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【短編小説】箱庭の原風景
気づかぬ想いを形にうつす。
常連客持ち込んだ願いを映すビー玉と店主の過去の話。
上記の話に出てくる店の話ですが、読まなくても読めます。
ちりん、ちりんと風鈴が鳴った。音の方向に目を向ければ、縁側に一本の風鈴がつるされていた。透き通った肌の向こうに青空が見える。木々はまだ裸で、遠くの山々は純白の冠をいただいているというのに、ぬるい夏風が肌を撫でた気がした。
風鈴には何の柄も描かれていない。紙も白一色だ。梁に一本だけ吊るされた柄なしの風鈴は、涼やかでどこか寂しげだった。
胸にぽつりとしみが生まれる。水滴が一滴落ちた程度のしみ。しかしそれは静かに、だが確実にその範囲を拡大させていく。
いけない、いけないと首を振って、男は風鈴から視線を引きはがした。背を向けるも、誰かの指先が髪を引っ張るかのように意識が背後に引っ張られているのがわかる。
無視しないで、寂しいの、と声なき声が男を呼んでいる。
だが応じれば最後、男の家まで上がりこんでくるのは明白だ。ここのモノたちは店の規則も相まって押しが強い。何せ人が選ぶのではなく、商品が人を選ぶのだから。
(にしてもえらく気に入られたもんだ)
男は苦笑した。だがどれほど魅力的な誘いであろうとも、今日は買いにきたわけではないので、残念ながら彼らに応えることはできない。
この店と出会ってから十年以上。何が彼らの琴線に触れるのかわからないが、来るたびに秋波を送られることはよくある。
(それにしても、今回のパターンは初めてだな)
店内は二部屋にわかれており、奥は上り框になっている。畳は替えたばかりなのだろうか。ほのかにいぐさの匂いがした。縁側と和室を隔てる障子は開け放たれて、澄み切った青空と延々と続く乾いた田んぼ、そのさらに奥には青い山々がある。
ガワだけ見れば完全に田畑の中にぽつりと佇む古民家だ。まあ中身はただの民家とはほど遠いが。
男はぐるりと店内を見まわした。
前回訪れたとき店内を照らしていた満月のランプは、男が立っている手前の部屋ではなく、奥の和室にぶら下がっている。ただし一回り小さい上に、明かりは灯っていない。真昼の月よろしく影に溶けるようにひっそりと浮かんでいた。
それとは対照的に板張りの部屋のほうは煌々と花型のランプが何個も吊り下がっている。花の形は鈴蘭だろうか。ふんわりと膨らんだ花弁のドレスが愛らしい。下を通ると、爽やかな初夏の風が吹いた。
瞬間、景色が一変した。
幼子が紙面いっぱいに青いクレヨンを滑らせたような空を背景に、草花がそよいでいる丘の上。帽子を押さえて誰かが立っている。麦わら帽子の下から艶やかな黒髪がなびく。身にまとっているのは白のカーディガンに白のスカート。綿毛のようなそれは風に揺れるたびに風と共に飛んでいってしまいそうな儚さがあった。
やがて人影がゆっくりと振り返る。帽子の影が引いていってその目があらわになっていく。ああ、その顔は――
板がきしむ音がしてはっと男は我に返った。無意識のうちに一歩足を踏み出していたらしい。その際に床板が鳴ったのだろう。
青空も野原も女性もかき消えて、周囲にあるのはところ狭しと並べられた個性豊かな商品たちだ。もう爽やかな草原の匂いはしない。あるのは埃と古びた木材が混じった匂い、倉庫のような静かな灰色の匂い。どれも彩度が低く、あの若草色の匂いと似てもつかないものだ。唯一明るい匂いとしてあげるのならば、風が吹き抜けるたびに香るいぐさくらいか。
手は上の花へと伸びている。まるで星を手に入れようと身分不相応な望みを抱いた愚者のように、天に輝く花に向かっていた。
危ない、危ない。油断するとこれだ。特に自分の記憶に干渉する類のものは要注意だというのに、つい気が緩んで彼らの干渉を許してしまった。
まったく人の思い出に無遠慮に踏み入った挙句、自分への好意まで刷りこもうとは図々しいにもほどがあるのではないか。
怒りをこめて睨みつけると、天井のランプは身を縮こませるように微かに揺れた。
男はため息をついて視線をそらした。
ここにいるモノたちに怒ったところで意味はない。反省したと思ってもどうせそれは一時のことで、次に会うときにはすっかり忘れている。彼らはそういうものなので、こちらの常識に当てはめようと努力しても意味はない。常人とは価値観の合わぬ彼らをまとめあげ、商品という形でこの世界になじむ型におさめている店主は正直尊敬する。
照明から目をそらせば、まったくみたことのない新顔があちらこちらにいた。
棚の上に飾られた漆塗りの大皿、花瓶など大きな器類から木目が美しい箸や匙など細々したものまで品よく並べられている。その棚の隣には顔のないマネキンが置かれ、紺の着物を着こなしていた。裾には百合があしらわれ、蛍のように宵闇にぼうっと淡い輪郭を浮かばせている。
別の棚にはこけしやらけん玉やら、何か古い遊び道具たちが並んでいる。壁に何枚も飾られているのはタペストリーだろうか。桜並木と菜の花畑、向日葵と入道雲、夕暮れの藁葺き屋根に二つ並んだ少しいびつな雪だるま。糸と糸が織りなす情景はどうにも心に入ってきやすい。このまま眺めていれば彼らの世界にまた引きこまれてしまいそうだ。
男は首を振って布の絵画から目をそらした。
どれもこれも郷愁を感じてしまうのは今回の店が和だからだろうか。血に刻まれた故郷の香りがするために、普段なら引きずりこまれない世界に引きこまれてしまったのだろうか。
(だがよりにもよって初恋のきっかけを引きずりださなくてもいいじゃないか)
男は苦々しく顔をしかめた。
ここの商品の中には付喪神のように元の持ち主の感情を取りこんでこの店の厄介になるものもある。特に恋愛感情は人の心を揺さぶりやすい感情の一つであるために、それに働きかける商品たちも多いのだ。
(もうさっさと用件をすませて出ていこうか)
だが店内を見渡してみても店主の姿はない。普段ならば、勘定場に座って本でも読んでいるのだが、台の上にはタイプライターのような古めかしいレジの他には何もない。呼び鈴のようなものもなく、一度呼びかけてはみたものの返ってきたのは静寂だった。
(どこかに出かけているのか?)
珍しいこともあるものだ。店を出したということはこの店に陳列された商品のうちの誰かが「客」を見つけたということ。客が予め訪れるとわかっていて、店を離れるとは到底思えないのだが。
ふいに視界の端で何かがきらめいた。それは傍らの箪笥の上にあった。小皿にひしめく色とりどりのとんぼ玉。暗黒に渦巻く銀河、湖に浮かぶ水連に朝露に濡れる落ち葉。指の第一関節に収まる程度の小さな玉の中に世界が構築されている。
「それはある職人が丹精こめて作ったものでしてね。見事なものでしょう? 指でつまめる程度のガラス玉にここまで精巧な世界を作り出せるなんて。ほらごらんなさい。ちょうど鯉がやってきましたよ」
ふいに後ろから声をかけられて男は飛び上がった。振り返ると、白髪の男が立っている。ちょうど中年から高年に移行する程度の年に見えるが、初めてこの店をくぐったときから、容姿はほとんど変わっていないので、実際のところ、この店主が何歳なのかは謎のままだ。
皺の刻まれた節くれだった指は一つのとんぼ玉を指していた。緑がかった青の湖面に先ほどまでなかった赤が躍っている。水中を舞う優雅な踊り子は飽きてしまったのかそのあでやかな尾をはためかせ、再びガラス玉の世界から消えてしまった。
男はまだ脈の速い心臓を隠すように努めて平静を取り繕って言った。
「お久しぶりです。ずいぶん季節外れのものを置いてますね。今回はまたずいぶん趣向を変えなさって。この間まで海の底のような店内だったと風の噂でお聞きしたんですけども」
店主は眉を上げた。
「おや、最近は顔を出されていなかったのに、ずいぶんとお詳しいようだ」
暗に店の周囲を嗅ぎまわっていたのかと指摘されたようで妙に後ろめたさを覚える。もちろん後ろ暗いことは何もない。たまたま自分と同じく奇妙なモノに縁ある知人からこの店の話を聞いただけだ。彼女は今、遠い国で何を思っているのだろう。憧れの地で生き生きと仕事に取り組んでいるだろうか。
脳裏にキャリーケースを引く彼女の顔がよぎり、男は思わず笑みをこぼした。
「まあ内装は店が決めることであって、私が決めることではありませんからねえ。前まで海だったのは新入りの子が海が好きだったからですよ。もうその子はもらわれていきましたので、しばらくは海になることはないでしょうがねえ」
店主は男の表情の変化に気づいていないのか穏やかに続けた。
「それで? 何か気になるものはありましたか?」
男は店主の鳶色の目を見つめ返した。
「いや、今日は商品を買いにきたのではなく、引き取ってもらいにきたんだ」
「ほう、それはまた。何か面白いものでもございましたか? あなたは良い縁をお持ちですから期待できますねえ」
目の前の瞳が輝きを増す。なんだがかんだ言って彼はこのいわくつきのモノたちを愛しているのだろう。まあそうでなければどれほど彼らに好かれる体質であろうと彼らが然るべき人々と縁を結べる場を提供するはずがない。
「相変わらず物好きな方ですね」
「そんな物好きがやってる店の常連になるあなたも相当ですよ」
「違いない」
ポケットがふいに重みを増す。早く自分を紹介しろ、と無言の訴えを感じ、男はポケットに手を入れた。
「と、そろそろ本題に移らなければ。これなんだが、引き取ってもらえますでしょうか」
手に乗せたのは一つのビー玉だ。明るい灰色のもやが中に渦巻いている。と、突然もやが動き出した。その煙は徐々に何かの形へと変化していく。
「ほう、どれど、れ……」
店主の言葉が不自然に途切れた。
もやは一軒の家になっていた。だが家とはいえ、もやが形作ったということ以外は変わった点はない。どこにでもある一軒家だ。瓦屋根のある平屋。よくよく見ると玄関は引き戸のようだ。どことなく祖父母の家の雰囲気と似ている。
(でも俺のじいちゃんばあちゃん家ではないんだよな……)
あの家には大きな柿の木が植えてあった。そもそも平屋でもない。かといって自分の家はアパートであるため論外だ。
と、なればこの玉の性質を考えると誰の心象風景を模したのか、自ずと答えは限られてくる。
(まさか店主の――)
男は何気なく店主に視線を移し、愕然とした。
店主は目を見開いたまま固まっていた。数奇な品との出会いはそれこそ星の数ほどしているであろう人物が驚愕の表情のまま固まっている、というのはあまりに異常だった。
何か厄介なものを引き当ててしまったのだろうか。男の胸に冷たい不安がわき上がってきた。
「どうかしましたか?」
男の問いかけに店主ははっと意識を引き戻したらしい。玉に釘付けだった目が男を見る。
「あ、ああ、いやまたずいぶん懐かしい顔が現れたもので、つい驚いてしまいました。これは一体どこで?」
「見たことがあるのですか?」
今度は男が目をむく番だった。店主は眦を緩ませた。
「ええ。これは私にとってとても思い出深い品なのです。……しかも実家の姿まで見せてくれて。相変わらず優しい方だ」
「えっ、実家!?」
つい声が裏返ってしまった。店主はぎょっとする男を見、面白そうに目を細めた。
「おや、そんなに意外でした? まあこんな店を営んでいるので、変人扱いされることにはなれていますが、それでも私にだってちゃんと実家はあったのですよ。まさか木から生えてきたり川から流れてきたりして生まれたものだとでも思っていたのですか?」
「い、いやそんなことは……。ただ、あなたの口から実家なんて言葉が出てくるとは思ってなかったので、つい。すみません」
この店主の過去について男は何も知らない。知っているのは店主が自分以上に奇々怪々の品々に好かれる性質だということと、彼らと波長の合う人間が出会う場を提供しているということだけだ。それ以外は全て謎に包まれている。
だからこそ「実家」という俗世的な単語は彼に全く似合わなかった。むしろ木から生まれてきたと言われたほうがしっくりくる。
「いや、いや。謝る必要はありませんよ。昔話なんてしたことありませんしねえ。想像できないのも無理はない」
店主は鷹揚に笑った。
「これはですね、あなたももう薄々気づいておられると思いますが、本人が望むものをみせる玉なのです。心の奥底に眠っているような、自分自身ですら気づいていないようなささやかで根源的な夢を映し出す玉」
「……やはりそうですか」
自分が初めてこの玉に触れたとき、もやが形作ったのは丘の上に佇む女性だった。まだ小学生だったときの淡い初恋。恋と自覚すらできなかった、芽吹くことなく終わった甘酸っぱい思い出。
遠い忘却の彼方に置いていったはずのそれらが昨日のことのように色鮮やかに立ち上がってきて、男は思わず悲鳴を上げて手放してしまったほどだった。その後、悲鳴を聞きつけてやってきた両親や妻を誤魔化すのにひと苦労したため、男にとっては苦い出会いだったのだが。
「実はこの前実家の掃除を手伝っていたときに押し入れから転がり出てきたものなのです。どうにもただのビー玉には思えずあなたに相談しようと連れてきたものなのですが」
「そうですか。まあ、いつかは会えると思っていましたが、ええ。ずいぶん長かったものですね」
店主は乾いた手で硝子の肌を撫でた。幼い子を慈しむような手つきだった。それでいて長年顔をあわせてなかなった旧い友人に出会ったような親愛の情がそこにあった。
「ええ、あなたも気になっているようですから私とこの玉の出会いについて話しましょうか。この玉が全ての始まりなのですよ」
そう言って店主は語り出した。
私が幼かった頃、今の人にもわかりやすいように言えば、ちょうど小学校に入ったばかりの頃だったでしょうか。その頃は大人の目もあってか、彼らと出会う機会も今よりずっと少なかったのです。
そうですね……道端で見かけたぬいぐるみが拾った覚えもないのにいつの間にか部屋にいただとか、貝殻が録音した歌があぶくと鯨の歌であるのが普通ではなかったと人に話して初めて気づいただとか、まあその程度ですよ。
え? 貝殻はともかくぬいぐるみはホラーではないかって?
いやいやそんなことはありませんよ。彼はいろんなことを教えてくれましたからね。明日雨が降りそうなときにはいつの間にか傘を手にしていましたし、危険なモノに目をつけられたときにはどこからともなく現れて撃退してくれたときもあったんですよ。ええ、まったく。ぬいぐるみと言えど馬鹿にはできないものです。
少々話がそれましたね。戻しましょうか。
この玉と出会ったのは、幼心にも自分はずれているのではないか、と自覚し始めた頃でした。
他とは違う。皆が見知ったものとは違うモノと親しんでいる。だんだんと周囲から自分が浮き始めている。
だが彼らは遠慮もなしに話しかけてきて、自分はついその声にこたえてしまうのです。彼らは基本寂しがり屋なので。
おや、意外ですか? まあこの店のものたちは積極的なものたちばかりですからねえ。しかし外では彼らは基本ひとりぼっちです。誰かに気づいてもらうまで世界の隅っこでか細い声を上げ続けなければならない。何度も何度も無視されても声を上げ続けなければならない。そうでなければ気づいてもらえない。周りに知覚されなければ彼らは存在していないのと同義なのです。
信じられませんか? では今度彼らに出会ったときはよく耳をすませるといいですよ。歓喜の声が聞こえてくるはずです。全身を喜びで震わせるあの声は、一度聞くと手を差し伸べたくなりますよ。……もっとも例外もいますし、最初から図々しく私たちの領域に土足で踏みこんでくるモノもいますが。どこぞの仏像のようにね。
そんな孤独に濡れた声を無視することなんて私にはできませんでした。つい手を差し伸べてしまっては連れ帰ってしまう。あるいは意識を向けたがために許されたと感じて、上がりこんできてしまう。
当然、周囲の目は鋭くなりました。幸いにも両親は距離を置くことなく、私に向き合ってくれましたが……。それでも自分のやっていることは周囲の人々にとっては変なのだ。いけないことなのだ、というのは感じていたわけです。
だから私は隠さなければなりませんでした。時には追いすがる声を無視しなければなりませんでした。明日も消えそうな陽炎のごとき影から目をそらさなければなりませんでした。
そんな折にこの玉はやってきたのです。ちょうどそうですね、あなたがご実家を整理していたときに発見したように、私も祖父母の家で遊んでいるときに、この玉は馴染みの野良猫がひょいと路地裏から顔を出すように、私の前に突如転がりこんできたのです。
一目でわかりました。これは彼らと同じ類のものであると。慌てて私は周囲に誰もいないことを確認してから、服の下にそれを入れて持ち帰り、自室に戻ってからこっそり取り出したのです。
それからは、ええ。あなたと同じようなことが起こりました。
内側に渦巻くもやはたちまち動き出し、やがて見たことのない建物を形作りました。でも私にはそれが何であるかわかりました。きっとこの玉が教えてくれたのでしょう。
それは店でした。気ままに歩く猫のように、世界中を渡り歩く不思議な店。そんな店が手に入れば、きっと私も彼らもこの世界で息ができる。
「……それが、当時のあなたの夢だったんですか?」
店主は穏やかに首肯した。
「ええ。まあそんなおとぎ話のような店、持てるはずがないと当時の私ですら信じられませんでしたが、この玉は私が折れそうになるたび、諦めそうになるたび、励ましてくれました。きっと今歩んでいる道が夢につながって真っ直ぐ伸びていると、告げていました。
そして紆余曲折あって、今の店を持ったのですが、店を持った途端、姿を見せなくなりましてね。……ああ、もう私を見守る役目は終わったのだと思いましたよ。今度は私が世界から爪弾きにされた彼らの居場所となり、新しい出会いがあるまで見守る番だと。そう、この玉が私にしてくれたように」
店主は語っている間も玉を撫で続けていた。
「ここに再びやってきたということは、この玉を必要とする誰かを探しに行きたいということなのでしょうね。あなたにはもう必要なさそうですし」
いたずらっぽい目を向けられて男は顔に熱が集まるのを感じた。
たしかにその通りだ。今さら初恋の彼女とどうこうなるつもりはない。もう自分には相手がいるし、彼女もとっくに自分のことなど忘れているだろう。
ではなぜ忘れ去られた淡い記憶を引きずり出したのか。当時の中に重要な何かを置いてきたままだと警告しにきたのか。
「多分、からかっただけだと思いますよ。重大なことなら、もっとわかりやすく言ってくれるので」
男の思考を読んだように店主が付け加えた。引き始めた熱がぶり返す。
「そういうあなたはどうなんです? ご実家に帰りたいとかそんな願望もっているんじゃないんですか?」
「いやいや。単に最近郷愁にふけることがありましたから、当時の光景を思い出すのに力を貸してくれただけでしょう。でなければ、もっと長くとどまっているでしょう」
店主が玉を男の前に差し出した。いつの間にか家は解けて、再びただのもやに戻っている。思い返せば、自分のときも彼女の形をとったのは一瞬で、それ以外はずっとただ銀鼠色のもやが渦巻いているだけであった。
やはりからかわれていただけだったのか。
(つくづく人を振り回すモノたちだ)
いつも彼らはこちらの都合など考えず、傍若無人に振る舞う。店主は彼らが孤独で、哀れっぽく助けを求めると言っていたが、あれは演技に違いない。そうでなければ今までの経験に説明がつかない。
「では買い取りですが――」
店主は電卓をたたいて男に見せる。
男は大きく目を見開いて、電卓と店主の顔を何度も行き来した。
「え、は? いや、こんな額になるんですか? 人の願望を形作るだけのただのビー玉ですよ?」
予想より桁が一つ多い。ビー玉一つにこんな値段をつけるのならば酔狂にもほどがある。
「いえいえ、顔見知りのモノですし、久しぶりに良い記憶を持ってきてくださいましたからね。その感謝も含めれば適切な値段ですよ」
店主は男が口を挟む間もなく紙幣をその手に握らせた。
「次は誰かをお持ち帰りくださいね。袖にされてばかりだと、彼らも泣いてしまいますから」
一個の風鈴と鈴蘭のランプが脳裏に浮かび、苦いものが腹にたまる。
「……まあ、こちらの懐具合にもよりますが」
「ええ、またのお越しをお待ちしております」
店主は優雅に一礼した。
外に出ると冬の気配を含んだ風が肌をこする。先ほどまで季節感のない店にいたから忘れていたが、暦の上では春でも世間はまだ冬なのだ。
男は色の薄い青空を見上げ、ぽつりとつぶやいた。
「次くるときは一応考えておくかあ……」
鈴蘭のランプは無理でも、風鈴くらいなら許されるだろう。
店主の話を聞いてしまったからだろうか。どうにもあの寂しげな音色が耳から離れない。
また近いうちにこの店は自分の前に現れるのだろうな、と確かな予感を抱きつつ、男は家路を急いだ。