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暇なのでベーグルを食べます

 縁側に腰かけて庭に足を投げる紫陽花に声をかけたが、返答がない。
「うん」も「へぇ」も「ふん」もない。
昨晩の軽い口喧嘩が尾を引いている。
太陽は俺達のちょうど頭上を通過する途中で、まるで巨峰の房のように連なる厚い雲を追い払おうと、精いっぱいの光を空に流している。

 いつもそう、紫陽花は簡単にへそを曲げてしまう。
俺だってお前にそっぽを向けたい日もあるんだよ。 
紫陽花の背中にそんな言葉を投げかけたくなるが、そんなことを言ったところで新たな火種以外の何になるわけでもなく、飲み込むしかなかった。

 凪の日に人の手を取ることは易しいが、その手を嵐の日も握り続けることはよほど難しい。
ずっと昔に人が俺に言ったことを思い出しながら、首肯するように力なくため息を吐く。

 どうにも手持ち無沙汰で、暇を紛らわすためにさっき買ってきたベーグルを食べることにした。
すっかり錆びついた機械じかけの人形のようにぎこちない動きで、ベーグルを口元へ運んでは噛みつきながら、テレビを付けて適当にザッピングしてみる。
特に面白そうな番組はやっていないが、意識をこの空間のどこに集中させればいいか分からず、何も捉えていない目でニュース番組を眺める。

 ふいに見やった紫陽花の背中は、確かに何かを語っている。
小動物のようなこの頼りない背中が、いつも俺の心を締め付ける。
俺は自分のベーグルを口にくわえ、もう一個を持って、紫陽花の隣に腰掛ける。

 一緒に食べよう。今日は誕生日でしょ。
昨日は俺も悪かったと思う。
紫陽花の好きなベーグル、買ってきたよ。
無視はやめてよ。一人で食べるベーグルもそこまで悪くないけど、今日は紫陽花と一緒に食べたいよ。
だから、こっちを向いて、話そうよ。

 紫陽花は俺の方に顔を向けた。
仏頂面を保っているが、今にも決壊しそうなダムが最後の力を振り絞って水圧に耐えるように、唇の端が揺れていた。
こんな時、紫陽花の唇がとても遠く感じる。
どれだけ手を伸ばしても、もう触れられないのではないかとすら思える。
 
 紫陽花は紫陽花なりのやり方で、この生活を維持するために犠牲を払っているのだ。
なぜこれまで気づかなかったのだろう。
耐えているのは、俺だけだと思っていた。 

 一体何を口にすればいいのか分からなくて、ただベーグルを差し出した。
紫陽花はそれを無言で受け取って、前を向いてかじりだした。
そうだ、初めて会った時からずっと、この横顔に惚れていたんだ。
綺麗だな。心の中でそっとつぶやいていた。

 紫陽花は黙って雑草が茂った庭を見つめ、ベーグルを食べ続ける。
出会った時からますます綺麗になっていると、俺はその横顔を見つめながら思う。
どこでボタンのかけ違いが起きたのかは今となっては分からないし、確かめようもない。
ただ事実として、俺達は愛し合うと同時に互いを嫌い合い、微妙なバランス成り立つこの同棲生活をひたすらに維持している。

 ここではない、しかし可能性としてはあり得た世界、そこには永遠に仲睦まじいままの俺達が住んでいるのだろうか。
俺ではない、紫陽花の愛を一心に受ける俺に、俺は嫉妬する。
残念ながら俺は、この不完全な世界で、かつて望まなかった未来を今生きている。
それでも、紫陽花と出会うことすらなかった世界の孤独を思えば、今俺が感じている鈍い痛みなど、むしろ歓迎すべきものなのかもしれない。
ここは楽園ではないかもしれないが、煉獄でもないとしたら。

 いつも通り、おいしい。

 ベーグルの咀嚼音だけが漂う沈黙の帳を裂いて、表情を変えない紫陽花ま言葉を放った。
ひどく不機嫌で、それでいて思慮深く、少ししょっぱい味がする、音の塊だった。

 ずっと変わらない味だね。

 俺も前を見ながら、同調して言葉を空に投げる。
かつてあり得た未来へ手を伸ばしても、俺はどこにも行けない。
しかし、今いるこの世界をせめて愛せるようになろうと、ささやかな努力を続けていけばいい。
きっと大丈夫、きっと俺と紫陽花は、疲れた体を寄せ合い、互いを認め合い、そして求め合い、生きていける。
たとえいずれ破れる願いだとしても、二人並んでベーグルを食べるこの瞬間だけは、そんな夢を信じることができた。

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