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コラム 宿題は何のため?

今回は、日頃の失敗談から少し離れ、宿題について考えてみたいと思う。

教員生活1年目から、当たり前に宿題を出してきた。
音読、漢字ドリル、計算ドリルの3点セット。初めは、何の疑問も抱かなかった。

だが、いつごろからか、この宿題に対して疑問をもつようになった。
「これって、子どもの身になっているのか?」
「子どもたちにとって本当に必要なものなのか?」
そう、宿題って出す側も結構大変なのだ。宿題関連の仕事をいくつか挙げてみた。
 
・使用するドリルを業者に注文し、用意する。
・授業で習ってから、ドリルの宿題を出すため、日々進度を調整する。
・ドリルが無くなると、プリントを印刷する。
・時間のない休み時間などに急いで宿題を見る。
・出していない子に声を掛ける。
・きちんとやれていないところに朱を入れ、付箋を貼る。   などなど。
 
そもそも、宿題を喜んでやっている子はどれくらいの割合でいるのだろう。

本来、勉強は、楽しいもの。勉強すれば、世の中の見方が変わる。広がる。だから、大人になってから、お金を払ってでも学ぶ人がいる。
そう考えると、タダで勉強を教えてもらえる学校の存在は、本当にありがたい。だが、ありがたいと思えない環境にしてしまっている一つの要因は、先生からただ一方的に、そして一律に与えられる宿題にあるのではないか。
 
そんなことを思っていた昨年の6月、「オモロー授業発表会in名古屋」に参加させていただいた。
学校教育の中でユニークで面白い取り組みをされている先生が登壇され、教育に対する熱い思いを語る。一参加者でしかなかった私も、気が付いたら手を挙げて発言してしまうくらい、心から楽しい時間だった。
 
その中で、オランダの教育現場で学ばれた先生のお話があった。
その先生が、宿題のことをオランダで話題にした時のエピソードをシェアしてくれた。
 
「私が日本の宿題のことを伝えたら、『え、日本の先生たちって、ちゃんと授業してないの?ちゃんと授業していないから、宿題出すんでしょ。』そう言われました。」
 
「いや、きちんと授業をしています!」
そう声を大にして言いたいところだが、確かに、私も知らぬ間に「授業でやった内容を家で定着させる」という感覚をもってしまっていたことに気付いた。

大事なのは、「勉強って面白いな」という思いを学校の授業の中でもたせられるかどうか。そういう思いが子どもの中にあれば、自然と時間を忘れて机に向かいたくなるだろう。

そういう意味で、オランダのその先生のお話は、本質をついているように感じた。そして、「オモロー授業発表会」では、実際に宿題をなしにしたら、子どもが自ら学び始めた例も紹介された。

日本では、「家庭学習の習慣をつける」「今までやって来たから」とか、そういった理由で宿題が出されていることがほとんどだと思う。「『学年×10分』は机に向かうといい」なんて話も耳にする。でも、考えてみれば「学年×10分」の基準だって、何が根拠になっているか分からない。人によって違うのではないか。
  
日々思う。日本の学校教育で行っている内容をすべて一掃し、そこに改めて子どもたちに必要なことを当てはめていったとき、今あるものはどれだけ残るのだろうか。そして、「宿題」はその一つのピースになり得るのだろうか。
 
そうはいっても、学年の都合、学校の都合で足並みをそろえるために、宿題を出さざるを得ない現状。自分が疑問を抱きながら、そしてそれを飲み込みながら仕事をする苦しさ。

宿題の添削をしながら、この時間に子どもたちと遊べたらどれだけ楽しいだろうかと日々思う毎日である。


このブログでは、現役教員としてたくさんの失敗を積み重ねてきた私が、当時の失敗を今ならばどうするかという視点をもち、書いています。教師として働いている皆様に向けたヒントとなることがあれば幸いです。
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