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「本物の駄作」が「ニセモノの傑作」に必死で追いつこうとしている
それこそが「ディズニーランドの時代」であると文化人類学者の著者は言う。ディズニーランドに再現されたアメリカの町に比べ、現実の町ははるかに厳しい苦境に陥っている。すると今度は、その町のほうが理想化されたディズニーランドのありように着想を得て、町おこしをおこなっていく。つまり、「窮地に追いつめられた現実は、逆にディズニーランドを真似ることで活路をみいだそうとしている」(p.166)と。ここに一つの逆説がある。
よく復興と復旧はちがうといわれるが、創造することも再現することとはちがう。人々を喜ばせることもそうなのであろう。「ここにいる間、お客さんには現実の世界を見てほしくない。別の世界にいるのだという実感をもってほしいのだ」(p.31)というウォルト・ディズニーの設計の理念は、ディズニーランドを越えて展開していく。そのことに驚かされる。
ディズニーランドに向けられるさまざまなアメリカ人の眼差しを観察し、至近距離で得られた知識をさらに日本人の東京ディズニーランド体験や自分のアメリカ研究と重ねあわせるうちに、私はアメリカ人にとってのディズニーランドは「聖地」ともいうべき心のよりどころなのではないか、という見方をするに至った。
本をつくるのに必要なのは、あるいは研究を推進するのに必要なのは、経験に裏打ちされたこのような端的な発見なのだと思う。能登路雅子『ディズニーランドという聖地』(岩波新書、1990年)より。