映画『ドヴラートフ』をめぐって #2

▶映画に見る「いま」の風景

映画『ドヴラートフ レニングラードの作家たち』は 1971年のレニングラードの文学⻘年たちの姿、それも「11月7日の革命記念日 前日までの6日間」に絞ってドヴラートフとその周辺を描いている。先ずこの時間の切り取り方が秀逸だ。革命記念の祝日前というのも象徴的だが、11月という季節はこの映画の舞台にぴったりだ。楽しい夏は遥か彼方、⻩金の秋もあっという間に去り、陽は翳り街からは色彩が失われていく。本格的な雪の季節を前に重苦しい曇天が続く。創作の自由、才能の発露を求めるが一向に光の見えない主人公の心の中の空模様そのものだ。フィルムの色彩設計が素晴らしい。くぐもった抑えた色調の画面からは季節と時代の鬱屈した気分が滲み出し、コムナルカ(共同住宅)のカオスに充満するタバコの匂いが漂って来る。一挙に半世紀前のレニングラードにタイムスリップ..…… いや、そうではない。映画を観ているうちに我々は気付く。今、スクリーンに映し出されているのは過ぎ去った遠くの街の風景ではなく、「いま」の風景ではないのか? と。ドヴラートフは言う。「今は文化が失われ、フィクションと現実がごっちゃになっている」 ーーここは我々の街、彼らは我々だ。
沼野充義先生がこの映画に「ドヴラートフーーそれは私であり、あなたなのだ」という言葉を寄せられていた意味を今、コロナ禍真っ最中の日本社会で生きる私は自分なりに噛みしめている。

▶「自分」であり続けること

6日間にドヴラートフの周囲で起こることーー声を封じられる芸術家たちの姿を見るのは辛く、せつなく、やるせない。体制に迎合したもの、求められるものだけを書けと言われ、それ以外の存在は許されない、窒息寸前の社会。だが、首を締めているのは誰だ? 権力者が「上から」締め付けるよりもずっとタチが悪いのは、市⺠が、社会と時代の「空気」に呑まれ相互の関係性の中で互いに監視し締め付けあう「下から」の抑圧だ。日常の隅々まで満遍なく張り巡らされた権力構造の網。 抑圧的な社会の中で「自分」であり続けること、「自分の言葉」を捨てないことは生易しいことではない。 「文学にポジティブもネガティブもない。存在するか、しないかだ!」と踏ん張り、友と語り合い、娘に人形を買ってやろうと心を砕くドヴラートフは、「小さな日常」という最前線で戦う小さな優しい英雄たち の一人だ。大きな英雄の物語は要らない。
映画の終わり近くで、ドヴラートフについて「彼の作品は後に多くの人に愛され20世紀で最も重要な作家の一人となった」と語られる。時代の空気に迎合した者の声は時代に埋もれ遠くへは届かない。しかし、時代に流されず自分であり続けた者の声は届くのだ。 陽気な映画ではない。けれど、観終わって、心の中にぽっと熱い灯がともり、勇気が湧くのは何故だろう。それはたぶん、自分がドヴラートフになったからだ。
#3 へつづく)

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