バイクと共に旅して絵を描いたイーゼルが帰ってきて、なぜかSNSでバズった話。
筆者が「ラビットと一緒に旅しよう!」と決意し20年振りにリターンライダーしたのが2022年6月27日、新たな愛車・ラビットS301(サンマル子)がバラバラ状態から復活して旅を始めたのが2023年3月3日。
早いもので、ラビット旅を始めて1年が経とうとしています。
まだ1年ともいいますが。
(但し、6月〜11月の間は修理のため我が家で入院…)
しかし実は、今までほぼ秘密の状態で進めてきた「もうひとつのリターン」がありました。
それは学生時代やっていた「バイクと共に旅して絵を描く」事。
即ち、絵描きとしてのリターンです。
①絵描きに戻ろうとしててSNSでバズった件
当ブログやSNS等でもたまに言及してきましたが、筆者は元々絵画畑の人間であり、学生時代は油彩画やテンペラ画を中心とした絵画制作と展覧会開催・出品を盛んに行なっていました。
我ながら頭おかしい位のハマリ具合でバイクに狂う事ができたのも、画家としての制作活動のため大学をしばらくお休みし、4年制の国公立大に在籍していた身でありながら…7年間もの長きにわたり学生生活を送っていたがゆえです。
また、アトリエとして借りた下宿の複数の部屋のひとつをガレージに改装してバイクと寝食を共にする暮らしの中で、私たち人間と機械との関わり合いや「なぜ人は機械に魂や心を見出すのか?」といった生命観的なテーマにも、高価かつ有毒な顔料を画材として用いていた関係上健康を損ねるも…文字通り血を吐きながら命を削り全力で向き合ってきました。
そういう訳で、筆者にとって「芸術」と「バイク」はセットのようなものであり、筆者なりの価値観・世界観・生命観においても両者は不可分。
再びバイクに乗り始めた今、同じく再び筆を取る事にしたのです。
で、わび子とサンマル子で南阿蘇を筆頭とした九州各地をツーリングしながら…新しい制作活動のための構想を練ったりモチーフを探したりしつつ取材を重ね、時にはクロッキー帳を広げ、クロッキーしたりもしています。
とか色々と重い話を並べましたが、地がお調子者な筆者の性格ゆえ
実際のツーリングが笑いと食い倒れと温泉ばかりなのは気にしないで下さい。
ともあれ、準備は着々と整ってきているので、かつて企業経営をやっていた頃に古い画材を処分してしまった関係上…本格的な活動再開にあたって画材を再調達する必要があり、新品・中古品を問わず調達を進める中、学生時代から通ってる超お馴染みの骨董屋さんで
なんかどっかで見たようなものすごく手に馴染む中古の携帯イーゼル
を見つけて即お迎えしたら
何と、かつての筆者の愛用品そのものでした。
思いがけない再会に喜び、この事を何気なくSNSにポストしたら…
どういう訳かバズってしまいました。
この後、フジテレビ系ニュースサイトやITmediaねとらぼを始めとする複数メディアさんの取材を受けニュースとしてご掲載いただく展開となり、正直な所かなり唖然としています。
挙句、遂にYahoo!ニュースにまで。
私のボロい30年物のイーゼルがブーメランして戻ってきただけなんですが…
ともあれ、多くの方に喜んでいただけたので、この場を借り改めてお礼申し上げます。ありがとうございます。イーゼルもきっと本望でしょう。
といった感じの「祭り」が勃発したおかげで色々とバレてしまいましたが、そもそもリターンライダーするにあたって、旅先で絵を描く画材を搭載するための「高い積載能力」という条件を密かにバイクに求めていたので…ヒマラヤやラビットといった積載能力高めの(かつ低速でのトコトコ走行能力に優れ、現地での制作ポイント探しに向き、現地民への威圧感も少ない)バイクがリターンライダーする際のメインマシン最終候補に残っていた、という訳です。
実は、思い出と憧れだけでラビットを相棒に選んだ訳ではありません。
筆者なりの最適解のひとつだったのです。
②かつての制作活動の相棒たち
今の筆者の旅の相棒は今更書くまでもなくサンマル子ですが、かつての筆者は、様々なバイクを制作活動のための取材や遠征等に用いていました。中にはどう考えても不向きなバイクも混じってますけど…
とりあえず列挙しておきます。
制作活動において最も多用したのは、日々の下駄バイクとしても大活躍していたDT50でした。
絶対的な積載量こそ控えめですが、シート後部も積載場所にしたり拡張リアキャリアを装着する事で画材一式フル装備を積む事ができ、圧倒的な低燃費と長距離移動も難なくこなす50cc級にあるまじき快適性の高さゆえ、非常に重宝したものです。
お世辞にも良いとは言えない燃費に見合わぬしょぼい燃料タンク容量、ノーマル状態だと悲惨の一言に尽きる積載能力…と、どう考えても制作活動どころかツーリングにすら向いてない4気筒エリミも、その快適性と快速性能から制作活動において活躍してくれました。
エリミが最も輝いたのは、福岡の繁華街である中洲にて個人で似顔絵描きを行ってお小遣い稼ぎしていた頃でした。
「アトリエ・エリミネーター」を名乗り木の看板をぶら下げ、バイク自体も良い看板として機能してくれたのです。
(1990年代当時はアメリカンブームでした)
中型免許を取得して最初の相棒となった「ファーストバイク」ことバリオスも、ネイキッドならではのバランスの取れた構成のおかげで、制作活動初期における主役を立派に務めてくれました。
ZXR250譲りの超高回転性能と45psというフルパワーに目が行きがちな本車輌(筆者の愛車は45ps+モノサス仕様の1型だった)ですが、クランク質量を増して扱いやすさを増した恩恵で7500rpm辺りをキープしてのゆったり巡航が非常に心地よく、回してナンボなエンジンなのに「回してばかりがエンジンではない」事を教えてくれた、偉大な先生でもありました。
DT50の後を継ぐ形で制作活動に投入され、積載能力の高さと走りの良さと快適性と燃費がバランス良く共存しており大活躍したのが初代A7です。
モトクロッサーのベース車になった程の素性の優秀さと堅牢さに加え、ビジネスバイクとしてのタンク容量・積載能力アップが非常にありがたく「もう全部これでいいや!」的な一台ですらありました。
旧車でありながら現役(当時)バイクを食う程の魅力と実力を遺憾無く発揮し、後の筆者のバイク観を大きく変貌させた張本人でもあります。
但し…かつて初代A7が担った仕事はサンマル子が引き継いだので、2代目A7(ナナ美)はオフロードという原点にして新境地へと挑む事になりました。
③余談
以上ざざっと紹介しましたが、最後に余談です。
たまに「どうして昔のバイクの写真が少ししか残ってないの?撮ってなかったの?」と聞かれる事がありまして…実際、今の筆者の手元にはノーマルだった頃のバリオスと弄られ尽くしたDT50の写真しか残してません。
もちろん昔は愛車の写真を撮りまくってましたし、バイク専用のアルバムにまとめたりもしていた程です。
しかし、社会人になって苦渋の決断でバイクを降りた後になると…それらの写真を見る度に蘇る愛車達との甘くも苦くそして眩しい思い出の山が、どうかすると苦痛にすら思え、スピリタス飲んで大号泣しながらアルバムごと処分した次第です。
あんな悲しい思いをするのは金輪際まっぴらご免なので、
もうバイクは降りません。
もちろん、今回戻ってきた我が愛用のイーゼルも、再びバイクに乗ってあちこち旅する事になります。
今度はどんな作品を描けるかな…?
〜〜〜〜〜
<余談の更に追記>
記事を執筆している2024.02.25時点で、筆者所有のラビットとしては3台目、公道投入前提のマシンとしては2台目となるラビットS301A(愛称:サンマル江)のお迎えが確定しました。状況次第では、A7よりも先に走り出すかもしれません。
ラビット旅、更に面白くなりそうです。