短篇小説「秋風」

滑り台が一つだけある閑静な公園のベンチで、サトルは缶コーヒーをくいっと飲んだ。
紅葉が映え始めた街路樹の景色をぼーっと眺めていると、機嫌のいい足取り笑顔な柴犬と「まるちゃんかわいいねーたのしいねー」と手毬を転がしたような可愛らしい声の女性が通り過ぎる。
落ち葉の香る秋風が肌を撫ぜて、いやはや今日も平和だな、とぽやぽやした気分で目を細めたサトルは、PRADAの上質な生地のネクタイを片手で緩めた。
背もたれにぐでんと体重を預けて空を仰ぎ見ていると、突然隣に座っている青年がぽつりと声をかけてきた。

「ぼくのこと、幽霊だと思ってます?」

「えっ幽霊じゃなかったんかい。」

色素の薄い瞳でこちらを見てくる青年に、サトルはきょとんと目を合わせて軽く仰け反った。
フラワーカンパニーズのロゴが入った白長袖Tシャツにジーンズを履いた青年は、サトルが座る前からこのベンチにずっと居座っていたのだ。
目尻にかかった真っ黒な前髪を指でかき分けながら、青年が言う。

「ベンチ一つしかないのに平然と隣に座ってくるから、なんでだろうと思って…」

「てっきり幽霊だと思ってたわ。」

「ガン無視してましたもんね。」

サトルは素っ頓狂な声を出す。生糸に冷気が伝うような細い声色の青年は、透き通ったモデルのような顔で、悪く言えば生気の無い色白だった。

「霊感あるんですか?」

「うん。まあね。」

「逆に幽霊が見えててわざわざ隣に座りにいくのも変な人ですね。」

「慣れすぎてるのかもね。幽霊座ってるからってベンチ譲るの嫌じゃん。」

サトルは背もたれに仰け反ったまま悠々と足を組んだ。かっちりと着こなしたブランド物のスーツ生地が、足の動きに合わせて繊維を光らせる。その太ももを一瞥した青年が質問をする。

「普段何されてるんですか?」

「その辺散歩したりピザ食ったりしてるね。」

「そんな高級そうなスーツ着てるのに、お仕事は?」

その日は平日真昼間、時刻は午後の十四時を過ぎた頃だった。サトルの足元の一枚の枯葉が、風に乗ってからりと音を立てる。

「んー、やめた。」

サトルは缶コーヒーの飲み口に唇をつけたままそう言って、飄々とした顔でくいっと残りのコーヒーを飲んだ。
今日?と青年が聞くと、サトルは今日。と返す。

「なんかあったんですか?」

青年は姿勢よく膝に手を置いたまま、髪をかっちりと上げた額の形が整った男の茶色い瞳を見据える。
サトルはサラリと答えた。

「上司の背後がまぁえげつない怨霊の巣窟で、見るに耐えられなくなっちゃって笑。ありゃすごい。」

「へぇ、見える人も大変なんですね。」

まるで冗談めいた口振りで、きっと理由は他にもあるのだろうが、あっさりとしたサトルの表情に青年は素直にそう返した。サトルは片足のつま先をゆらゆらと動かしながら言った。

「きみ、名前なんていうの?」

「…アオイです。そっちのお名前は?」

「サトル。高橋 さとる

小気味の良いリズムで歩く真っ白なプードルとリードを持った健康的な老人が通り過ぎるのを見ながら、理は空になった缶コーヒーをぺこぺこと鳴らした。
一時の間を置いて、アオイが口を開く。

「理さん、好きな食べ物は?」

「なにこれお見合い?蕎麦かな。」

「蕎麦。あれのどこが美味しいんですか。」

細い線がぴんと糸を張ったような声に、理がアオイの方を向く。

「なに、蕎麦にトラウマでもあんの?」

「蕎麦って味が砂っぽいじゃないですか。」

「お子ちゃまだな。ほんとに美味い蕎麦を食ったことがないんだ。」

「普段どこの蕎麦を食べてるんですか?」

「日清のどん兵衛。」

「カップ麺じゃないですか。」

少し気の砕けたアオイが一刀両断ぎみに返したにも関わらず、理は構わず涼しい顔をしている。

「アオイくんは何歳なの?大学生?」

「二十一です。」

「へぇ、そういうアオイくんの好きな食べ物は?」

「なんでしょうね……モンブラン、とか?」

公園前の街路樹の向こう側には、立て看板に可愛い字体でモンブランを宣伝しているケーキ屋があった。
アオイは特に思いつかずに目の前にあるそれを見て答えたようだった。

「あれ食べたいの?」

理が指をさすと、アオイがすいとケーキ屋から視線を逸らす。

「買ってこようか?」

理が気前よくそう言うも、アオイはどこか淋しい声で答えた。

「いいです。ぼくは食べられないんで。」

「ふーん、アレルギー?」

「栗とかさつまいもとかはアレルギーです。」

「へぇー。」

すっかり柔らかくなった日差しに涼風が立ち、落ち葉がからからと音を立てる。
まるちゃんという柴犬と可愛らしい声の女性がてくてくと反対の歩道を通って帰って行くのを見やり、公園の滑り台に遊びに来る子供を眺めながらアオイと理は他愛のない話を続けた。
アオイの大学の話や理の好きな動物園のカワウソの話、アオイの家族の話や理の好きな散歩道にある定食屋の話。
途中滑り台を降りた子供がじっとこちらを見てきたので、理が形のいい口角をあげてひらひらと手を振る。アオイがぽつりと呟いた。

「子供好きなんですか?」

「好きだよ。」

「好きなものばかりでいいですね。なんか楽観的だし。」

「良い世界だよ、ほんと。」

「理さんって結婚してるんですか?彼女は?」

「アオイくんってやけに世間一般的なこと聞いてくるよね。そんな見た目してるのに。」

形の良い奥二重の目に、薄い唇。柔らかそうな毛質の黒髪は襟足まで少し伸びていて、中性的に見える。そんなアオイの横顔を眺めていると、子供が近寄ってきて拙い言葉で話しかけられた。

「おにいさん、だれとおはなししてるの?」



「やっぱ幽霊だったんじゃん。」

「誰かとお話したくって。カマかけて話しかけてみました。」

「まぁ、気づいてたよ。」

足透けてるし、と理がアオイの足元を指差す。アオイの足首から先は半透明で、足裏にある地面とツヤツヤしたどんぐりを透かしている。

「なんで僕の声無視しなかったんですか?」

「うーん。」

サトルは空を見上げて眺望したあと、アオイの方に振り向き悪戯っぽく笑い口を開いた。

「顔が綺麗だから?」

「……ゲイですか?」

「ははっ!ド直球だな。なんとなく寂しいのかなって思っただけだよ。」

理が愉快そうに笑い立ち上がった。近くのゴミカゴに缶コーヒーを捨てている理に、アオイの生糸のような声が心配の色を映す。

「こんなに優しくしてたら、憑かれちゃいますよ。」

「あんな上司みたいになるのはごめんだけど、別に幽霊も嫌いじゃないから。」

ベンチに戻ってきた理が鞄を持ち、そろそろ腹減ったから帰るわ、と大きなあくびをした。

「じゃあね、アオイくん。」

理がそう言って振り返った時には、青年の姿はなかった。
理は眉頭を上げて心地のいいため息をつき、公園を後にした。

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