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すみれ
意志の弱い僕はこの日も帰り道に煙草を買う。吸い慣れたラッキーストライクのライト。
家に帰り、熱いコーヒーを入れて、ライターで煙草に火を点ける。
コーヒーはインスタントだし、ライターはコンビニで買った130円の使い捨て。
持ち主に似て彼らもまた安っぽいレプリカント(量産品)だ。
しかし彼らには役割がある。少なくとも僕にとっては必要なものだ。
誰の役にも立てない僕とは違う。僕は僕の役にも立てない。
自分が130円のライター以下の存在なのだと思うと哀しい。
哀しくて哀しくて自分の心臓にも火を点けたくなる。
煙草に火を点け、一口目、大きく呑み、煙を溜息と共に空に吐き出す。
無秩序に散らかった部屋で煙が踊る。窓の外から流れてくる車の走行音がせめてものワルツ。
煙草とコーヒーが、薄弱で軽薄で神経質な僕の心をこの世界にかろうじてつなぎとめている。
日本がオーストラリアみたいに煙草が法外に高い国じゃなくてよかった、と思う。
そうであれば、今頃僕は金銭的にかなりまずい状況にいただろう。
いや、逆に煙草を敬遠して非喫煙者として生きていただろうか。
どっちでもいい。どちらにせよ、僕はくだらない人間だろう。
僕に生きる価値はないが死ぬ価値もまたない。
地獄に行っても、こんな能無しはいらないと地獄の門番に追い返されるだろう。
煉獄にだって辺獄にだって、僕の居場所などあるものか。
息を吐く。灰皿の煙草やすめに差した煙草が、重力に耐え切れなくなった灰を落とした。
ふと、煙を吐き出した折に少し見上げて気づいた。
僕が窓際に座り吐いた煙が、僕の目線から45度の角度で、30センチメートルほど先に滞留し、流転し、凝縮している。
こんなことが、あるか。窓を開けているのに。
煙は蛇のようにうねりながら絡み合い、混沌の中に何かを形づくっていく。
それは握りこぶしくらいの球体になり、収縮と膨張を繰り返して漸次的に大きくなっていく。
人間の顔だ、と僕は気づいた。目の前で煙が、人間の顔を形成している。
まず輪郭ができ、次に煙の塊の表面に徐々に凹凸ができ始める。
タンポポみたいに小ぶりな鼻ができ、十六夜のように丸い目ができ、ユーカリの葉のように初々しい口ができた。
人間の顔が形を整えてから、その頭のてっぺんから髪が生え始めた。
首の少し下あたりまで真っ直ぐ髪は伸び、生えそろった後で緩やかなカーブを描き出した。
なんて美しい曲線なんだと思った。手を伸ばして撫でたい衝動に駆られる。
気づけば顔は健康的な色味を帯び、髪はまるでサラブレッドの競走馬の毛のように綺麗な栗色をたたえている。
確かに、人間の女の顔がそこにある。女の目は、焦点を僕の顔に合わせて離さない。
まばたきすらするようになった。
アゲハ蝶の羽ばたきのように可憐なまばたきだ。
顔は無表情で筋一つ動いてないみたいに見えるが、彼女の瞳の奥に、僕は不吉なものを見つけない。
その顔には見覚えがあった。いや、初めて見る顔だ。いや、僕はこの人を知っている。
「君は・・・すみれ?」思わず声を出した。
すみれだ。すみれに違いない。すみれって誰だろう。ずっと会いたかったんだ。僕はすみれを知らない。僕は誰も知らない。すみれは誰にも渡さない。すみれに会えて嬉しい。僕はすみれに語りかける。
「すみれ!すみれ!!君が好きだ、好きだ。愛してるんだ。僕は君以外の誰かを愛したことはないよ、本当だから。君のことが12歳のときからずっと好きなんだ。毎日君のことを考えているよ。ねぇ、君の相手には僕しかいないよ。好きだ、好きだ。ねぇ、僕と結婚してよ。きっと幸せさ。君のためなら僕は身を粉にして、この身が塵になろうと君の生活を保障するよ。いや、実際に塵になったら君の顔が見れなくなっちゃうから嫌だな。でも、僕は本気なんだ。この気持ちは、まるでキリンの首みたいに長くて、蚕の糸みたいに頑くななんだ。子供をたくさんつくろうね。男の子が3人、女の子は4人、バイセクシャルの子が2人。賑やかになるよ。幸せだろ。ねぇ、今結婚届を用意するからさ、明日早起きして役所に出しに行こうね。そして帰りに大根とヨーグルトを買って帰ろう。えっ、ヨーグルトはまだ買い足さなくていいって?そうか、まだ冷蔵庫に残ってたね。ごめんね。君を傷つけてしまったね。あのときの僕はローマ字が好きだったんだ。雨が降る日は頭が痛むね。ピアノは得意じゃないよ、僕は木琴を作る職人さ。待てよ、君のお母さんは昔女優やってたんだろ。あれ、あの丘陵を越えた先の森から、子熊の鳴き声が聴こえる。優しく降る雨の匂い。強欲なドワーフはウルクの首を切って宝を持ち帰る。」
すみれが照れてはにかんだ。僕はすみれにキスをした。そして長年にわたり表皮のようにまとわりついた孤独に別れを告げた。愛しているよ、すみれ。