戻る。
そもそも家事という職場に関しては妻の母である美智子がボスなので徹が手伝っても問題ないのは風呂洗いのみなのだ。
娘達がキッチンで遊び出し、イラついている美智子がいた。
雪乃が中学生の頃に美智子は離婚し、それからはシングルマザーで三人の子供を育て上げた。
仕事をしながら家事も掃除もその日のうちに終わらせる几帳面な人だ。
普段は娘達にとって優しいお婆ちゃんだが、時に空気をひりつかせる。
キッチンに邪魔が入るとそれが顕著に表れる。
「こら、危ない危ない!!キッチンに来ないで、今茶碗洗ってるんだから!!雪乃!!子供達何とかして!!」
別室で洗濯物を畳んでいる雪乃を呼ぶが、おそらく雪乃には聞こえていない。
目の前に徹がいたとしても美智子は徹を頼ることはない。
それはおそらく徹への気遣いなのだろうが、その気遣いが徹の心を騒つかせる。
「ほら、あーちゃんふーちゃん、あっちで遊ぼうよ」
徹の誘導を無視して灯はオタマを振り回し、風花はボウルを被ってはしゃいでいる。
「おいでおいで、こっちで遊ぼうよ。ほら見て!二人が好きなテレビ始まったよ」
イラついている美智子の表情を見て、徹は必死に娘達を誘導する。
しかし徹の努力も虚しく、遂に美智子が声を上げた。
「もう!邪魔!!あっち行ってて!!」
美智子の怒った声に風花は怯え、慌てて徹の元へと走ってきた。
しかし灯は反発するように美智子に食ってかかる。
「もう!怒らないで!!ばあばなんてもう知らない!!」
「知らなくて結構!!キッチンで遊ばないでください!」
灯、やめてくれ。
徹は心の中でそう呟いていた。
「あーちゃんはお姉ちゃんなんだからふーちゃんの見本にならなきゃいけないの!!あーちゃんがダメなことばかりするからふーちゃんもそれを真似するの、分かる!?」
美智子の言葉に徹は拳を握りしめる。
お姉ちゃんという責任はどこにもない、まるで全て灯が悪いような言い方に徹は異議を唱えたかった。
しかし、立場上それが出来ない。
この家では徹の立場はとても低い、妻の母が権力者であり次に妻の雪乃が実権を握っている。
もうやめてくれ、灯!!
徹は祈るように二人の言い合いを見ていた。
「あーちゃんは悪くない!!ふーちゃんが悪いんだから!!そんなこと言うならばあばなんて出て行って!!」
その言葉を聞き、洗い物の手を止めた美智子を見て、徹は叫んだ。
「灯!!ばあばになんてこと言うんだ!!謝りなさい!!」
徹の怒鳴り声に灯の目一杯に溜まっていた涙が溢れ出した。
「もういい!!知らない!!うわぁぁぁああ!!!」
灯は駆け出し、雪乃がいる別室へと向かった。
「うわぁあん!!あぁあああ!!」
姉が怒られている姿を見て悲しくなったのか、何故か風花まで泣きだし、灯を追いかけるようにリビングを出た。
心が締め付けられるように痛かった。
別に灯に対して怒りは全くない。
むしろ徹は美智子に怒りたかったのだ。
しかしそれが出来ないから、せめて美智子から灯を守るために灯を怒鳴りつけた。
情けない、そう思うが仕方ない。
灯に謝りたいが言葉が見つからない。
慰めてしまうと辻褄が合わなくなる、今徹は父親としてばあばに対する無礼について叱ったのだから。
そのうちに娘達と共に雪乃がリビングにやってきた。
「何があったか知らないけど、泣かせないでよ。面倒くさい」
雪乃は徹を見ることなく呟いた。
「いや、、、、ごめん」
言い訳はここで噛み殺すしかない。
それがこの家での自分の立場なのだ。
灯を守ったつもりだが、灯がそれを知るわけもなく、娘達はパパを睨みつけていた。
「ちょっとお腹痛いわ」
そんな嘘をついて、徹はトイレに逃げ込んだ。
徹は精神病をもつ方々の職業指導員として働いている。
あまりポピュラーではなく、特殊な仕事であることは間違いない。
結婚を機に宮城へ越してきて、すぐに仕事を始めた徹だったが、今まで東京で音楽と共に生きていた徹にとって働くということはとても重荷だった。
いくつかの仕事をやってみたものの、数日と続かずに退職した。
高卒で資格もない男に提供される仕事はそれほど多くない。
探せど探せど土木関係ばかり、しかし神経質で綺麗好き、軟弱な肉体で寒がりの自分には無理な仕事だということは考えなくても分かっていた。
そんな時、ハローワークで見つけたのがこの仕事である。
利用者と共に清掃作業や内職作業を行う中で、技術的な支援やコミュニケーションによる精神的な支援を行うことが主な業務である。
もちろん簡単な仕事ではない、利用者の状態は日々変化するし、自分の発した言葉が相手を不穏にさせたり前向きにさせたりする、責任の重い仕事だ。
そのため退職者は多く、入れ替わりの激しい業界である。
しかしどうやらこの仕事が向いているようで、徹はとにかく利用者に好かれる。
理由としては飾らないコミュニケーションと、相手の未来を真剣に考える姿勢が相手にも伝わっているからだろう。
支援員、指導員と言っても大した人間じゃないと思っている。
自分も数年前までは常識のレールを外れたミュージシャンだった。
たまたま結婚して、たまたま子宝に恵まれ、たまたま就職出来ただけで何も偉くない。
むしろ、夢に真剣にもなれず、父親にもなりきれない中途半端な人間だと思っている。
とは言うものの、目標を達成するための思考回路や要領の良いところ、利用者とのコミュニケーションが高く評価され、四年目にして主任の役職を与えられている。
中には勤続年数十年を超える職員もいるが、皆徹を認め、信頼していた。
何一つ上手くいっていない徹だったが、仕事だけは順調だと言える。
しかし、その業務量は膨大だった。
特に事務作業が多い福祉業界で、現場の指導員として利用者と関わりながら膨大な事務作業をこなすのは一筋縄ではいかない。
徹は日々工夫を凝らしながら、どうにか定時で帰れるように奮闘していた。
今日もいつも通り定時の時間が近づいていた。
施設長と管理者が会議で不在の今、この事務所で一番地位が高いのは徹である。
夏の暑さを吹き飛ばそうとエアコンが叫び声をあげている中、夕方の事務所では各々が事務作業に追われていた。
徹を含めた七人の職員がデスクに座り、PCと睨めっこをしたり、ファイルに記入をしている。
そんな中、一人の男性が声を上げる。
「山下さん、月まとめ出しました?」
事務作業と戦闘中の徹を見て、佐藤さんが問いかけた。
「とっくの昔に提出しましたよ、今は来月分の会議の資料作成っすわ」
佐藤さんは農産担当の男性職員で、年齢も在籍年数も徹よりも上である。
ノリが良くパワフルで、上司に対しても物怖じせずに物申す人物だ。
「いや~流石っすね、俺今月も提出遅れるわ」
佐藤さんは日に焼けた褐色の肌の上にタンクトップ姿で笑っている。
夏になるほどに佐藤さんの肌は黒くなる、毎日利用者と共に炎天下の中、畑仕事をしているからだ。
「期限明日ですよね?怒られますよ~」
佐藤さんの余裕な様子を見て、徹は笑った。
「別に大丈夫っすよ!やれって言われたらその日に終わらせられるんで」
そう言いながら翌日の畑で使うのであろう作物の種を並べている。
「もう今日は事務作業いいや!明日は明日でガキどもの子守しなきゃなんないんで」
明日は日曜、徹にとって日曜日は憂鬱な一日である。
佐藤さんの話を聞いて、一人の若い女性職員が口を開けた。
「でも佐藤さんって本当に良いパパですよね~毎週子供達とどこかに出かけてるし、出かける前に家事も全部終わらせるし、マジイクメンって感じ」
「別に普通っすよ!ガキどもはうるせぇけど、育児も家事も別に苦じゃないんで」
その言葉を聞いて皆が佐藤さんを褒めている。
「そういや扇風機壊れてるんだっけ?ちょっと直してきますわ」
皆に褒められて居心地が悪くなったのか、佐藤さんは工具箱を持って事務所を出た。
「おまけに何でも直せるし、ザ・お父さんって感じですよねぇ」
うんうんと皆が頷く中、徹は一人胸に矢が刺さったような気分だった。
佐藤さんの家には三人の子供達がいる。
日曜日に家事を終わらせ、一人で三人の子供達を連れてどこかに遊びに行く、そのことを苦しむどころか楽しんでやってしまう。
故障しても何でも直すことが出来て、畑のことや生物のことなど豊富な知識で皆を納得させる。
そんなカッコ良いお父さんに徹は憧れていた。
そんなお父さんになるつもりで、子供を授かった。
でも現実は違った。
家から出ることなく、ゲームと音楽制作に明け暮れ、妻の顔色を伺いながら嫌々子供達の相手をする、そんな最低な父親である。
毎日仕事をして、酒とタバコ、ギャンブルをすることなく真っ直ぐに家に帰ることだけが父親としての自分の評価出来る唯一の点だった。
しかしそれだけでは自分を立派な父親として誇ることは難しい。
常に劣等感と罪悪感、義務感を感じながら生きている。
ならば良い父親を目指せば良いではないか?
そう思って目指してみた時期もあった。
でも自分には無理だった。
佐藤さんのような活力も、家族と過ごす時間を楽しいと思えるような心もない。
それよりも自分の夢や野望を叶えられない、そのことに時間を割けないことに焦りを感じていた。
しかしこの胸の内を、誰にも話すことは出来ない。
この日本という国で男は弱音を吐かないように育てられる。
特に家族に対しての弱音を吐く場所なんてない、友達ですらそれを聞いたとしても「頑張れ」としか言えない。
男、というのはそういうものなのだ。
孤独な生き物なのだ。
きっと妻は友達に自分の愚痴を言っていることだろう。
自分にはそれが出来ない、じゃあどうやって自分という存在を分かってもらえば良いのか。
徹の中に一つだけ答えがあった。
有名になるしかない。
家族だけではなく、不特定多数の多くの人から認められるしかない。
そのためにはやはり、自分のスキルを磨く時間、曲作りの時間が圧倒的に足りない。
事務作業をしながら、徹の頭は作曲モードに切り替わっていた。
「よし、終わった~!!」
徹は開放感に包まれていた。
水曜の午後、ようやく渾身の一曲が完成し、徹は曲名欄に[夢のトビラ]と打ち込んだ。
徹の仕事は水曜と日曜が休みである。
しかし日曜は娘達がいるので楽曲制作は出来ない、よって集中出来るのは水曜の夕方までだ。
何故なら夕方になれば小さな怪獣達が帰還するからである。
一息つく間もなく、SNSや動画投稿サイトに新曲を拡散する。
するとすぐに沢山のリアクションが返ってくる。
最初の頃は投稿せど投稿せど音沙汰もなかった。
しかし今となっては徹の楽曲を待ち望んでいる顔も知らない誰かがいる。
一通りのリアクションを確認して、徹は満足気にゲームの電源をつけた。
今日は新作のゲーム、アイドルキングダム3の発売日である。
もちろん無印からプレイしている徹はダウンロード版でダウンロード済みだ。
しかしプレイするためには曲を完成させなければならないというセルフ制限をつけて、この休日に突入した。
徹の作戦通り、見事楽曲制作をクリアしゲームの世界へと没頭することが出来る。
お祝いに酒でも飲もうか、徹は一階の冷蔵庫へと向かった。
酒好きの妻と違い、徹は基本的にお酒を飲まない。
酔うことによって脳のパフォーマンスが下がると思っているからだ。
毎日頭の中で考え事や作詞作曲をしている者にとって、脳のパフォーマンスの低下は致命的である。
しかし今日くらいはいいだろう、渾身の新曲が完成し、念願のゲームの発売日なのだから。
徹は適当に並んであるレモンサワーを手に取り、口を開けた。
そしてゴクゴクと長い一口を堪能する。
「くぅ~!!!最高!!!!」
ガツンと染み渡るこの感覚は悪くない。
徹はお酒を飲んでも基本的に変わらないが、雪乃は酒癖が悪く、お酒を飲むと機嫌が悪くなる。
最近は特にそれが顕著だ。
疲れているのは分かるが、少しは自制心を保ってほしいものである。
しかしそんなことは今はどうでもいい。
アイドルキングダムが俺を待っている。
アイドルキングダムは個性豊かな女の子達をトップアイドルに育て上げる、アイドル育成シュミレーションゲームである。
もちろんゲームとしても面白いのだが、何よりも曲が良い。
アイドルに歌わせる曲を選んでデビューさせるシステムなため、ライブのシーンや練習のシーンで何度も曲を聴くこととなる。
歌詞、メロディライン、コードや編曲も合わせてとても素晴らしい。
そう思っているのは徹だけではない。
アイドルキングダム2が発売した時には、日本の音楽再生数ランキングで、有名アーティスト達と並んでアイドルキングダムの曲がランクインしている時期があったほどだ。
今の時代はSNSの影響力が大きく、ゲームやアニメのバズり方は尋常じゃない。
一昔前までは音楽ランキングは歌手やバンドだけのものだった。
今は他の業界も狙える、なんなら一般人でさえバズりさえすればランクインすることがあるくらいだ。
徹もSNSで有名になることを夢見ていた。
実際今でもある程度の知名度を手にしている。
フォロワー数は一万人を超えているのだ。
ある程度の評価をもらえるが、バズったことはない。
今回完成した[夢のトビラ]という曲は、そんな自分の心境を書き殴った作品となっていた。
自分にはこれしかない、曲作りで有名になるしか道がない。
たった一度の人生だ、何者かになりたいんだ!!
熱くなった気持ちのまま、4K画面に映し出されるアイドル達を育てるのであった。
四時間後
スマホの着信が鳴り、画面を確認すると[雪乃]と表示されていた。
ゲームに没頭していた徹にとっては数十分の感覚だったが、もう四時間も経過していたらしい。
徹はスマホを手に取り通話ボタンを押した。
「はいはい、どーした?」
「ちょっと残業になりそうで、あーちゃん達のお迎え行ける?」
雪乃は近所のスーパーでレジ打ちのパートをしている。
パートで残業ってどういうこと?そんなことを思いながら徹は時計を見た。
確かにもう小さな怪獣達が帰還する時間である。
「あー、ごめん。昼間から珍しく酒飲んじゃってて、運転出来ないわ」
曲の完成祝いにお酒を飲んでしまったことを思い出した。
迎えに行けないという事実を聞き、少しの間、雪乃は沈黙していた。
「、、、はーい、了解です」
ブチ
明らかに機嫌が悪くなったことを把握したが、お酒を飲んでしまったという事実は消せないのでお迎えには行けない。
「ふぅ~、、、俺が悪いのか?」
徹は大きくため息をついた。
そしてまた悪者になった気分になり、罪悪感に襲われる。
この状態になると何も行動することが出来なくなってしまう。
先程まで全力で楽しんでいたゲームもやる気が起きず、徹は人をダメにするクッションに横になり、ただ天井を眺めていた。
何分こうしていただろうか?
玄関のドアが開く音がして、怪獣達の駆ける足音が響き渡る。
徹は嫌々階段を降り、父親業務を開始する。
「おかえり、お迎えに行けなくてごめんね」
子育てという仕事において上司である雪乃に謝罪をする。
「大丈夫」
雪乃は徹と違って、腹が立ったことを引きずるタイプではない。
電話越しのあからさまなため息が嘘のように、雪乃は答えた。
「パパただいま!!」
すぐに可愛い怪獣達に囲まれ、熱い抱擁を交わす。
この時間が永遠に続けば良いのにと、この一瞬だけは思う。
しかしすぐに地獄はやってくる。
「お菓子食べたい!!」
灯の一言に風花も賛同し出す。
「ふーちゃんも、お菓子、食べたーい!!」
「ご飯食べてからにしたら?」
決まり文句を言い放つも、こんな言葉では奴等を撃退することは出来ない。
「えー!!だってママが良いって言ってたよ!」
「あ、そうなの?じゃあ良いよ」
上司からの許可が降りているのであれば、それを拒否する権限は自分にはない。
「やったー!!!」
灯はお菓子のありかを知っているのだろう。
真っ先にキッチンへと走り出した。
その後ろを追いかけるように風花も走り出す。
別室からリビングへとやってきた雪乃がその光景を見て口を開いた。
「お菓子はご飯食べてからでしょ!」
その言葉を聞いて灯はまさかの反論をする。
「だって、パパが食べて良いって言ってたよ!!」
「ダメに決まってるでしょ!ご飯食べてからにしなさい」
雪乃は徹を睨みつけた。
「いやいや、ママが食べて良いって言ってたって言うから」
「言うわけないでしょ」
まんまと嵌められた徹は上司からも見放されてしまう。
「え~嫌だ嫌だ!お菓子食べたい~!あぁ~!」
「ふーちゃんも食べた~い!」
願望叶わず、二体の怪獣は咆哮をあげる。
ネガティブな空気を一気にリビングに撒き散らし、雪乃の怒りゲージと徹の絶望ゲージは一気に高まる。
「あーもう、面倒くさいことになった!」
雪乃はあたかも徹が悪いかのように言い放ち、夕飯の支度を始めた。
このままキッチンで怪獣が暴れることによって、準備が捗らず、雪乃を中心に爆弾が投下されることだろう。
それだけは避けねばならぬ!
徹は先頭に立つ騎士が如く、二対の怪獣のヘイトを請け負うため声を上げた。
「二人とも~パパと遊ぶか~」
感情のこもっていない弱々しい声では怪獣達は見向きもしない。
「絵本読むかぁ!」
未だに怪獣達の咆哮は止まない。
「もう、うるさい!YouTube見てて!」
雪乃の言葉に怪獣達は鎮まり、テレビの前へと走り出した。
どんな言葉をかけても泣き止まなかったのに、YouTubeというワードを聞いて一瞬で泣き止んだ。
子供達にとってはパパとの遊びよりもYouTubeが上なのである。
「あーちゃんがやるの!」
「ふーちゃん、やるの!」
次はリモコンの奪い合いが始まる。
実際には風花はまだリモコン操作が出来ない、しかし姉の灯と同じことが出来ると思っていて真似をしているのだ。
「もう、知らない!ふーちゃんはあっちいって!」
姉の力に負け、風花は泣きながらその場に倒れ込んだ。
「うわぁー!あぁ~あ~!」
泣き叫ぶ風花を抱き上げ、灯に注意をする。
「乱暴に奪い取らないで、順番に見たいの見れば良いじゃない?」
「、、、、、」
灯は聞こえていないフリをしているのか、テレビに集中していて本当に聞こえていないのか返事はない。
「まぁいいや、ふーちゃんはパパと絵本読むか」
「うん」
本はまだ良い。
子供向けの絵本とはいえストーリーがあって面白い。
我が強い灯とは違い、風花は穏やかな性格である。
徹にも我が強い姉がいた。
生まれた瞬間から常に姉の下にいて、自分の主張よりも姉の横暴が優先された。
親になった今、二番目の娘に贔屓するわけではないが、自分のような悲しい想いはさせないようにしようと思っていたが、それがなかなか難しい。
長女という生き物は親が制御できる生物じゃないのだ。
四歳にしてこの家族の女王として君臨していると言っても過言ではない。
風花と絵本を読んでいる。
しかし二歳の風花は文章よりも絵が気になるようでどんどんページをめくっていく。
「すると、鬼は、、、あぁ、ふーちゃんまだ読んでないよ」
ページを戻そうとするも風花は怒り、ページを先へと進ませる。
ビリビリ!
二歳の力でも絵本のページは簡単に破けてしまう。
「あ!壊れちゃった!」
風花の目に涙が溜まっていく。
「まぁいいよ、文章を読む必要がないならパパが一緒に読まなくても良いよね」
徹はソファへと移動しようと立ち上がった。
「ダメ!絵本読むの!」
風花は怒り、絵本を投げつけて来た。
二歳とは思えないナイススローにより、硬い絵本の角が徹の眼鏡に直撃する。
パキッ
鋭い音を立てて、眼鏡にヒビが入った。
「、、、、いいかげんにしろよ」
心の声が小さな肉声となって放たれる。
しかしその声は誰にも聞こえていない。
風花は泣きながら違う絵本を持って来た。
風花の泣き声に腹を立てた灯が声を荒げる。
「うるさい!聞こえない!」
そもそも絵本を読むことになったのはお前がリモコンを独占したからだろ。
沸々と怒りが湧き上がる。
心があってはもたない。
心を殺すべきだ、徹は心からそう思った。
それからは感情をゼロにして風花との絵本見学の時間を過ごすのだった。
どれくらいの時間が経ったか、とても長い時間が経ったように思える。
テーブルには夕食が並べられ、雪乃が声をかける。
「はい、ご飯出来たよ」
風花は読んでいた絵本を投げ捨て、テーブルへと駆け出す。
徹は投げ捨てられた絵本を片付け、灯に声をかける。
「灯、ご飯だからそろそろ終わりにしよう」
「嫌だ」
「ご飯の時はテレビにするっていう約束でしょ?」
「だって観たいんだもん!」
「じゃあもうYouTubeは禁止にします」
「えー!嫌だ!パパなんて嫌い!」
「嫌いでもいい、ルールはルールだ」
灯は嫌々リモコンを操作して地上波の番組を流し、椅子に座った。
「いただきます」
静かに夕食の時間を過ごせると思ったのも束の間、灯が口を開く。
「ジュースは!?」
「はいはい」
徹は女王様の命令に従い、冷蔵庫からジュースを取り出し、二つのコップに注ぐ。
「ふーちゃんも!」
そう言われるのは分かっている。
「ふーちゃんのも用意したよ」
二人のコップをテーブルに置き、早速食べ始めようとしたその時、女王様がまた口を開く。
「え~ふーちゃんの方が多いじゃん!」
決して多くはない、風花のコップの方が細いのでそう見えるだけである。
「多くないよ、同じだよ?」
そう言っても理解してもらえるはずがない。
「ズルい!あーちゃんもいっぱい飲みたいのに!」
灯は風花のコップを取ろうとした。
しかし自分の物を取られまいと風花もコップをしっかりと掴んでいる。
「分かったからやめて!灯のジュースを足せば良いんでしょ?」
徹の必死の制止も虚しく、案の定コップはひっくり返り、ジュースがテーブルや床にぶち撒けられた。
一部始終を見ていた雪乃がため息をつき、口を開いた。
「もう、何やってんの」
おそらくその言葉は娘達に対してではなく、徹に対して放たれたということを分かっていた。
「、、、、ごめん」
徹はグッと言葉を飲み込み、怒りを鎮め、ベタベタになった床を拭き始めた。
第二章 夢のために
徹はいつものように感情を殺した冴えない毎日を過ごしていた。
この世の中の人々は皆レールの上を走っている。
大学に行き、就職して結婚して、子育てをして、楽に時間を潰せる趣味に勤しみ死んでいく。
そんな可能性も面白味もないレールの上なんて真っ平ごめんだ!と思っていた徹だったが、何度脱線しようとも常識というレールの引力に引き戻されてしまう。
このレールに乗っているのも楽ではない、日々肉体と精神をすり減らしながら過ごし、疲弊して眠る。
意識して脱線しなければおそらく自分もこのレールに乗ったまま死んでいくのであろう。
だからこそ最後の抵抗として徹は曲を作り続けるのだ。
もしかしたら何者かになれるかもしれないという可能性に期待してコツコツ努力を積み重ねる日々を過ごす。
例え疲労がピークに達し、レールの上で甘んじて眠ってしまいそうになったとしても。
ピロン
スマホの通知音で目が覚める。
どうやら曲作りの最中にいつの間にか居眠りをしていたようだ。
友達も知り合いも少ない徹のスマホにメールが届くこと自体が珍しい。
聞き覚えのない通知音に身体が反応して起きたのだろう。
徹は霞む視界に突き刺さるブルーライトを受けながら、メールを開いた。
そこに書かれていたのは、アイドルキングダム3の追加コンテンツとなる楽曲の制作依頼だった。
徹は迷惑メールじゃないかと何度も見返した。
送信元についても調べた。
しかし正真正銘の本物である。
内容としては、こないだ作った楽曲[夢のトビラ]が制作依頼のキッカケになったとのことだった。
依頼したい曲数は五曲、曲のイメージなどもつらつらと書かれていた。
「一曲、25万!?」
正直、作詞作曲編曲でお金を貰ったことがない徹にとって、曲の相場は分からない。
しかし、この金額はとても高いように思えた。
25万という数字は今の仕事の月収を上回っていたからである。
もし今回の案件で認められれば、継続して仕事を貰える可能性がある。
そうなれば夢のミュージッククリエイターとして生きるという未来に手が届く。
その可能性が見えただけでも徹の心は踊っていた。
夢に向かってコツコツと努力を積み重ねてきて良かった。
誰にも理解されなかった、誰も理解しようとしてくれなかった、仕事に行き、金を稼ぎ、父親としての職務を全うすること以外許されないこの世の中で、自分は異端者だった。
その孤独に耐え続け、それでも未来に手を伸ばした、可能性に手を伸ばし続けた。
それがようやく報われた気がした。
ざまぁみろ!今までバカにしてきた者達よ。
その中には妻の雪乃、妻の家族も含まれていた。
この案件を受けないわけがない、ようやく命をかけて挑戦したいものが見つかったのだから。
それに、アイドルキングダムは昔からファンとしてプレイしていた。
自分の大好きな作品に関わることが出来るなんて、これ以上に幸せなことはない。
徹は迷いなくメールを返信した。
やることが明確になった。
何を差し置いてでも曲を作らなければならない。
鳥籠の扉が開いたような気分だった。
大空を羽ばたいて良いのだ、もう閉じ込められながら目的もなく生きる必要はない。
自由な時間がない生活を送っていた徹にとって、作曲の時間というのはごく僅かだった。
他の作曲家は作曲で金を稼ぎ、時間を存分に注力することが可能である。
しかし、このちっぽけな翼でも、他の怪鳥達のように高みを目指す必要がある。
飼い主がどんなに高級な餌を用意しようと振り返らないと心に決めていた。
大空へと飛び立ったヒヨッコ徹は小さな翼で懸命に羽ばたいた。
鳥籠の中を飛ぶよりも、外の世界はずっと難しかった。
今までは自由に作りたい曲を作っていたが、今は違う。
作るべき曲の雰囲気やコンセプトがあり、お金を貰うという重圧から細部までこだわる必要がある。
今までの曲作りよりも時間をかける必要があり、集中する必要があった。
「ただいま~!」
鳥籠の方から声が聞こえる、ということはもう夕方か。
二体の怪獣達がヒヨッコを喰らおうと思索していることだろう。
しかしそれは叶わない。
何故なら徹は空にいるからだ!
徹はすぐに自室の鍵をかけ、地上(一階)からの音をシャットダウンした。
悪いが俺は仕事中だ、邪魔をするな。
頭の中にメロディと歌詞が降りてくる、どうやら空の彼方で待っている神様すらも味方をしてくれているようだ。
徹は冷め切ったコーヒーを一気に飲み干し、PCのキーボードを叩いてコードを打ち込んだ。
作詞作曲というお金にならない活動を続けていて本当に良かったと心から思った。
これまで自分を認めてくれたSNSのファンの皆、オファーをくれたアイドルキングダムの関係者の方々、元を辿ればアイドルキングダムを好きになるキッカケをくれたオタクの友人、かつて音楽というものを切磋琢磨し合った音楽仲間達。
全てに感謝の気持ちが湧き上がってきた。
必ず良いものを作って有名になってやる。
そうすれば雪乃も子供達も、雪乃の家族も自分を認めてくれるに違いない。
そして大金を手にして褒めてもらおう。
そんなことを考えていたら、尚更モチベーションが高まった。
音楽を作るのは楽しい、心からそう思えた瞬間だった。
休日は子供達が帰ってきても一階に降りることなく作曲を続けた。
それに関して雪乃から不満が出ることはなかった。
曲作りに熱中していると雪乃からLINEがきた。
[ご飯出来た]
結婚五年目にもなると、もはや絵文字なんて使わない。
基本的に業務連絡のみである。
[了解]
そう送ったものの、まだ曲作りがひと段落していない。
いつでもやる気があるわけではない、創作活動というのは気力に波があるものなのだ。
気力のビッグウェーブには乗らないと損である。
そして、今がその時だ!
徹はそのまま楽曲制作を続けた。
そうこうしているうちに階段駆け上がってくる音が聞こえる。
おそらく晩御飯を食べたくない灯が時間稼ぎのためにパパを呼びに来たのだろう。
「パ~パ~!!ご飯出来たよ!!」
ご名答である。
「仕事終わったら降りるから、先に食べてて」
ガチャガチャ
扉を開けようとドアノブを荒々しく揺する灯だったが、扉には鍵をかけている。
「え~パパも行かなきゃ嫌だ!!」
「いいから、先に食べてなさい」
ガチャガチャガチャガチャ!!
ドアノブが悲鳴をあげている。
「パパは仕事中だよ」
「開けてよ~うわぁーーーーん」
自分の思い通りにいかない時の最終手段、大泣き大暴れを発動し、灯は制御不能となる。
ワガママでネガティブな炎を扉の前で撒き散らし、籠城している徹を火攻めする。
この状況下で仕事に集中することなど不可能であると判断した。
結局徹は灯の計略にまんまと引っかかり、扉を開けるのであった。
「パパ!!遅いよ!!」
「はいはい、下に降りましょう」
スタスタと階段を降りると灯は更に怒り出す。
「あーちゃんが先に降りるの!!」
「はいはい、じゃあ早く先に降りてください」
「もう!!パパなんて知らない!!」
プリプリと怒りながら徹を追い越す灯。
その後ろをPCにうしろ髪ひかれながらダラダラと降りる徹。
「パパ!!早く!!」
まだ仕事が終わっていないのに、何故こんな茶番に付き合わされなければならないのか。
理不尽な怒りを受け続け、沸々と胸に怒りが溜まっていく。
子供がいる生活というのは全ての行動の時間を決められているようなものだ。
起きる時間、ご飯の時間、お風呂の時間、寝る時間、、、
好きな時間に好きなタイミングで動くことは出来ない、常に決められた時間に子供と一緒に行動する必要がある。
こんな状況じゃ仕事が進まない。
今となっては曲作りの優先順位が一番高い。
何故ならお金が発生していて、責任が伴っているからだ。
「やっぱりパパは仕事をしなきゃいけないから、あーちゃんは先にご飯食べてて」
「えー!!嫌だ~パパも行くの~!!」
灯は地団駄を踏みながら泣き始めた。
「ごめんね、ちゃんとご飯食べるんだよ」
泣き叫ぶ灯に背を向け、徹は自室へと引き返す。
これで良いんだ、最悪の事態は曲作りが終わらず、納期に間に合わずに夢が途絶えることである。
「もうパパなんて知らない!」
階段に灯の怒りが響き渡る。
何度も聞き流していたその言葉に初めて返答をしたくなった。
「ああ、頼むからほっといてくれ」
そう小さく呟いた。
曲作りに時間を使いたいが、仕事には行かなければならない。
今日も徹は出勤していた。
徹は精神疾患を持つ方々の職業指導員として働いている。
今日も利用者と共に清掃作業を行うのであった。
六人の利用者を引き連れて、企業から委託されたビルの清掃を行っていると、一人の利用者に声をかけられた。
「山下さん、俺思うんですけど、人生に意味なんてないと思うんです」
そう言ったのは40歳の義幸(よしゆき)さんだ。
義幸さんは利用者の中でも一番よく働き、周りが見えていて頭も良いので職員からも信頼されている人物だ。
しかし、ギャンブル依存症でパチンコが辞められず、負けてお金がなくなると自暴自棄モードに突入することが多々ある。
「急にどうした?」
拭き掃除をしながら横目で義幸さんを見た。
モップの手を止めて眉間に皺を寄せながら一点を見つめている。
そして言葉を続けた。
「パチンコも、今やってるこの仕事も結局意味ないんですよ。俺達精神障害者の未来に希望なんてないんですから」
この台詞は状態が悪くなった義幸さんの定番の台詞だった。
いつもなら受け止めて傾聴を続ける徹だったが、今日の徹は違った。
「自分の未来に希望がないと思っている奴に、たまたまラッキーで希望が訪れるわけないだろ」
義幸さんはその言葉を聞き、驚いた様子だった。
「どういうことですか?」
「変化を恐れて今の生活に甘んじてる奴の未来が良いものに変わるわけないだろってことよ」
義幸さんは戸惑っている様子だった。
おそらく想像とは違う言葉が返ってきたからだろう。
少しの沈黙の後、義幸さんが口を開いた。
「やっぱり精神障害者の未来に希望なんてないってことですよね」
捻くれた様子の義幸さんに徹は本心を言おうか迷ったが、決心した。
「確かに健常者よりも不利な部分はある。でも実際、障害の有無は関係ない。自分の人生をどうしたいか、そうなるために今どうすべきか、変化を恐れずに努力を続けた人だけが望む未来を手に入れることが出来る。健常者でもそれが出来ない人は多いし、そういう人達は現状にブツブツ文句を言いながら寿命を迎える。もちろん精神に病を抱えている人達は病状の安定が最優先だから目指す未来に到達するのが遅れる可能性はある。でも遅れるだけで、不可能ではない。手を伸ばさなきゃ、希望なんてない」
流石に言い過ぎたか?
言い終えたのと同時に少しだけ後悔した。
だが、義幸さんは頷きながら作業を再開した。
「分かってるんですけどね、多分皆分かってるんですけど怖いんですよ」
「怖い怖いと怯えていたら、未来は何も変わらない、時には立ち向かわなければ」
「山下さんは怖くないんですか?」
「同級生達が就職する中、音楽の道を選んだイカれた男だよ、恐怖なんてものはとうの昔に捨てた」
「凄いですよね、山下さんって」
「いや、凄くないんだよ、まだ何者にもなれていない。ミュージッククリエイターになろうとはしてるけど、まだなれないし、父親にもなりきれない、中途半端な男よ」
「いや、凄いですよ。子供を育てながら仕事もして夢を追う勇気もある。俺こそ何者でもないですよ、家族もいないし、こうやって就労支援を受けながらパチンコで金を溶かすだけですから」
義幸さんは深くため息をついた。
「義幸さんはさ、この先の自分の人生をどうしていきたいの?例えば誠司さんはこのままグループホームで生活保護をもらいながらゲームを楽しめればそれで良い、とにかくストレスがないように生きたいってこないだ言ってたじゃん?義幸さんはあの時何も言ってなかったからさ」
誠司さんという人は義幸さんとよく一緒に作業をする利用者である。
人はそれぞれどう生きていきたいかが違う、就労訓練として通所している利用者も全員が一般就労を目指しているわけではない。
グループホームという複数人の利用者とお世話人さんが常駐している守られた空間で過ごすことが心地良いと思っている人は多い。
就労訓練で得た収益は、大体皆ジュース代で消える。
義幸さんの場合はせっかく稼いだお金をパチンコに溶かしてしまう。
本人がその生き方で満足しているならそれで良い、だがもし本当は違う生き方をしたいのであれば、応援したかったし、彼なら違う生き方が出来ると確信していた。
「俺も本当は一般就労して、一人暮らしをして、あわよくば結婚して、普通の人としての暮らしをしたいです」
「じゃあそこを目指そうぜ、今から」
義幸さんはモップの手を止め、徹を見た。
「いや~でも、生活保護が切れるのは怖いし、今は就労訓練ということでたまに静養しても許される状況ですけど、、、それに、もしおかしくなったとしても山下さんがいるから大丈夫っていう安心感もあるんです。この環境から抜け出すのは怖いですね」
新しい環境に飛び込むのは誰だって怖い。
自分も一人で東京に飛んだ時、結婚して宮城に引っ越した時は怖かった。
それでも現状を変えるには不安だらけでも飛び込むしかなかった。
「今のまま死ぬまでぬるま湯に浸かることを否定してるわけじゃない、そういう人生もアリだと思うし、傷付くくらいならそのまま生きたいっていう気持ちは誰もが分かると思う。でも、現状を変えたいなら挑むしかない!他に方法があれば良いけど、誰もが今を変える時、すなわち未来を変える時は自分と戦うことになるんだ」
熱い演説が義幸さんの心に響いたかは分からない。
それでも彼は頷き、モップをかけ始めた。
「俺は一般就労したいです。一人暮らしをして普通の生活をしたい」
少し熱くなりすぎたか、そう思った徹だったが義幸さんの言葉を聞いて安堵した。
「良いね、人生はいつだってこれからよ。互いに夢を叶えよう」
気がつくと二人は握手を交わしていた。
曲作りに割く時間を増やしたおかげで順調に仕上がっていた。
そんなある日、今日も変わらずに曲作りを行なっていると怪獣の足音が近づいてくる。
二体の怪獣が泣きながら階段を駆け上がって来ている。
ふと時計を見ると20時を回っていた。
「パ~パ~!!ぁああ、、ああ~!!」
扉の向こうから呼び声がする。
灯だけではなく、どうやら風花もいるようだ。
泣き叫びのデュエットが部屋に響き渡っている。
「何、どうしたの?」
扉越しに会話を試みる。
開けたら最後、曲作りの時間が終わってしまうだろう。
風花は泣き叫ぶのみだが、灯はどうにか説明しようと言葉を詰まらせている。
「ママに怒られたのぉ~!!」
怒られるには理由があるはずだ、そう思う徹は灯に問いかける。
「何で怒られたの?」
「ママが~出ていけ!って言ったの!」
自分は悪くないと言いたいのだろう、何故?という質問には答えない。
「何で出ていけって言われたの?」
「あーちゃんとふーちゃんが喧嘩したから」
「仲直りして、仲良く遊びなさい」
さぁ、下の階に行くんだ!
そう願ったが叶わず、二人は尚も扉の前で泣き叫んでいる。
「だって、ママが怒ってるんだもん!!」
「謝れば良いじゃん」
そもそも俺が行ったとて状況は変わらないだろう。
そう思ったが、行かなければ怪獣達が撤退する様子もないので、徹は渋々扉を開けた。
扉が開くなり二人は徹に抱きつき、大泣きした。
様子がおかしい、流石に泣き過ぎだ。
そう思った徹は灯に問いかける。
「何かあったの?」
灯は泣きながらも説明を試みる。
「ママがさ~怒ってるんだもん!」
「それは分かってるんだけど、、まぁとりあえずパパと一緒に下に行くか」
徹は二人を両腕に抱き抱え、下へと降りた。
そこには明らかにイライラしながら掃除機をかける雪乃がいた。
この時間に掃除機をかけている事自体不自然である。
子供達は未だ徹にしがみついている。
「お疲れ様~」
「、、、、、、」
掃除機の音で聞こえないのか、雪乃は無言で掃除機をかけ続けている。
徹は悲鳴をあげる二の腕を休めるためにソファに腰掛け、二人をおろした。
しかし二人は徹から離れようとしない。
掃除機をかけ終えた雪乃に声をかける。
「何かあったかい?」
「、、、別に」
明らかに不機嫌な様子だが、これ以上詮索しない方が良いだろうと思い、ソファから立ち上がった。
「パ~パ~行っちゃダメ!!」
珍しく子供達が二人でパパを引き留める。
自分にやれることは何もない、そう思うとすぐに頭をよぎるのは曲作りのことである。
「パパは仕事に戻るよ」
そう言った瞬間、雪乃が突然口を開いた。
「あなたには父親という仕事はないの?」
遂に言われてしまった、心の中でそう思った。
本当は分かっている、職場の佐藤さんのように毎日子供とどこかへ出掛け、子供達との時間が至福だと言えるような生活をすべきだということを。
でも自分には無理だ。
「毎日仕事をして、給料のほとんどを家族のために消費している。飲みにも行かず、タバコもギャンブルもやらず、自分に全くお金を使わない。それは父親として居続けるためにやってることだけど、それだけでは父親としての仕事が出来ているとは言わないのだろうか?」
今言ってしまった言葉は本心だ、本心だが言わなくても良かったなぁと、言った瞬間に後悔した。
「やっぱりそんな風に思ってるんだ。私は毎日早起きして自分の用意と二人の用意して保育園に送って、その後仕事に行って、仕事が終わったら娘達二人を迎えに行って、帰ってきてから家事やって二人のご飯の用意してお風呂入れて寝かしつけて、、、良いよね、あなたは仕事さえしていれば良いんだから!」
ごもっともだ、返す言葉もない。
もちろん本来ならば、良い父親ならば雪乃が行なっていることを夫である自分も請け負うのが当たり前なのだろう。
だが、それが出来ない、どうしても出来ないんだ。
「要するにこうだ、俺はお金を稼いでそのほとんどを家族のために使い、帰宅後の時間も全て家族のために使い、この先の俺の人生をすべて家族のために使えば良いということだな」
「私は毎日その生活をしてるの!そもそも子供達のためを想ったらそんな言葉は出てこないよ!あなたは子供をなんだと思ってるの?あなたは結局自分のことしか考えてないんでしょ!」
雪乃がこんなに取り乱しているのは初めてのことだ。
旦那としても失格だ、そう思った。
「あなたはあなたの楽な仕事だけしていれば良いと思ってるんだろうけど、こっちは家事も育児も仕事もしてるの!子供達が熱を出したら仕事を早退してるけど、たまにはあなたが早退してくれても良いんじゃないの?」
全面的に自分が悪い、そう思っていたが、こちとら楽な仕事をしているわけじゃない。
役職もつき、日々責任ある仕事を行なっている。
上司と部下の板挟みの中、ストレスを抱えながらも休まずに働いている。
働いて得たお金のほとんどは雪乃に渡している。
楽な仕事だと言われるのであれば、俺は何のために働いているんだ?
そう思うと自然と口が動いていた。
「雪乃はパートだろ、俺は役職がある仕事だ。その時点で同じ仕事ではないだろ。俺が早退するのは会社にとって大きな痛手だ、パート従業員とはわけが違う。この際言わせてもらうけどな、俺は稼ぎを自分に使っていない、コンビニで買い食いすることもないしタバコもギャンブルもやらない、常に節約して生活している。それは何故だと思う?少しでも多く家族にお金を残すためだ。だがお前はどうだ?毎日お菓子やらアイスを買って、休日には既に持っているカバンやら服を買う。気にはなっていたが目を瞑ってきた、家事も育児も大変だろうと分かっていたからだ。でも今の言葉を聞いたからには黙っていられない。俺が稼いで俺が節約して残したお金を無駄遣いするな。全て自分が正しいと思ったら大間違いだぞ」
あーあ、言ってしまった。
そう思ったが言ってしまったものは仕方がない。
「家事も育児も大変だって分かってるなら何で手伝ってくれないの!?私はあんたの家政婦じゃないの!!」
「俺は福祉の仕事以外に音楽も作ってるんだ、お前は俺の仕事を手伝えるのか?お金が発生したからには曲作りも仕事だぞ?そんな時間はないんだよ、そこまで言うんなら俺は福祉の仕事を辞めて家事と育児をやれば良いのか?それで家計は足りるのか?」
「辞めたら良いよ!私が働くからあんたが家事と育児すれば良いじゃん!家事と育児は音楽作りながらでも出来るでしょ?私も働くだけで良いなら楽な毎日になりそうだわ」
「楽な毎日だと?やってみろよ!パートしかやったことがない奴には到底無理だろうけどな」
「家事も育児もやったことない人には無理だろうけどね!」
その時、灯が割って入った。
「喧嘩したらダメ!!」
子供達がいることをすっかり忘れて不毛な喧嘩を繰り広げていたことに気が付いた。
「ごめん、とりあえず分かった。良い父親になれるように努力します」
「お願いします」
この不毛な喧嘩の落とし所は徹が譲る他ないのだろう。
こうして夫婦史上最大の大喧嘩は灯によって終戦した。
その日の夜から曲作りで夜更かしすることをやめ、翌日の朝は早く起きて子供達の保育園の準備をした。
会社が終わるとすぐに帰宅し、曲作りはせずにそのまま居間で子供達と過ごした。
その間に雪乃は家事を片付けている。
雪乃曰く、家事はお母さんと共にやるからその間に子供達を見ていてほしいとのことだ。
どうやらこれで合っているらしい。
子供達とお風呂に入り、子供達の歯磨きをして、子供達を寝かしつける。
言葉で言うのは簡単だが、お風呂では頭を洗いたくないと大暴れされ、歯磨きでも同じように拒否が見られて挙句の果てに顔面を叩かれた。
目を擦り、眠い様子が見られるものの、グズグズ泣き叫び、眠りに落ちる気配がない。
ようやく自分の時間がやってきたのは22時を過ぎてからだった。
さて曲作りを開始しようかと思ったが、これから自分の寝る用意をして、明日も同じように早く起きなければならないことを考えるともう眠るべきだ。
それに睡魔に襲われ始めた。
今日はもう寝よう。
子育てと仕事だけで一日が終わってしまった。
~~~~~~~~~
次の日。
今日も朝早く起きて子供達の保育園の準備をした。
仕事が終わるとすぐに帰宅し、曲作りはせずにそのまま居間で子供達と過ごした。
頼まれたので風呂洗いとゴミ捨ても行なった。
ゴミを捨てる前に全ての部屋のゴミを集める、それが地味に面倒である。
ゴミ捨て場は団地の真ん中あたりに設置されていて、徒歩で5分くらいかかる。
実に効率が悪い。
子供達の見守りをしている間に雪乃は家事を片付けている。
雪乃の表情は良い。
やはりこれで合っているらしい。
子供達とお風呂に入り、子供達の歯磨きをして、子供達を寝かしつける。
言葉で言うのは簡単だが、今日もお風呂では頭を洗いたくないと大暴れされ、歯磨きでも同じように拒否が見られて今日は鼻に頭突きをされた。
目を擦り、眠い様子が見られるものの、今日もグズグズ泣き叫び、眠りに落ちる気配がない。
ようやく自分の時間がやってきたのは22時を過ぎてからだった。
さて曲作りを開始しようかと思ったが、これから自分の寝る用意をして、明日も同じように早く起きなければならないことを考えるともう眠るべきだ。
それに今日も睡魔に襲われ始めた。
もう寝よう。
そう思ったその時、風花の夜泣きが始まった。
赤ん坊の頃は毎日夜泣きがあって眠れなかったが、最近はなくなっていた。
だがここにきてまた始まった。
雪乃は眠っている。
ここは父親の出番なのだろう。
徹は風花をあの手この手であやすが泣き止む気配がない。
雪乃の眉間には皺が寄っている。
おそらく起きているが動きたくないのだろう。
徹は風花を抱き上げ、家の中を歩き回った。
どれくらい時間が経っただろうか?
今日も子育てと仕事だけで一日が終わってしまった。
~~~~~~~~~
そんな日々を繰り返し、徹はふと気が付いた。
曲作りが全く進んでいないということに。
休日は休日で一日中子供達と過ごした、そうしなければ父親ではなくなってしまうからだ。
期限まであと二週間しかない。
だが父親業を辞めるわけにもいかない。
今日もいつも通り朝早く起きて子供達の保育園の準備をした。
仕事が終わるとすぐに帰宅し、PCがある部屋に駆け上がろうと思ったが思い止まり、曲作りはせずにそのまま居間で子供達と過ごした。
曲を作らなければならない、しかしそんな時間はない。
その間に雪乃は家事を片付けている。
雪乃の表情は良い。
このムーブが正解だと確信している。
子供達とお風呂に入り、子供達の歯磨きをして、子供達を寝かしつける。
言葉で言うのは簡単だが、いつも通りお風呂では頭を洗いたくないと大暴れされ、歯磨きでも同じように拒否が見られて、歯ブラシをぶん投げられた。
俺だってこんなことやりたくないんだ、誰のためにやってあげてると思ってる!!
喉元まで昇ってきた怒りを噛み殺し、何とか冷静さを保つ。
目を擦り、眠い様子が見られるものの、いつも通りグズグズ泣き叫び、眠りに落ちる気配がない。
好きなタイミングで寝れば良い、だがその代わり親に依存せず自立して生活しやがれ。
唇を噛み締めながら言葉を殺す。
ようやく自分の時間がやってきたのはやはり22時を過ぎてからだった。
さて曲作りを開始しようかと思ったが、これから自分の寝る用意をして、明日も同じように早く起きなければならないことを考えるともう眠るべきだ。
それにまたいつも通り睡魔に襲われ始めた。
もう寝なければならない、しかし曲を作らなければならない。
いつものように子育てと仕事だけで一日を終えるわけにはいかない!!
雪乃は寝る用意を済ませ、子供達と共に眠りについた。
徹はエナジードリンクを身体に流し込み、ベランダに向かった。
肌寒い秋の夜風を身体に浴びながら、タバコに火をつけた。
灯が生まれるタイミングでタバコを辞めたが、この辛い日々を乗り越えるためにまたタバコが必要になってしまっていた。
深く煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
タバコの時間は頭の中を整理できる。
さて、やるか。
エナジードリンクとタバコの煙を燃料にPCの電源をつけた。
第三章 死
仕事と父親業と曲作りを繰り返す日々の中で、徹の身体は明らかに疲弊していた。
しかし止まるわけにはいかない。
仕事を休むわけにはいかない。
役職付きの徹は職場で重要なポジションにある。
休めば皆に迷惑がかかる、徹に会うために登所する利用者がいる、そもそもお金を稼がなければならない。
休んではいけない理由は見つかるが、休む理由は見つからない。
父親業を放棄するわけにもいかない。
最近の雪乃は以前よりも笑顔を見せてくれるようになった、本来父親としてこのように過ごすべきだということは分かっていた。
ようやく父親になれたのだ、それ自体は徹自身も嬉しかった。
子供達と遊ぶのは正直楽しくはない、だが日々子供達が考えていることや成長を知ることが出来るのは面白い。
夢を諦めるわけにはいかない。
曲を作り続けてSNSに投稿し続けてきた、その努力がようやく報われた。
今回アイドルキングダム3の楽曲制作を依頼され、この試練を乗り越えれば華々しくミュージッククリエイターとして名を馳せることとなる。
こんなチャンスが巡ってくることは二度とない。
何を差し置いても曲を作らなければならない、そんなことは分かっている。
問題は物理的に時間が足りないということだ。
仕事、子育てには必要最低限の時間を割いている。
それでいて今の状況だ、曲作りをする時間は睡眠を削る他ない。
だが次は身体の限界を感じている。
いや、ここは正念場だ。
若かりし頃はライブ終わりに音楽仲間と共に飲み明かしたものだった。
今はもう連絡すらとらなくなってしまったが、彼等は今も夢を追いかけているだろうか?
あの頃は楽しかった、と昔に想いを馳せている自分に気が付き、大きく息を吸った。
昔は良かったなどと言いたくはない。
そう思うのであれば、今を人生で最高の瞬間にする必要がある。
俺が今やるべきことはこうだ。
毎日仕事と子育てをやり切り、睡眠を削ってでも曲を作る。
しかし、ただ曲を作るだけではダメだ。
最高の五曲を作り上げてみせる、構想はもう頭の中にある。
あとはやるだけだ、シンプルじゃないか。
こうして徹は心を殺し、仕事と子育てをやり切った。
いつからか眠気を感じなくなり、曲作りは順調に進んでいた。
眠気がくるのは朝の五時頃からだったが、もはや一時間も眠れないということでオールで仕事に臨んだこともあった。
期限まであと一週間、もう既に四曲制作を終え、残すは一曲となっていた。
疲れなどもう感じなかった、そんなある時。
仕事を終え、家に帰ろうと車に乗った。
早く帰らなければ父親になれない。
その強迫観念からか、徹は残業することをやめた。
主任という肩書き上、部下を置いて毎日一番最初に帰るのは良くないのだろう。
皆の白い視線を感じながらも、徹は父親になるために足早に帰るのだった。
今までは上司の仕事を肩代わりして、残業してでも会社のコミュニティを大切にしていた。
そのおかげもあり、職場での人間関係がもつれることは一切無かったが、今は良いとは言えない。
上司からは日々小言を言われている。
しかし今の徹にとっては時間以上に優先すべきものはない。
この仕事が終われば、子育てという次の仕事が待っているのだから。
徹は鍵を刺し、エンジンをかけようとした。
「、、、、、」
何故だろうか、手に力が入らない。
鍵を回そうとするも、鍵は回らない。
帰らなければいけない、でも帰れない。
よく見ると手が震えていた。
疲れているのだろうか?
そう思い、一呼吸おいて再度鍵を回してみる。
やはり回らない、回すことが出来ない。
徹はグッタリとシートに倒れた。
帰らなければいけないのに、帰りたくない。
そんな感情に気付いたのだ。
エンジンはかからないのではない、かけたくないのだ、身体が拒絶しているかのようだった。
徹は車の中で一時間近く休憩し、ようやく鍵を回すことが出来た。
帰っている最中の記憶はないが、家に着き、エンジンを切った。
少し遅れてしまったが父親になる必要がある。
車の扉を開けようとしたが、今度は扉が開かない。
早く帰って子供達の面倒を見なければならないのに、車から出られない。
またもそこで三十分ほど休憩してからようやく家に帰った。
合計で一時間半も遅れて帰ってきてしまったことへの罪悪感と怒られるのではないかという恐怖感に駆られながらそっと扉を開けた。
「ただいま~」
「パパ~!遅いよ!」
娘達のお叱りを受けながら居間へと入る。
「ごめんごめん」
「おかえり」
雪乃は夕飯の準備をしていた。
一時間半遅れて帰ってきてしまったが、特に変わりはないように思えてホッとした。
動けないという謎の状態に陥ってしまったため、今日は早めに眠ろうとした。
しかし眠気が全くやってこない。
それどころか布団に入っても頭の中で過去の出来事や誰かに言われた言葉、現在不安に思っていることや未来の想像などの映像が目まぐるしく映し出される。
頭が冴えている?ともいえない、心は沈んでいる。
頭が冴えているのであればこのまま曲でも作ってしまおうかと思ったが、またも身体が動かない。
どうしたら良いんだ、どうしたら良いんだ。
俺は何をどうしたら良いんだ?
俺は、どうしたいんだ?
その自問自答を繰り返し、朝がやってきた。
一睡も出来ない日々が続いている。
しかし何故だか何もやる気が起きない。
朝も起きられなくなってしまった。
子供達の保育園の準備をしなければ、そう思うのに時間だけが過ぎていく。
ガチャン
玄関の扉が閉まる音がした。
子供達は保育園に行ってしまった。
俺は父親として何も出来なかった、雪乃は失望したことだろう。
帰ってきたら、娘達には罵声を浴びせられ、雪乃からは冷たい視線を貰うことだろう。
そうならないように、罪滅ぼしにプレゼントでも買って帰ろうか?
いや、そんなことよりも家族との時間を増やすべきだ。
しかし曲作りの期限まで三日しかない。
曲を作らなければならない、残すはあと一曲。
しかし、まずは会社に行かなければならない。
身体が動かない、休むわけにはいかない。
動け、動け、動け!
「動けぇえ!!!!!!」
絶叫と共に起き上がることが出来た。
「クソッたれ、皆俺の邪魔ばかりしやがって」
徹は寝癖のまま家を飛び出した。
徹の心の中の獣が、静かに脱走の機会を伺っていた。
今日は月初ということもあり、事務処理が多かった。
徹の事業所は利用者様のお金の管理もしているので、それに伴う資料は利用者本人から直筆のサインをいただく必要がある。
「サインなんか書かねぇ!いらねぇ!」
「いらねぇじゃなくて、書いてよ畑山さん」
今日もあらゆる場所で利用者が不機嫌を撒き散らしている。
徹もとある利用者の元へと向かっていた。
彼はいつも誰もいない倉庫の前に座り込んでいる。
コミュニケーションが嫌いで、人と交わることが出来ない性質を持っている。
彼がこの事業所に来た時は仕事もせず、誰とも会話せず、どうしたものかと職員間でも議論が交わされていた。
しかし、それはあっさりと解決されたのだ。
彼は徹がいる作業には参加する。
彼がいるであろう倉庫に近づいた時、廊下に声が響いた。
「あ!これは山下さんの足音だ!山下さ~ん!おはよう」
子供のように大きく手を振る彼が、42歳の誠司(せいじ)さんだ。
彼はどの利用者とも職員とも話さないが、徹にだけは心を許している。
「おはよう~誠司さん」
「やった~今日も山下さんに会えた」
「42歳のおじさんにそれを言われてもなぁ」
「本心ですからいいじゃないですか!」
「どーもどーも、誠司さんサインをもらいに来たんだ」
徹は誠司さんのお小遣いの明細が添付された資料を見せる。
誠司さんは中身を確認せずにサインをした。
「ちゃんと確認してくれって、これもし内容が間違ってても誠司さんサインしたからには抗議出来なくなるんだよ」
「山下さんが作成した資料が間違ってるはずありませんから!」
「いやいや、俺も人間だからね、間違えることはあるんだから」
「それはそれで良いです、いつも山下さんにはお世話になってますから」
「まったく、まぁいいや」
誠司さんは続けてゲームの話をしている。
彼はゲームが大好きなのだ。
日常で極力ストレスを感じないように過ごし、あとはゲームさえ出来れば人生は十分だという考えを持っている。
生活保護を受けながらGH(グループホーム)で生活しているが、今の生活が最高だとのことだ。
ちなみにGHとは、利用者数人で同じ屋根の下で生活をする場所のことである。
その生活をサポートするお世話人さんが常駐している。
「最近どうよ?変わりないかい?」
これは病状を確認するためによく使う台詞だ。
この台詞を聞いて、利用者は今自分の身体に起こっている問題や周りへの不満、人生についての不安を口にする。
それを傾聴し、場合によっては助言したり励ましたりして共に仕事に向かう。
状態が悪いと判断した場合は仕事を無理強いすることはしない、仕事は楽しく無理せず、人間なんて無理なときは無理だ、これが山下徹の考えだった。
それもあってか徹は利用者からの信頼が厚く、徹が担当する作業で静養する利用者は少ない。
「最近ですか?変わりないです、山下さんがいれば俺の病状は安定していますから」
「いやいや、俺にそんな力はないだろう」
「本当ですよ!通院に行って、精神科医に話をするよりも山下さんと話している方が病状良くなるんです!本当ですからね!」
「マジかよ!嬉しいけどさ」
職業指導員としてこんなに嬉しいことはない。
ちょっとした恥ずかしさを隠しながら徹は立ち去ろうとした。
「とりあえず、もう少しで作業始まるから準備しといてくれよ」
「はい!分かりました!!あ、山下さん!」
歩き出した徹だったが、急に呼び止められて振り返った。
「山下さん、絶対にいなくならないでくださいよ!?俺山下さんがいなきゃ人生楽しくないですから!」
突然何を言い出すか、思いがけない言葉に徹は言葉を探していた。
おそらく彼は特に深い意味はなく、伝えたかったから伝えたのだろう。
利用者はたまにそういうことがあるのだ。
「ありがとう」
面白い返しやツッコミを探したが見つからなかった、出てきた言葉はありふれた感謝の五文字だった。
そして何故か、目から涙がポロポロと溢れてきた。
「え!山下さん、どうしたんですか!?大丈夫ですか!?」
誠司さんは心配して駆け寄ってきたが徹はそれを制止した。
「大丈夫だ、ありがとうな、誠司さん」
「あ、はい、、だ、大丈夫ですか!?」
こんな顔を見せるわけにはいかないと思い、徹は足早に歩き出した。
誠司さんは心配そうにソワソワとしながらこちらを見ているに違いない。
徹は後ろ向きに手を振り、廊下の角を曲がった。
今日は致し方なく残業することになってしまった。
徹は慌てて会社を飛び出し、車に乗った。
早く帰らなければならない、最近は車に乗ってから動けなくなることが多いため、それも加味してのことだった。
一息ついて車のエンジンをかける。
ブルン!!
今日は止まることなくエンジンをかけられた。
その勢いのまま駐車場を後にした。
家に着き、車の扉を開けた。
今日は止まることなく外に出ることが出来た。
小走りで走り、玄関の扉を開けた。
「ただいま~!」
家に帰って徹はため息をついた。
「嫌だ!!ふーちゃんのはそっちでしょ!」
「イヤだイヤだ!ふーちゃんの、すくない!」
どうやら灯と風花が喧嘩をしているようだ。
彼女達は一日に三十回は喧嘩する。
いつものことではあるが、ネガティブな感情を撒き散らされるのはいつも疲れる。
徹の足が玄関で止まりそうになる。
このままではダメだと思い、徹は無理やり靴を脱いで居間へと通じる扉を開けた。
「ただいま~」
「おかえり」
明らかにイラついている雪乃のぶっきらぼうなおかえりを聞いて、二人の喧嘩が長引いていることを悟った。
「どうして喧嘩してるの?」
徹の問いかけに灯が答える。
「だってさ~ふーちゃんが同じなのに少ないって言って泣くから」
テーブルの上のお皿にお菓子が乗せられている。
二つのお菓子は均等に入れられている。
お菓子にしろ飲み物にしろ少しの差分もなく提供しなければ、この小さなクレーマー達からクレームが来るからだ。
「ん~同じだよ、ふーちゃん。おんなじ」
お菓子が同じ量入れられていることを風花に伝えるが、パパも敵になったということを理解した風花は思いっきり泣き出し、暴れ出した。
「ずっとこんな感じ、イヤイヤ期なのは分かるけどもう無理だわ」
雪乃は眉間に皺を寄せながら夕食を作っている。
おそらく雪乃もいろいろ試してあやしてみたが効果はなかったのだろう。
徹は灯に耳打ちをすることにした。
「後でもっと沢山お菓子あげるから、今はふーちゃんに少しだけ分けてあげて」
それを聞いた灯は怒り出した。
「え!嫌だ!何で灯がお菓子あげなきゃいけないの!?」
確かにその通りである、しかし、そうしてくれればこの場はおさまるのだが、、、
まだそこまでの状況把握は出来ないか。
そうこうしているうちに風花はお菓子の入ったお皿をひっくり返した。
床にお菓子が散らばり、お皿にお菓子が入っていないことを確認すると更に泣き出した。
「あ~ダメだよ、ふーちゃん」
徹は床に散らばったお菓子を拾う。
「はい、じゃあもうお菓子おしまい!ご飯出来たよ」
雪乃がテーブルに夕食を並べ出した。
「ええ~もうおしまい!?」
「イヤだ、おかし、たべる!」
灯と風花が猛抗議する。
それに対し、雪乃がトドメの一言を言い渡す。
「夕食が出来るまでって言ったよね?ゴチャゴチャ喧嘩して食べなかったあなた達が悪い」
それを聞いて、二人は大泣きし始める。
「洗濯物干してくるわ」
そう言って雪乃は居間をあとにした。
怪獣達の大合唱の中、徹はストレスに耐え忍んでいた。
このネガティブの大放出が一番のストレスである。
「よし、とりあえずご飯食べようか。その後だったらお菓子食べても良いよ」
徹の言葉を聞いて、灯は涙を拭いてご飯を食べ出した。
風花はイヤイヤモード継続中によりまだ泣いている。
「分かった分かった、パパが食べさせてあげるから」
風花は一人で食べられるようになったのだが、最近は甘えることを覚え、食べさせてもらわなければ食べない。
徹は椅子に座って風花の食事介助を開始する。
「イヤだ、ママがいい、マ~マ~」
風花は相変わらず泣きながらイヤイヤを撒き散らしている。
「ママ今お仕事中だから、パパでも良いでしょ?」
「イヤだ、イヤだ~!」
最近はいつもこうだ、だからといって雪乃が食事介助をしたところでイヤイヤモードは解除されない。
雪乃のためにもここはパパである徹がこのイヤイヤを引き受けよう。
そう思った時、風花がわざと味噌汁の入ったお椀をぶん投げ、徹の顔は味噌汁まみれになった。
その瞬間、徹の中で何かが弾けた。
檻の扉が開かれ、中から眠っていた猛獣が飛び出したかのようだった。
「テメェいい加減にしろよ!!」
徹は片手で風花の胸ぐらを掴み、子供用チェアから引き摺り下ろした。
そのままソファに叩きつけ、顔を近づける。
「いいか、よく聞け!お前が飯を食おうが食わまいが知ったこっちゃねぇんだよ、でも俺はお前の親だから、奴隷のようにお前に従ってやってんだ!王様か女王様か何か知らねぇけどな、誰だって我慢の限界がある!お前は味噌汁を作れるのか?盛り付けられるのか?無理だろうが!何も出来ないからやってもらってんだろうが!その恩を仇で返すような奴は飯を食うな!何も求めるな!俺はお前に従わないことだって出来るんだぞ?俺はお前の奴隷じゃない!勘違いするな!このクソガキ!」
徹の怒鳴り声に驚いた雪乃が居間へと駆け込んできた。
「何があったの!?」
味噌汁だらけの徹が風花の胸ぐらを掴み、ソファに押し付けている。
そして怯えた様子の灯が泣き出した。
「おしっこ漏らしちゃった、、ごめんなさ~い、
うわぁーん怖かったよぉ~」
それを聞いた徹は灯に詰め寄る。
「おしっこはどこでするんだ?シャワーで身体を洗って、自分が汚した床を自分で拭け、分かったか」
「うわぁーん」
「泣くな!返事は!?」
「ぁあ~怖いよぉ」
徹の怒る様を見兼ねた雪乃が割って入る。
「何をそんなに怒ってるの!?もっと言い方を考えてよ!」
雪乃のためにやってるんだぞ。
心の中で沸々と煮えたぎる何かがあった。
「お前のためにこいつらの奴隷になってんだ!」
その言葉を聞いた雪乃の表情が歪んだ。
「奴隷って何!?あなた頭おかしいんじゃないの?」
「おかしいのはお前だ!何故俺がいつも悪者になる!?何故家族のために動けば動くほど傷付けられる!?こいつらにとってはママが正義でパパが悪者だ!何をどうしたってその価値観は変わらない!子育てを頑張れば頑張るほど雪乃は俺を蔑む!こんなことなら俺は関わりたくない、頑張りたいと思えない!」
「あ、そう!じゃあ何もやらなくて良いわ」
そう言われたのを最後に、徹は一人二階に駆け上がった。
その日はずっと怒りが収まらなかった。
そしてずっと手が震えていた。
曲を作れる状況でもなく、ゲームをする意欲すらなかった。
ただひたすらに頭の中で雪乃に言われたことや子供達の言動が繰り返され、沸々と一人で煮えたぎっていた。
気が付けば家族のことだけじゃなく、会社のことや過去に誰かに言われたことなども頭の中を駆け巡り、思わず頭を振って大声で叫んでいた。
ふと我に返って時間を確認すると0時を回っていた。
もう寝よう、明日も仕事なので寝なければならない。
そう思い、寝室へと向かう。
子供達と雪乃はもう眠っていた。
ベッドを二つ並べただけなので、四人で眠るには狭過ぎる。
いつも徹は壁際の狭いスペースで寝ていた。
子供達の足が顔面に振り下ろされることは多々あるが、子供がいなかった時からこのベッドで一緒に寝ていたため、今更寝る場所を変えることは出来なかった。
自分の定位置に寝転び、目を閉じるとまた嫌な映像が頭の中を駆け巡る。
さっきまでは怒りの感情に支配されていたが今は心の底から不安に襲われていた。
どうしてあんな酷いことを言ってしまったのだろうか。
俺は父親失格だ。
自分が言った言葉が頭の中に響く。
きっと子供達にも雪乃にも嫌われてしまった。
身体が震え出し、恐怖感に襲われ始める。
家族に煙たがられながら死ぬまで過ごしていくのだろうか?
定時ですぐに家に帰るので、きっと会社でも悪口を言われているに違いない。
どうせ作った曲は評価されることなくお蔵入りになるのだろう。
誰の期待にも応えられなかった。
何者にもなれなかった。
何者にもなれないのであれば生きている意味はない。
止まらない不安感と恐怖感に押し潰されそうになりながらも布団から出られずにいた。
遂にはどうやって死のうかを考え出していた。
あの棚の中に使っていない延長コードがある、それを首に括り付ければ、、
いや、そんなことをして良いわけがない。
そうやっていくら振り払おうとも死のシュミレーションは終わらない。
浴槽にお湯を溜めて、その中で手首を切れば死ねると聞いたことがある、試してみようか。
いっそ切るなら首に刺していってしまおうか。
家の中にある薬類を全て一気に飲み込んでしまおうか。
シュミレーションは止まらず、気付けば徹は歩き出し、そっと棚を開けていた。
やはり、これで首を吊ろう。
延長コードを解きながらベランダへと出た。
夜の冷たい風を受け、少しだけ我に返る。
俺は何をしているんだ、こんなこと許されるわけがない。
一旦外を歩いて冷静になった方が良いか。。。
「パパ、何してるの?」
その時、トイレに起きたのか灯が目を覚ましていた。
「ちょっと眠れなくてね、トイレかい?行っておいで」
「うん、あーちゃん怖い夢見たの、パパぎゅーして」
灯はぎゅーされようと手を広げている。
「どんな夢か明日聞くから覚えておいてね」
徹は灯を強く抱きしめた。
「ありがとう、トイレ行ってくる」
灯は走ってトイレに駆け込んだ。
徹は延長コードをゴミ箱に捨て、パジャマのまま階段を駆け下りた。
そして玄関の扉を開けた。
訳も分からず走り出していた。
どのくらい走るのか、どこを目指しているのか、何のために走っているのか、何も考えていなかった。
ただとにかく今は死のシュミレーションから逃げ切りたかった。
死ぬべきではない、死んではいけない、有酸素運動によって早まる呼吸に合わせて、その言葉を繰り返した。
道中の記憶はないが辿り着いたのは海だった。
ここは車で三十分ほどかかる距離にあるので、二時間近く走っていたのかもしれない。
何も考えていなかったので、スマホも家に置いてきた。
正確な時間は分からないが、もはやそんなことはどうでもいい。
徹は砂浜に腰掛けた。
夜の海を眺め、波の音に身を任せる。
この暗闇の海を真っ直ぐに歩いてみようか、行けるとこまで行ってみよう。
それでもし生きてどこかに辿り着いたとしたら、生きている価値があるとしてこの先も生きていく、このゲームはどうだろう?
自分に問いかける。
答えはこうだ。
「面白い、やってみよう」
徹は靴を脱ぎ、砂浜を歩き出した。
押し寄せる波は月明かりに照らされ、幻想的な風景がつくられていた。
冷たい水温を足で感じながら、どんどん前に進んでいく。
あっという間に腿のあたりまで水に浸かり、数歩進んだだけで腰まで浸かってしまった。
それでも真っ直ぐに海を歩く。
波だけが徹の行手を阻んでくれるが、それを振り切ってとにかく前に進んでいく。
自分がこの世から消えたところで悲しむ人などいない、世の中の動きが止まるわけでもない、自分は何者でもないのだから。
そう思ったが、ふと義幸さんと誠司さんの姿が頭をよぎる。
義幸さんには一般就労を目指して欲しい、彼なら出来る。
でもまた今日もパチンコに負けて精神を病んでいるだろうか?だとしたら俺が隣でサポートすべきだろうなぁ。
誠司さんは俺がいなくなっても働いてくれるだろうか?
「山下さんがいないなら俺は仕事しません!」って言い出して、職員を困らせそうだなぁ。
もうすでに胸の辺りまで水に浸かっていた。
徹が曲を作り、投稿する度にコメントをくれていたファンの方々がいた。
「何回もリピートして聞いています!いつも新曲を心待ちにしています!」
その言葉から勇気をもらい、曲作りによる収益がなくとも、例え有名になれなくとも曲を作り続けることが出来た。
新曲を心待ちにしてくれている誰かを悲しませてしまうだろうか?
そう思い、ほんの少しだけ歩みが止まった。
水はもう首の辺りまできていた。
いや、しかし行くしかない、行かなければならない。
遂に海の中へと沈んで行った。
息が出来ない、苦しい、やはりここで俺は死ぬのだなぁ。
ようやく少しだけ心が安らいだ。
灯はどんな怖い夢を見たのだろうか?
明日どんな夢を見たのか聞かなければならない、、、
「パパ!」
ふと灯の声が聞こえた。
いや、そんなわけはない、徹は今海の水の中にいるのだ。
「パ~パ~」
次は灯に泣かされたのだろう風花の声が聞こえた。
これはあの世へ行く前の走馬灯のようなものなのだろうか?
「必要なものを必要な分だけ集めながら生きるのも悪くないんじゃない?」
次に雪乃の声が聞こえた。
結婚する前、夢を諦めると言った徹に対して雪乃が言った言葉だった。
確かに当時はその生き方は素晴らしいのかもしれないと思っていた。
でも結局は夢を捨てきれず、時間のない中でコツコツと努力を積み上げてしまっていた。
それだけならまだ良かったのかもしれない、今は必要なものを集めず、本当は必要のないものに手を伸ばしていたのかもしれない。
もちろん音楽クリエイターになりたいし、期待に応えたい。
しかし、それは家族を蔑ろにしてまで必要なものではない。
数分前までは怒りの感情に囚われ、不安に押し潰されていた。
全てが攻撃の対象であり、全てが敵だと思っていた。
自分には何もない、何者にもなれない、生きていたって意味がないと思っていた。
それは紛れもない事実だ。
だがしかし、死が間近に迫り、湧き出てきた感情は感謝の感情だった。
この感謝を伝えなければ、、、
暗闇の海の中で酸素が不足し、意識が薄れていく。
いや、もう何もかもが手遅れか。
今更生きて戻って、関係を修復出来る自信はない。
何よりも、もう疲れた。
徹はゆっくりと目を閉じた。
「ここは、、、」
薄らと明るい空が見える。
身体は冷え切っていて、波の音が聞こえる。
ここが死後の世界か、ふとそう思ったがどうやら違うらしい。
おそらく、ただただ波に押し戻されてしまっただけのようだ。
「あぁ、生きてしまった」
甘ったれたことを言ってないで、さっさと必要なものを集めろ、行け!
ザーザーと音をたてる波がそう言っているように聞こえた。
夜の海は徹を飲み込むことなく、吐き出した。
まだ死ぬ価値もないということか。
この程度の人間が海に身を投げ出すのは、海にとっても迷惑か。
別にポジティブになれたわけじゃない、しかしやるべきことが分かった。
「帰るか」
徹はびしょびしょのまま歩き出した。
道中、徹は考え事をしていた。
冷静に考えて、最近の自分の状態は明らかにおかしかった。
子供達に対して雪乃が怒ることはあっても徹が怒ることはなかったはずなのに、急にどうしようもない怒りに支配されることが多々あった。
不安感に襲われ、常に悪口を言われている気がしたり、突然動けなくなることもあった。
これらの状態を、徹は知っている。
徹の事業所に通所する利用者達だ。
彼等は日々そういった状態になり、それをケアしながら一緒に仕事をするのが徹の仕事である。
「そうか、俺は、、、」
徹は心療内科に通院することを考えた。
もちろん抵抗がある。
本来、徹はサポートをする立場なはずなのに、その立場の人間が精神を病んでいては本末転倒である。
しかし、そうも言っていられない。
またいつあの世に行こうとしてしまうか分からない。
徹は決心した。
家に着く頃には朝になっていた。
仕事の時間まであと一時間ある。
「ただいま~」
「おかえり!どこに行ってたの!?」
慌てた様子で雪乃が走ってきた。
「パ~パ~!どこに行ってたの!?」
「パ~パぁ~~」
怒っている様子の灯と泣いている風花も走ってきた。
「ちょっと海に行ってたんだ」
「なんで?」
「雪乃、俺は少し変だ、しばらく仕事を休んで心療内科を通院しようと思う。今まで迷惑をかけてすまなかった」
雪乃は動揺しながらも静かに頷いた。
「分かった」
灯が徹のお腹にパンチした。
「パ~パ~!いなくなったらダメでしょ!許さないからね!」
「ごめんごめん、そういえば灯、どんな怖い夢を見たの?」
「パパがいなくなる夢だよ!」
偶然か必然か、灯は徹がいなくなる夢を見たようだ。
「大丈夫、パパはいなくならないから」
「じゃあ、ゆびきりげんまんして」
小さな小指をこちらに向け、ゆびきりげんまんの強要をしている。
「はい、分かりました」
徹は灯の小指を小指で握った。
それを見ていた風花が徹に抱きつく。
「パ~パ~」
自分にも構ってほしいというメッセージと共に、抱っこの強要をしてくる。
「はいはい、ごめんね」
徹は風花を抱き上げた。
これで良いんだ、これで良い。
子供達の奴隷で良い、自分の時間なんて少しで良い。
雪乃がそばにいてくれれば良い、それだけで良いはずだ。
俺に必要なものはそれだけで良いはずなんだ。
第四章 やはり、何者にもなれず。
上司に連絡をして、とりあえず一週間仕事を休ませて頂いた。
そして、すぐに心療内科に電話をかけ、三日後に通院することになった。
あと一曲納品しなければならなかったため、休日となったこの日に一曲作り上げた。
正直完成度は良くないが、もう仕方がない。
徹はギリギリ期日までに五曲納品することが出来た。
久しぶりに平穏な日々を過ごし、徹は思った。
自分に完璧を求め過ぎていたのではないか?
曲だってそうだ、自分は有名人じゃない、チャレンジャーだ。
それなのに無駄にプライドが高く、完璧な曲を作ろうとしていた。
もちろん良いものを作ろうとするのは悪いことではない、だが完璧を求め過ぎていたのは確かだ。
自分の力量を正しく判断する必要があった。
仕事だってそうだった、いつも徹は誰よりも仕事をしていた。
同僚の誰もが山下さんのポジションは誰にも真似できないと言っていたほどだ。
皆が明日までの書類を作っている時、徹はもう来月の資料を作成していた。
利用者のちょっとした変化に誰よりも早く気付き、親身に話を傾聴していた。
我ながら完璧だった。
気付かぬうちに疲れていたのかもしれない。
そう思って、心療内科までの日々は静かに過ごした。
何もやる気は起きなかった。
子供達とは奴隷のように遊んでいた。
決して楽しくはないが、それでも苦ではなくなっていた。
もちろんいつも通り、夜は一睡も出来なかった。
心療内科への通院日、その日は奥様もいらっしゃるようにとのことで雪乃と共に車で向かっていた。
徹は仕事柄、精神病というものをよく理解しているが、おそらく雪乃は全く分からない状態だろう。
今も一応共に通院してくれているが、頭では理解していないということが言葉の節々に表出している。
気持ちは分かる。
徹だってこの仕事に就くまでは、精神病は甘えだと思っていた。
やる気がない、気力がない、動けない、仕事が出来ない、そんなものは本人次第だと思っていた。
でも違うということは利用者との関係を通じて理解している。
そして、徹自身もそれを現に体験しているわけだ。
心療内科に到着して、待合室で呼ばれるのを待つ。
他にも待っている人々がいて、雪乃は驚いた表情をしていた。
「こんなに心療内科に来る人っているんだね」
こればっかりは、こっちの世界を知っていないと理解が出来ないのだろう。
雪乃本人は何気なく放った言葉だと思うが、その言葉からは棘が感じられた。
こんなにも、病のせいにしている人っているんだね。
徹にはそう聞こえた。
心の病なんて言葉があるから知れ渡っていないが、実際に精神病というのは身体の不調である。
本来分泌されるはずのホルモンが分泌されなかったり、副交感神経が優位になるはずなのにならなかったり、心がどうにかなっているのではなく、本来人間が普通に生きるために備わっている正常に作動するはずの身体のシステムが誤作動を起こしているのだ。
だから、本来怒りの感情は時間経過と共におさまるようになっているのに正常な状態に戻す成分が分泌されないから怒りがおさまらないことがある。
身体が健康な人は「疲れたら眠れるよ、眠れないのは身体が疲れていないから」なんて馬鹿なことを口にするが、そうじゃない。
どれだけ身体が疲れていても、副交感神経が優位にならなければ人間は眠れない。
その機能が壊れると、ずっと交感神経が優位になり、眠気というものがこない。
それが今の徹の状態である。
「山下さん、どうぞ。奥様はお待ちください」
待ち時間に[鬱病とは?]と書かれたパンフレットを読んでいた雪乃が不安そうな表情をしてこちらを見ている。
「行ってくる」
徹は診察室に入室した。
ドクターは優しそうな中年の男性だった。
「こんにちわ」
「こんにちわ」
あらかじめ予約の際にどんな状況かを説明しているので、おそらくそれが書かれているのであろう書類を見ながらドクターが口を開いた。
「イライラが止まらず、不安で眠れず、死ぬことを考えてしまうとのことですが、最近もその症状は続いていますか?」
「はい、継続中です。夜は今もほとんど眠れていません」
ドクターは徹の顔を見て、うんうんと頷いている。
「確かにそのようですね」
続けてドクターが質問をする。
「子供さんはいらっしゃいますか?」
「二人、娘がいます」
「そうですか、それはお忙しい毎日でしょうね」
「はい、仕事から帰ってきても子育てという仕事が待っていますからね」
半分冗談、半分本気の発言だった。
「そうですよね、お仕事は何をされているんですか?」
「精神病の方々の職業指導員をしています」
「あ、そうなんですね。じゃあ精神に関しても詳しいですよね」
「はい、ある程度は」
「私も似たような仕事ですから、山下さんの仕事の大変さは理解できますよ」
ドクターはニコッと微笑んで優しい口調で言葉を続ける。
「今の状態になってしまった原因というのは自分で分かっていますか?」
原因、、、
利用者も日々状態が違う。
それは天気によって変わることもあれば、理由もなく変わることもある。
しかし、病状の悪化には何か具体的なストレスや悩みが原因となっていることが多い。
自分にもそれがあるだろうか?
考えてみたが思い当たる原因は自分にとって全て必要なものだった。
「私は子育てが苦手です、それでも何とか良い父親になろうと努力しています。それが原因だとしても父親を辞めたいとは思いません。妻の家族と共に過ごしていて、それもストレスになっていることを内心分かっていますが、実際にお世話になりっぱなしだし、何よりも妻が妻自身の家族と離れる気がないので、それが原因だとしてもどうしようもありません」
口にして初めて実感した。
そうか、家庭環境にストレスを抱えていたんだ。
「そうですか、それは大変ですね。他に思い当たることはありますか?例えば仕事のこととか」
「仕事では主任になり、上司と部下の仕事を一挙に引き受けています。毎日疲れますが、自分にしか出来ないことが沢山あるのでやりがいを感じています。あと私は曲作りでお金を稼いでいます。本当は音楽で生計を立てていきたいという想いがあるので、仕事が上手くいけばいくほどにモヤモヤしている状況です」
「そうですか、山下さんは時間のない中で全てを頑張ろうとしているように見えますね」
ドクターは優しい眼差しで徹を見ていた。
「手を抜いて良いのであれば、全て手を抜きたいです。でもそうしてしまうと、何もかもが崩れてしまうと思うんです」
実際にその通りである。
子育ての手を抜けば、雪乃が限界を超え、家族が崩壊する。
仕事に手を抜けば、残業になり、結局家族の時間や自分の時間が減る。
曲作りに手を抜けば、夢を叶えることが出来ない。
二十四時間を全力で使い果たす必要があった。
「そうですか、何か聞きたいことはありますか?」
徹が心療内科に来た理由は一つだ。
もう二度と、家族を置いてこの世を去るなどという思考に陥らないようにしたい。
そのためなら薬を服用することも厭わない。
そう決心してここに来たのだった。
「もう死のうなんて思いたくない。それだけじゃなく、イライラしたり眠れない日々が続いたり、普通に生活するための障害になっているものを排除したい。薬を服用することでその障害を排除出来るのであれば、薬を処方してもらいたいです」
徹の言葉を聞いたドクターが深く頷いた。
「もちろん処方しますよ、正直に言うとあなたは軽い鬱症状です。でもきっと今だけです。この世界を知っているあなたならば薬の依存性についてもよく理解しているはずだ。今日薬を処方しますが、そのうち必要なくなるはずです。そうなったら通院しなくても良いですからね」
心のどこかで、もう自分は利用者と同じ立場で過ごすことになるのではないかという不安があった。
そうなれば雪乃達と共に過ごすことは出来ないかもしれない、と。
しかし、ドクターの言葉を聞いて、徹は決心した。
今の生活のままでは薬を服用し続けることになるだろう。
薬を服用しているうちに、この生活の乗りこなし方を見つけてみせる。
そして薬を断ち切る。
「はい、お願いします。薬が必要なくなるように、今の生活を改めます」
「他にも話しておきたいことはありますか?」
「特にないです、ありがとうございました」
徹は診察室を後にした。
続いて雪乃が呼ばれ、診察室へと入って行った。
心療内科から帰る道中、運転をしながら雪乃は浮かない顔をしていた。
「何か言われた?」
徹は気になって問いかけた。
「話を聞いてあげてくださいね、って」
「そうか」
確かに雪乃には仕事の話も趣味の話もすることはなかった。
というのも、昔は仕事の話をしたかったが雪乃が乗り気ではないように思えたので、いつからかしなくなった。
趣味の話や曲作りの話も興味がないことは分かっている。
そもそも互いに何か話そうとしても娘達が割り込んできて、話の腰を折られることがほとんどである。
娘達が生まれる前は、夜に二人で映画を観てゆったりと話しながら過ごしたものだった。
その頃は徹も曲作りに意欲的ではなく、時間を楽しむことに使っていた。
必要なものを必要な分だけ集めながら生きるのも悪くないんじゃない?
結婚前に、SNSで曲を投稿しても伸び悩んでいた徹が「夢を諦める」と口にした時、雪乃が言った言葉だ。
その言葉通り、平穏に、幸せに過ごしていた時期もあった。
しかしいつからか、必要のないものばかりを追いかけ、必要なものを見失っていた。
「ごめん、俺は父親になれていなかった」
気付けばそう呟いていた。
それを聞いた雪乃は答える。
「父親になろうとしなくても父親なんだから、もっと気楽にいれば良いじゃん」
確かに雪乃の言う通りである。
別に自分が何をしても、何をしなくても、娘達にとって徹が父親であることに変わりはない。
「やっぱり雪乃には敵わないよ」
「私だって母親としてはまだ新米だし、本当はもっと良いお母さんになれたら良いなとは思うけど、実際は無理なもんは無理よ。私は私として娘達と向き合っているつもりだよ、もちろんあなたともね」
「そうか」
あー、、、
東京で夢を追っていた頃は何者でもなかった。
結婚をして宮城に引っ越して来てからは雪乃の夫として家族と世間に馬鹿にされないように生きてきた。
仕事では主任になり、SNSで知名度が上がってからは作曲家だ。
そして娘が生まれ、父親となった。
徹はいつも自分が何者かでなければならないと思っていた。
何者かでいなきゃ価値がないと思っていた。
でも実際はどうだ?
ただ怖かっただけなんじゃないか?
そう、山下徹として生きることから逃げていただけなんじゃないか?
その疑問が自分自身の心を打ち抜いた。
身体中に衝撃が走った。
「俺は、、」
自分は何者でもない、価値がないと思っていた。
しかし最初から俺は山下徹であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
雪乃が愛してくれていたのは、旦那としてカッコつけた男でもなく、父親として苦虫を噛みながら苦悩する男でもなく、山下徹その人なのだ。
「何者でもなくて、良いのか?」
助手席から空を見上げ、ぼんやりと呟く。
「何者になろうとしなくても、何者かになっちゃってるんだから、あなたらしくいれば良いじゃない?昔から私はあなたの考えていることは小難しくて理解出来ないけどさ、後先なんて考えずに歌っていたあなたは生き生きとしていたことだけは覚えてるよ」
「そうか」
心に溜まっていた何かが、スッと消えていくのを感じた。
「これからも色々と面倒をかけると思うけど、よろしく頼む」
「それはお互い様でしょ」
流れ落ちる涙が、処方箋の袋を濡らしていた。
会社は一週間ほどお休みを頂いた。
ドクターからは三ヶ月くらい休めば良いのにと言われていたし、上司からも同じことを言われたが、徹はそれが出来なかった。
薬のせいかテンションは低く、動きは遅いが仕事は出来ると見ていた。
一週間休んだことで、風当たりが強くなるのではないかと心配だったがそんなこともなく、職員一同変わらずに接してくれたことが嬉しかった。
利用者の皆には精神に負担がかからないように、山下さんは体調不良で休んでいると伝えられていたらしく、皆から心配された。
復帰後初の作業は義幸さんと誠司さんと一緒にグループホームの清掃作業だった。
二人ももちろん徹は体調不良で休んでいたと思っている。
しかし、勘の良い義幸さんは何か違和感を感じている様子だった。
「山下さんまだ本調子じゃないですよね?」
「あら、元気ないように見えるかい?」
「はい、実は山下さんが一週間休む前から、何かあったんじゃないかと思っていました」
「やっぱ義幸さんの目は誤魔化せないか」
「やっぱりただの体調不良ではないですよね?」
「まぁ、、、二人には本当のことを言っておくか」
真実だとしても利用者の精神が乱れる可能性を加味して言ってはいけないことが沢山存在する。
職員が心療内科に通院したという事実も、本来ならば言ってはいけないことなのだろう。
しかし、信頼しているこの二人には言うべきだろうと徹は判断した。
「俺は精神的におかしくなって、眠れない日々を過ごして、死ぬことまで考えた。そしてこれはいかんと思い、心療内科を通院した。そして今は薬を飲みながら仕事をしている。だから俺はあなた方となんら変わりない状態ということだ」
それを聞いた二人は驚いていた。
「いや~それはヤバいな」
義幸さんがそう言った。
続いて二人の会話を黙って聞いていた誠司さんが大きな声で割り込んできた。
「え!ダメですよ山下さん!その心療内科は入院設備はないですよね!?大丈夫ですよね!?」
突然の大声に徹は驚く。
「おぉ、なんだ急に。入院は出来ないところだけどどうしたの?」
その質問に誠司さんが答える。
「入院したら終わりなんですよ!薬も出来れば飲まない方が良いです!ね、義幸さん!?分かりますよね!?」
「うん、山下さんはこっち側に来るべきじゃない」
二人は徹のことを想って言葉を発している。
この二人は本当に良い奴だなと徹は思った。
「もちろん薬の依存性については俺もよく理解しているつもりだよ。だから出来るだけ早めに薬が必要ない生き方、心の距離の取り方を覚えて、薬の服用をやめるつもりだよ。でも今はどうしても薬が必要だ。飲まなきゃまたおかしな自分が顔を出してしまうからね」
それを聞いた誠司さんは首を振っている。
「ダメですよ!山下さんには家族もいるんだから!俺は絶対に薬は飲まない方が良いと思います!」
それに対して義幸さんが言葉を挟む。
「でも、病状のせいで全てを壊してしまったら本末転倒ですからね。山下さんはそれを考えて、今は薬を飲むという決断をしたということですよね?」
「そういうこと、流石義幸さんだな」
本当に彼は頭が良い。
「山下さん!絶対にこの仕事辞めないでくださいね?俺、山下さんがいなきゃこの事業所辞めますから!また引きこもりになりますから!」
誠司さんは高い熱量で徹へと迫る。
「いやいや、俺がいなくても働けっての。俺も人間だからずっとこの仕事をするっていう保証はないよ。何がどうなっても君達なら大丈夫だよ。頭も良いし、人を想う力もある、誠司さんは家でゲームやりながらストレスなく働ければ人生オールオッケーかもしれないけどさ、今後とも自分の人生をより良くするために生きてくれ。もちろん自分の病状と相談しながらね」
徹も高い熱量をもって言葉を返した。
彼等は徹に生きてほしいと願っている。
やはり死ぬわけにはいかないな。
これからは生きなければならない理由を集めようと思った。
納品した曲は、その後訂正依頼を受けてあらゆる調整を行なった後、無事に納品が完了した。
お金が振り込まれるのは数ヶ月先になるとのことだが、もはやお金などどうでも良い。
ミュージッククリエイターとしてデビュー出来ることが心から嬉しかった。
相変わらず家の中は騒々しく、心が騒つくことが多々あるが、何とか心が疲弊しないように立ち回りながら日々をこなしていた。
悲しいことだが、やはり自分は父親に向いていない。
子育てというものがどうしても苦手なのだ。
だが、雪乃の言った通り、山下徹として子供達と接するように意識すると少しだけ心が楽だった。
父親だから、父親なのにと自分を責めていては心が苦しくなる。
そしてまたあの夜のようにおかしくなってしまうのだろう、それは絶対に避けなければならない。
今日も灯は怒り、風花は泣いていた。
またオモチャの取り合いというつまらない茶番劇が繰り広げられていた。
最近は風花も自我が芽生え、灯が遊んでいるオモチャを取り上げようとする。
それについて灯が怒るのは至極当然なのだが、妻の母である美智子は何故か灯を叱りつける。
「灯はお姉ちゃんなんだからオモチャを貸してあげなさい!」
その言葉を聞き、灯は泣き出す。
「なんであーちゃんが悪いの!?オモチャを取ったのはふーちゃんでしょ!?」
その通りだ、灯は悪くない。
しかし美智子は反論する灯に更に強く物申す。
「ふーちゃんはまだ幼いんだから、あんたが譲ってあげるべきでしょ!どうしていつも意地悪するの!どうして妹に優しく出来ないの!」
「あーちゃん悪くないのに!」
灯は溢れ出る涙を拭いながら、美智子を睨みつける。
今までの徹ならば灯がこれ以上攻撃されないように、美智子の怒りを鎮めるために、父親としての自分の面子を守るために灯を叱りつけていたはずだ。
灯は悪くない。
そう言ってしまえば美智子との関係性が悪くなる。
「あーちゃん、パパと二階に行こう」
「、、、うん」
理不尽に怒られて、怒りと悲しみが入り混じった表情をしている灯は徹の誘導に従って、一緒に二階へと避難する。
「灯は悪くないよ、お姉ちゃんだからって譲らなきゃいけないなんてルールはない。そりゃ譲ってあげたら優しいとは思うけど、毎回我慢する必要なんてない。さっきのばあばの言葉は間違ってるから気にしなくて良いよ」
「うん!」
灯は徹の言葉を聞き、少しだけ表情が和らいだ。
灯はまだ四歳だ。
風花と大した変わらない子供である。
しかし、灯は本当に頭が良い。
今回の件が理不尽だということもちゃんと分かっているはずだ。
「あーちゃんは頭が良いから、特別にパパの仕事場を見せてあげるよ」
PCがある部屋に子供達を入れたことはない。
理由は部屋に入れた瞬間に全ての精密機器が壊されるからだ。
でもきっと灯なら大丈夫だ。
「うわぁ!!凄い!!」
灯はPCやキーボードを見て嬉しそうに飛び跳ねている。
「前にきらきら星を教えたけど、覚えてる?」
「うん!あーちゃん覚えてるよ!」
「本当?去年とかだよね?覚えてたら凄いよ」
灯は座椅子に正座し、キーボードを弾き始めた。
ド~ド~、、ソ~ソ、、ラ~ラ、、ソ
ファ~ファ、ミ~ミ、レレド
ぎこちないが何も見ずに見事にきらきら星を演奏した。
「いや、凄いな!!あーちゃんは天才だよ!」
「パパ!他の歌も教えて!あーちゃん弾けるから!」
「よし、いいだろう」
これが世間一般的な父親として相応しい姿かは分からない。
未だにおままごとは苦痛だし、絵本の文章を読んでいる最中にページをめくられるとイラッとする。
永遠に繰り返される滑り台を共に楽しむことは出来ず、子供達のやることなすことはほとんど理解出来ない。
世の中の背中の大きなお父さん達とは違い、薄っぺらい胸板に病弱な身体をもち。
オモチャが壊れても修理することなど不可能だし、日曜大工なんてやったことがない。
子供達と公園に行くことは心から嫌いだし、そもそも休日に外に出たいと思ったことがない。
出来れば一人で黙々と静かに過ごしていたいという気持ちに変化はない。
やはり、父になれず。
何者にもなれず。
それでも生きていく。
娘達にとって、パパは自分しかいないからだ。
もしも妻が再婚すれば違う夫が誕生する。
仕事を辞めたら、違う誰かが主任として働くことになる。
曲作りを辞めても困る人など誰もいない。
だが、灯と風花にとって山下徹は唯一無二のパパなのだ。
そんなことは分かっている。
分かっていても、やはり、父になれず。
何者にもなれず。
それでも、自分が存在する価値は必ずある。
とりあえず、今は、山下徹として生きてみようと思った。
自分なりのバランスの取り方で、自分なりに頑張って、自分なりに精一杯この人生を乗りこなしてみようと思った。
それがどんな結末になるかは分からない。
それでも、雪乃と、娘達と、最後まで生きてみようと思った。
例え心から、父になれなくとも。
あれから一年が経ち、数ヶ月前から薬を服用することもなくなった。
とはいえ苦しい時は未だにあるし、子育てを楽しむことは出来ていない。
しかし、心の距離の取り方、バランスの取り方を覚えたのか、あの夜のような状況にはなっていない。
今までは仕事も全力投球だったが、今は力を抜くところは抜くようにしている。
アイドルキングダム3のダウンロードコンテンツも発売となり、徹が作曲した曲が無事に世に放たれた。
そうして徹のフォロワー数も驚くほど伸び、少しずつ音楽の仕事の依頼も入るようになった。
しかし、自分の精神のことを考えて、曲作りに時間がかかるということを先方に伝えている。
休日はほとんど曲作りに打ち込んでいるが、平日は寝る前の30分間だけ曲作りにあてている。
仕事も休むことなく、家族との時間もしっかりと確保している。
これで良い、全てにおいて丁度良い距離感を保つんだ。
自分の精神の状態を常に吟味し、最優先に考える。
少しでもバランスが崩れると、精神が崩れ始める。
そしてあの夜が訪れて、また心療内科を通院することになる。
そう考えるとハードな毎日である。
しかし、上手く乗りこなせるようになった。
意識して、そう生きられるように練習したのだ。
雪乃とも信頼関係を築くことが出来ているし、子供達からも頼られるようになった。
そして数ヶ月後には三人目が生まれる。
新たな試練として自分の目の前に立ちはだかることだろう、しかし乗り越えられる。
乗り越えてみせる、徹はそう決意していた。
「パパ!出来たよ!」
灯はPC画面を指差し、徹を呼んだ。
「どれどれ、、、お~やるじゃん!そうそう!ちゃんと曲になってるよ」
あれから灯は音楽制作に興味を示し、自分で曲を作り始めた。
もちろん世に放つ曲としてはまだまだだが、五歳にしては上出来だ。
灯は保育園の友達に父親自慢をしているらしい。
「うちのパパは凄いんだよ!音楽を作ってるの!ユウメイジンなんだよ!」
そう言いふらしていると雪乃が笑顔で話していた。
娘に父として誇られることほど光栄なことはない。
最近ようやく、自分なりの、山下徹なりの父になれた気がする。
もっと父親らしく、もっと男らしく、もっとお金を稼いで、もっと、もっと、、、、
たまにそういった切迫感が頭をよぎるが、振り払うようにしている。
そんな時は仕事終わりに一人で海へ行き、深呼吸をするのだ。
それだけでスッと心が軽くなる。
自分とは違い、さっぱりとした性格の雪乃は未だに病気のことを理解していない様子だが、徹の調子が悪い時は、一人の時間が必要なんでしょ?と言わんばかりに娘たちを連れて友達の家に遊びに行ったりする。
おそらくそれは雪乃なりの優しさなのだろう。
優しさを受け取ったら、徹はコンビニへ歩いて行き、雪乃の大好きなスイーツを買ってくるようにしている。
徹は自分の人生を軽く見ていた。
あとは消化試合のように生きていくのだと思っていた。
子育てを耐え凌ぎ、仕事をこなし、夢も叶わずに趣味として扱って、死ぬまでダラダラと過ごすのだろうと本気で思っていた。
でもやはり人生は分からないものだ。
精神病になり、お先真っ暗だと思っていたが、今は逆に視界が開けている。
たとえ暗くとも、ゆっくり自分なりに蝋燭に火を灯しながら歩いて行こうと思っている。
暗闇で座り込んでいては、その場で屍になるだけだ。
自分なりで良い、急がなくても良い、それでもゆっくりと確実に、この人生という名の洞窟を歩き続けるんだ。
それがどこに繋がっているかは行ってみなければ分からない。
後日談を語るにはまだ早い、何故なら徹の物語は、まだ始まったばかりなのだから。