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書生として晴耕雨読の生活?

三国志の時代、諸葛亮孔明が劉備玄徳に三顧の礼をもって迎えられるまで、荊州の庵で書生として晴耕雨読の生活を送っていた逸話があります。
私はそういう生き方を素敵だと思っているのです。

子供の頃には「夢」は何ですか?と聞かれ、大人になっても、社会人でも「目標」を立てて、そこへ向かって努力するというのが当たり前のようにあります。
目標がなければ、何に向かって進めばいいのか決まりませんし、成長しないし、成果も出せませんからね。
それ自体、当然至極のことだと思います。

そこで本題です。
私が考える目標とは「実現したいこと」だったり「なりたい姿(職業とか)」を具体的に決めないようにしています。
「目標」は常にたくさんの選択肢が存在する「方向性」みたいな感覚が望ましいと思っています。(もっと適切な表現がありそうだから、現時点では仮に方向性と言っています)

例えば、料理について言うと、「料理が好き!もっとうまくなりたい!」の延長線で「お店を出したい」とか「料理人に転職したい」といった明確な目標設定は私にはありません。
なりたい姿とか実現したいこととかではないです。

料理に関してだと、私の「料理の目標」は「私の大切な人にその人に合った手料理を作って喜んでもらいたい」です。

だからと言って、いつかお店を出すかもしれないし、好きが高じて今の仕事をやめて料理人になるという可能性があってもいいんです。ただ目標に明確に設定していないってことだけです。

なりたい姿なんて、機会が巡ってくれば実現できることと考えているからです。

今だって自分ではお店を出せるレベルのものも作れたりするからやってみる?って言われたりもしますが、拙速に焦る必要なんてないんです。
さらにさらに腕を磨いて料理がうまくなってからでも遅くないですし。

なんとなく、書生として晴耕雨読の生活を送ることもいいなと言っている意味が伝わってきたでしょうか?

自分の得意なことを伸ばしていくことは、いつか巡ってくるかもしれない機会の為に、自分が自分の為にひたすら頑張っていくということです。
機会とは諸葛亮孔明の例で言えば、劉備玄徳に迎えられるということです。

評価というものは、その機会の時に判断してもらえばいい。
何かゴールを決めてそこに達するレベルまで頑張ればいいという目標感ではないです。
そういえば最近開眼してるゆたぽんが「人生は勉強だ!」って言ってます。
永遠に勉強なんですよね、ひたすら自分を磨き究めていく

途中過程における他人からの評価とかはどうでもいいんです。
ひたすらいつか訪れる機会のために自分を高めておればよい。
ストイックにやっていれば、他人から見る目も少しずつは変わるでしょう。

それは行動に起こしている人だけが得られる評価です。
噂はいずれ広まるでしょうし、劉備玄徳が諸葛亮孔明のことを知ったのも賢人からの噂話でした。それが三顧の礼という機会へと繋がっていった。

諸葛亮孔明は、自らが仕官を申し出れば採用されたでしょう。
でもそれをしなかった。仕官が目標ではなかったからで、自分の知識を何に使うかは天に任せて日々を過ごしていたからなんです。
私が好きな生き方だと言ったのはそこなんですね。

料理にしても写真にしても、いつしか巡ってくる機会の為に、ひたすら自分を高め続けていたいと思います。他人と比べることなんて一切考えていません。
しかしその能力を発揮する機会が来た時は圧倒的でありたいんです。

未来での可能性こそが私の生きる意味であり目標だと思うのです。

諸葛亮孔明の話とは毛色が違いますが、映画「猟奇的な彼女」の中で言われていた素敵な言葉を添えておきます。
「運命というのは、努力した人に偶然という橋をかけてくれる」by ユ・スンチョル


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