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人の攻撃的な言葉や態度に反応してしまう自分とおさらばっ!|

人からの突然の攻撃的な物言いにドキッとして、は!?って腹が立つ。

そんなことありません?

私、めっちゃありました。

そもそもが自我が強くて傲慢な人間やから、そういう事あるとめっちゃいらってしてた。

はぁ~!?なんでそんな言われ方せなあかんの!?

って憤慨する。
で、そっから負けたくないって気持ちが出てきて「私が正しいってことを証明したい!!」って気持ちになる。笑

そう、面倒臭いやっちゃなぁ、だったのだよ。

で、証明するために、相手の非を探してた。無意識のうちに。
それと自分にとっての正しい言い分を、嘘偽りなく理路整然と頭の中で整理してた。

それらが整うと「ほれ、私は間違ってへんやん!あんたが間違ってるのになんであんな言われ方セナあかんだんよ!?」と鼻息荒くフンフンと憤る。

こうやって人との関係で、知らず知らずに怒りに支配されていた。

・・・って人生やったと、最近気づいた。
51歳になろうとしてやっと。笑

<自我が強いから>

いやさ、ほんま自我が強いなって思うの、おばちゃん。笑

自分では「そんなことない、私は物分かりがいい」「人それぞれやから世界は回ってるんやから。自分の意見だけでは回らんから」そう思ってた。

でも違った。

わかってなかった。

結局自我に縛られて、人を否定してた。

やっとそういう事に気付いたわけ。

<気付いたらこっちのもん!>

まず、そんな自分に気付いたときにやってきた感情は「恥ずかしっ!」やった。

顔が赤くなっていくのを感じた。

穴があったら入りたいって思った。
でも、穴はなかった。

入れなかった。

けどさ、口に出さんかったら人にはこの恥ずかしい気付きはわからんし、わざわざ穴掘らんくてもえぇかなって思った。笑

とりあえず自分でこの恥ずかしい思い何とか整理しようとして考えたのが・・・

[もう全部認めちゃえばえぇやん]

“まぁそういう部分もある、人間やもん。”
“それでえぇやん”
“自分はそうじゃないって思ってた自分が自分の姿やった。でも、私は私やん”
“いいところだってあるやん、完璧な人間なんておらんやん”
“やけど、このまま一生過ごしていったらたぶん自分を苦しめるし、そういう自分でい続けたくない”
“だったらこれから少しずつ自我を減らして傲慢さを減らしていけばいいんちゃう?”
“気付いたんやから、できるさ。うんうん、できるできる♪”

認めたくない自分の姿にハッと気づいた時、それが嫌やからって自分を責めてもいいことない。

自分から自分を切り離すことはできん。

いろんな面があって自分ができてるんやもん。

だったら、認めたくない部分を切り離すより受け入れて、その部分もいつくしみながらもっと自分をいつくしめる自分になっていけばいい。

そう思った。

そう思ってから、気持ちが変わっていった。

<気づきの連鎖>

面白いもんで、一個気づくとまた新しい気づきがやってくる。
次にやってきた気づきはコレたち。

自分と人は違う。
人を変えることはできへん。
人の考えはその人の物。
人の行動はその人の物。
人の言葉はその人の物。
やから、それらすべてを私がどうすることもできへん。
できへんから、嫌なものは受け取らなきゃいい。

なるほどな!気づいた時に目の前が明るくなったよ。

<行動や考え方を変えていったその先のつまずき>


こう言うことに気づいてから、他者が私へ投げかける負の物は受け取らないように意識した。

そりゃ人間やから、一瞬「ウっ」って思うことや心や頭にズドンと来ることもあるよ。
でもそん時はそれ以上考えずに、手放す。

私の物じゃないし

って。
そうやってたらずいぶん楽になって行った。
けど、ほんまに楽になるにはまだこれでは足りんかった。

行動も考えも変えたのに、どうしようもなく苛立つことがあった。
パートナーの私への虫ケラ扱いが主やけど、それ以外でも流せてたはずのことが流せなかったり怒りに支配されてしまったりと言うことがあって、なんでいつまでもこう言う自分なんやろう?と凹んだ。

<そんな時に出会った最強の言葉たちで加速した私の変化>


諸行無常

諸法無我

一切皆苦

そう、仏教のアレね。特にお釈迦様が言われた、

それ言われたら身もふたもないやん

っていう、なかなかに受け入れがたい言葉たちが私の中にストンと落ちて、納得できて、目の前がぱぁぁぁぁぁって明るくなった!

ちなみに古舘伊知郎さんが自身のYouTubeチャンネルでこうおっしゃってた

「お釈迦様の言葉は、真理をついてるから耳障りが悪いから受け入れられないかもしれない。だから大乗仏教ができた。大乗仏教の方が受け入れやすいかもしれない。人々を優しく救うためにできたから。でも原始釈迦仏教の釈迦の教えは真理なんだ。」

大雑把に書いたけど、まぁそんなような感じ。

私は、大乗仏教の言葉より、古舘さんが言われるように耳に痛い耳障りの悪いと受け止められがちなお釈迦様の教えがすとんと入った。

有る意味きついこと言うてるの、お釈迦様。
でも、なんか私にはものすごく耳障りがいい。
多分ね、、これ、、、

自分が傲慢で自我が強いっていう、認めたくない自分を認めたから

なんじゃないかなって思う。
自分の恥ずかしい自分を認めたら、それ以上何言われたって「おっしゃる通り」としか言えんのよ。笑

で、そういう自分になってから、上記の言葉たちに出会ったからかな?
何度も何度もこの言葉たちのいろんな解説を聞いてたら、なかなか理解しずらいこれらの言葉の意味がスムーズに入ってきた。

そしたら、突然の他人からの攻撃的な言葉などへ、自分の心が平穏に過ごせる対策法ができた。

もちろん、その瞬間から流せるときと、いったんは「うっ」って自分の中に入ってしまうときとある。
でも、入ってしまっても引きずらずにさっさと手放していけるようになった。

これはすごい大きい変化。

冒頭に空いたように自我が強くて傲慢やのに、そんな自分を変えていくことができたなんて、すごない?!笑

<私の頭で巡る言葉たち>

うっって来た時にはこんな言葉を考える

直ぐに私の感情は移り変わっていく。いつまでも今のこの感情は続かない。

全てに実体はない。
その人の発した言葉はその人の物やし、その人の発した言葉だけが正しいわけじゃない。

私が負けたくない、自分は間違ってないって証明したい思いも持つ必要はない。

意見は人それぞれで相手にとってはその考えが正義で同時にその人の自我。
私の考えは私の意見で私の自我。
どっちも正解でどっちも正解ではない。
そんな正解のない事にとらわれる必要はない。

どっちが正しくてどっちが間違ってると証明する必要はない。
全ては一つなんやから。

と、こんな風に考えている。
悟ったわけじゃないから、都度流せるような思考をして消していく。

<それって恥ずかしい>

自分が正しいと思ってることって、結局自分の経験や周りの言葉なだけやったりする。

つい最近、社会人なら当然のマナーや!とかなり攻撃的にものを言われた。

その人と同じ意見の人もおる。でもね、私がした方法が社会人として普通やと思ってる人も同じようにおる。

正解は、ない。

法律で決まってるわけでもないルール。それぞれの人がそれぞれに、経験や指導を受けた中でそれがルールと思いこんでるルール。

そのルールや自分が正しいと思う意見に執着して人を攻撃する。

もしかしたらその人は「教えてあげてる」って思ってるかもしれへん。
でもな、教えてあげる必要ある?ってこと。

それ、自己満足やん?

だってそのルールが世の中のすべてじゃないんやもん。
他の考え方や方法もいっぱいあって、もしかしたらそっちの方法を使ってる人の方が多いのかもしれへん。

絶対的なやり方ってない。

そやのに、それを教えてあげてるって思うのってさ。ただの自分の我の押し付けやん。

そう思った。
そう思ったその時にハッと気付いた。

あ、私もそうやって人に自分のルールが絶対やって思って教えてきてた

って。
あぁ恥ずかしい!!!マジ恥ずかしい!!!

そしてここでそれを公にして恥さらしてるし。笑

ちなみに自分もやってたくせに、やられた時は腹が立ってた。笑

でも最近のその出来事にはもう腹は立たなかった。

諸行無常。
人も移り変わっていく。
過去に自分の我を押し付けて恥をさらしていた私。
でも、気付いたから自我への執着を手放そうと実践している私。
少しずつ、少しずつ変わっていっていると感じる。

こうやって意識することで、人からの咄嗟の攻撃にも心穏やかに、もし心が瞬間乱れてもさっさと立て直すことができるようになったお話でした。

まぁそもそもお釈迦様が言うには自我なんてないんやけどさ。
自我なんてそもそもない。これも穏やかにおれるようになった理由でもある♪


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