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noteが私にくれるもの

大体のことが三日坊主の私が、去年の10月に始めたnoteを今も楽しんで続けているのがかなり意外だ。

私はもともと文章を書くことは得意じゃないし、好きじゃなかった。

小学生のとき、私の書いた作文を読んだ母は困った顔をして「とろは……作文が苦手だね」と言った。私は、あ、私ってそうなんだ、と思った。

中学生のときの夏休み、最後の最後まで残っていたのは作文の宿題だった。うんうん唸りながら、丸一日かけて必要最低限の枚数の原稿用紙になんとか文字を埋めた。

自分の気持ちを表現することも苦手だ。
自分の考えていること、感じたことを他人に伝えるのは怖いことだと思っているし、いつでもビクビクしているし、1日の終わりはいつも自分が発した言葉に対する大反省会だ。

とはいえ、本を読むことはずっと好きだったから「書く」という自己表現にもっと興味を持ってもよかったのでは……と思ったりもするけど、私はあくまでも読む専門であって、「文章を作る」「それを誰かに読んでもらう」ということにあまり喜びや癒しを感じてこなかった人生だった。

思い返してみると、その気持ちが変わってきたきっかけは二つある。

一つ目のきっかけは、大学生になってTwitterを始めたことだ。

それまでガラケーで、パソコンを使う習慣もあまりなかった私はTwitter(現X)に夢中になった。サークルの友人たちがかなりのTwitterヘビーユーザーだった、というのも大きかった気がする(文字通り息をするようにツイートしていて、タイムラインを見ると誰がどこで何をしてるのか大体分かった)。

この時期に、スマホにぽちぽちとそのときあったことや気持ちを書き込んで投稿することが身近なことになった。

二つ目は、大学を卒業して新卒で入った会社でその日の学びや反省を発信する「新卒日報」なるものが課されたこと。

その日を振り返って考えたことをまとめたり、構成を工夫したりするのが楽しかった。オマケ的な感じで読んだ本の紹介をしていたら先輩が反応をくれて、おすすめの本を貸し借りしたこともあった。

こんな感じで、内輪ではあったけどちょっとずつ「書いて発信することに対するハードル」が下がってきた。

noteにちょこちょことなんでもないようなことを書いては楽しい〜!と喜んでいる今の自分がいるのは、実はそういうステップがあったのかも、と思う。

それにしても、このnoteの独特な居心地の良さはなんなんだろう?

と改めて考えて、私としては「書くことが好きな人たちが集まっている場所」だからかな、と思う。

いいねを押して、いいねが返ってくる。そうすると、登山中にすれ違う人と挨拶をしたときのようなゆるやかな連帯感を感じるのだ。

日記を書くとなんだかスッキリするとか、面白かった本や映画を記録しておきたいとか、noteを続ける理由はいろいろある。でもその中でも、このゆるやかな連帯感がいま私がnoteからもらっている一番大きなものなんだと思う。



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