【小説】兵士怪談 第二夜
前作「兵士怪談第一夜」の続き。今回は別の新人と女中が奇妙な話をします。次で最後です。
「なんでまた見張り番になっているんだよ!? 二日連続で当たることってあるか?」
「わめいても仕方あるまい。私たちは自分の責務を全うするしかないだろう」
呆れながら老兵は暖炉の炭をかき混ぜた。
「でも全く代わり映えなんてないんですよ。おまけに野郎しかいないし」「なんだ、なにか不満でもあるのか」
ささくれだった雰囲気に感化されて老兵の語気も強くなる。まさに一触即発のそのときだった。
「あの、うるさいのでちょっと黙ってもらえません? アンタら見張りの番すらできないんですか」
振り返ると見覚えのない青年が立っていた。年齢からして新たに入ってきた新人だろうか。気の強そうな印象を受ける顔立ちだ。その目にはありありと軽蔑の色が浮かんでいた。
「おい、新人のくせになんて口きいてやがる」
「僕が何か間違ったこと言いましたか? 事実しか言ってませんが」
「なんだとてめえ……」
音を立てて立ち上がった先輩兵士を老兵は慌てて押さえた。
「まあ落ち着け。こんなことで喧嘩するなど馬鹿らしいだろう。お前もそんな煽るような言い方をするんじゃない」
「でもコイツが……」
「お前の気持ちも分かるが、言い争いしているときではないだろう。ここは年上らしい対応をしてやろうじゃないか」
老兵は口を開こうとする先輩兵士の肩を叩いた。対する生意気な新人はそっぽを向いて向かい側に腰掛ける。
「騒がしくしてすまなかったな。ただな、あのような言い方はないんじゃないか?」
「……すみませんね」
不承不承といった態度で新人も謝った。気まずい雰囲気が流れる。しばらくは三人とも黙ったままだった。
「ったく、昨日の新人たちのほうがよかったぜ。昨日の奴らは嫌味なんて言わねえし、暇つぶしの話題もくれたしよ」
先輩兵士が吐き捨てる。それに生意気な新人が眉を上げた。
「暇つぶしの話題?」
「ああ。怪談話をそれぞれ一つずつ語ってくれたぜ。ま、お前みたいな真面目ちゃんにはそんな面白い話持ってないだろうけどな」
先輩兵士が嘲笑うと新人のほうもにらみ返した。
「僕だってそのような話の一つや二つくらい持ってますけど?」
「ほお? そんなに言うなら語ってみろや」
「ええ、いいですよ。話してやりましょうとも」
「おい、お前たちいい加減にしろ」
老兵が止めようとするもすでに時遅し。売り言葉に買い言葉ですっかり怪談話をする流れになってしまった。
「つまんねえ話だったら、ただじゃおかねえからな」
ふんぞり返ってそんな言葉を吐く先輩兵士に老兵は嘆息した。
「昨日眠れないかもしれないと言っていたのは何処のどいつだ……」
「さて誰でしたっけ? そんなことより早く始めろよ」
新人は冷ややかな目つきで若い兵士を眺めていたが、一つため息をつくと口を開いた。
「はいはい、始めますよ。これは僕が少し前に体験した話ですが――」
机で考え事をしていた僕は、考えが煮詰まりましてね、気分転換に外に出ようと思ったんです。いつまでも暗い部屋の中にいたって、いい考えは浮かびませんし。
街中に出たところで僕はいつもの店に買いに行こうと思いつきました。その店は飲食店なんですが、そこの果肉入りの果汁飲料が絶品でして、驚くほど甘いんです。それでいて余計なしつこさは感じない。そこがとても好きだったんです。
疲れた頭には甘いものが効くってよく言うでしょう? 向かおうとしたそのときでした。
『ねえ、おにいちゃん。そっちに行くのはやめておいたほうがいいよ』
振り返ると見知らぬ少女が立っていました。白いワンピースに腰までありそうな長い髪、血の気がないと錯覚させるほどの白い肌。こう言っては悪いですが、少し人外じみた雰囲気すら感じさせる奇妙な少女でした。
まあ、僕は一度も見たことがない顔だったので、別の奴に話しかけたんだろうと再び歩き始めようとしたのですが
『そこのおにいちゃん、そっちに行くのはやめておいたほうがいいよ』
間近で幼い声が聞こえて僕は驚きました。数歩後ろにいたはずの彼女はいつの間にか僕の服の袖を掴んでこちらを見上げていたのです。
硝子玉のような瞳で見つめられて僕は気味が悪くなりました。
『誰だか知らないけど人違いじゃないの。僕は君なんて知らないし、君が僕を引き止める理由なんてないじゃないか』
しかし彼女は手を離すどころか引っ張る力を一層強くしたのです。
『おねがいだから、そっちに行くのはやめて。行ったらたいへんなことになっちゃう』
『じゃあ理由教えてくれる? 僕を納得させるだけの理由をさ』
『おねがい。そっちにはいっちゃだめ』
僕の質問には答えようとせず、ただただ首を振る少女に僕も腹が立ってきました。
『君ね、いい加減にしなよ。僕は暇じゃないんだ。遊びたいなら他の人を当たってくれない?』
僕の袖を掴む少女の指を振りほどき、僕はさっさと歩き出しました。
『おにいちゃん!』
悲鳴のような叫び声が後ろで上がりましたが、僕は知ったことではないと足早にその場を去りました。
「おい、幼気な少女になんてことしてんだよ。お前はそれでも男か?」
「じゃあ、訳の分からないことを繰り返す頭のおかしい少女に気が済むまで延々と付き合えと? アンタみたいな暇人ならいいかもしれないですけど、僕はあいにく戻ってやらなきゃいけないことが残っていたので。そこまで付き合えるほど暇じゃないですね」
「なんだと?」
先輩兵士の野次に新人が冷たい視線で返す。毒を含んだ言葉に若い兵士は荒々しく立ち上がった。
「おい、やめないか。すぐに喧嘩を始めようとするんじゃない」
「だけどコイツ、さっきから……」
「まだ話の途中だろう。ほら、座れ。お前もいちいち逆立てるようなことを言うんじゃない」
若い兵士は大きく舌打ちすると、渋々腰を下ろした。新人も謝りの言葉一つ口にしない。老兵は内心ため息をついた。
たしかに昨日のほうがよかったかもしれない。彼らならばここまで険悪な雰囲気にはならなかっただろうに。一度、新人教育を担当している者にこの新人の教育を見直すよう忠告してみるか。
「それで続きはどうなったんだ?」
老兵の言葉に新人は目をわずかに見開く。今度は特に口答えもせず、素直に話し始めた。
ああ、えっと続きですね。その後は何事もなく店までたどり着きました。例の少女のような変人に会うこともなく。
そしていつものように果汁飲料一つ頼んで僕は店を後にしました。歩きながら一口飲んで首をかしげました。舌にピリッとした刺激と妙な苦味が走ったのです。傷んだ果物でも使ったのだろうか。いや、この刺激は果物の傷みからくるものじゃない。それにこの感じどこかで――。
違和感を覚えながらも、今度行ったとき文句言ってやると愚痴りながら、歩き始めたそのときでした。視界が一瞬揺れたのです。周りを見渡しても他の人々の様子は特に変わりありません。
疲れが出てきたのかと思った瞬間、もう一度視界が揺れました。ぐらりと世界が回ります。今度は世界がおかしくなったのかと思いました。
思えばこのとき僕が倒れ込んだのでそう見えただけだと思うんですけど、なぜだかそのときは本気で世界のほうが回転したと思ったんです。
動悸がおかしくなり、呼吸が不規則なものに変わります。そこでようやく気がつきました。そうか、この症状は、たしかあの――
思い至ったところで既に手遅れでした。指先一つ動かすことすらできません。そのまま僕はなすすべもなく、視界が暗くなっていくのをぼんやりと見つめていました。
「お、おいその後どうなったんだよ」
「はあ、アンタは待つってことができないんですか」
心配する先輩兵士を彼は冷めた目つきで見た。先輩兵士の眦が吊り上がる。
「私も続きが気になるな。どうか続きを話してくれないか」
彼らが喧嘩に発展しないよう老兵は急いで先を促した。新人はため息をつくと口を開いた。
鈍い音で目が覚めました。知らず知らずのうちに寝落ちていたらしく、机に頭をぶつけたのです。
「なんだよ、結局夢でした、っていうオチかよ」
新人の目が鋭く光る。
「もちろん、それだけではないのだろう?」
老兵は新人が再び毒を吐く前に口を挟んだ。新人は頷く。
ええ、まだこの話には続きがあります。考えが煮詰まったし、頭も寝起きで上手く働かないので僕は気分転換に外に出ました。
そしていつもの店に行こうと思い至ったところでふと、夢の内容が頭をよぎったんです。
呼び止める少女は出てきませんでしたが、結局僕はその店にいくのをやめ、いつもと違う店で適当な甘いものを買って帰りました。
その次の日のことです。たまたまその店の前を通ったら、人だかりができていました。一体何があったのかと近くに人に尋ねると彼はこう答えました。
『ここの店主がな、昨日毒入りの果汁を売って、無差別に客を殺す事件があったんだ』
僕は呆然としました。今までその店主は特に危険な人物というわけではなく、いたって平々凡々な男だったんです。
「でもそんな事件聞いたことねえぞ」
先輩兵士が口を挟んだ。確かにそんな事件がここらで起こったならば、すぐさま広まるだろう。老兵も聞いたことがなかったので首をひねった。
「そりゃ、僕がいたのはここよりも都会の方でしたからね。人が集まれば、おかしな考えを持つ人だって必然的に多くなるでしょう。まあ、あの店主がなぜ急変したのかは僕も知りませんが」
「都会って恐ろしいな……」
先輩兵士が身震いする。老兵も内心同意した。
が、同時に引っかかったことがある。老兵は少し前に王都に行ったが、そのような話は聞いたことがなかったのだ。
ただ実際この新人が話したことがどれほど前の話なのかは分からないので、もしかしたら老兵が訪れた後に起こったのかもしれない。
それにしても隣国じゃあるまいし、随分物騒になったものだと老兵は思った。
「しかも調べてみたところ、使われた毒は夢で僕が体験した症状を示すものだったんです」
「本当にその少女のこと全然知らなかったのかね?」
老人の問いに彼は頷いた。
「ええ、全く面識がなかったんです。その後会うこともありませんでしたし、結局彼女はなんで僕の夢に現れたのか。ただの偶然か、それとも何か理由があったのか、今となっては確かめる術はありません」
眉間に皺をよせて彼は言った。
「やけに不満そうじゃねえか。そんなにその少女に助けられたのが嫌だったのかよ。お前にとっちゃ幸運の女神みたいな存在なのによ」
「いえ、この訳の分からなさが気持ち悪いというのもあるんですけど、一番は店主の毒の使い方についてです」
「毒の使い方?」
予想だにしない答えが返ってきて二人は訝しげに彼の顔を見た。
「ええ、まったく芸がない。あの毒は刺激が強いんです。それを無理やり甘さでごまかそうとするなんて。しかも隠しきれていませんでしたし」
新人は心底悔しそうに拳を握りしめる。
「せっかくいいものを使っているのだから、もっと良い方法があったでしょうに。少なくとも僕がやるならもっと別の方法使いますよ。あれじゃ使われた毒が可哀想です。あんなにいいこたちを、まったく……」
二人はぽかんと口を開けた。
「え、そこツッコむのかよ……」
「……人からずれているとよく指摘されることはないかね?」
「ありませんが?」
その目に冗談の色はない。いや、冗談であってほしかったが。
「あー何だか俺、お前のことそこまで怒る気なくなったかもしれねえわ」
先輩兵士が可哀想なものを見る目で彼を眺める。老兵も同じような視線を送ってしまった。
最初は鼻につく言動をしていたが、ここまで常人には考えられないような感性を持つ変人だったとは。理解の範疇を超えたものには怒りよりも戸惑いがきてしまうものなのかもしれない。
「なんか失礼なこと考えているのは僕の気のせいですかね」
「気のせいだ。気にするな」
半目でこちらを見つめる彼に苦笑いをこぼす。
「でも、これじゃまだ時間残っているじゃねえか。おい、新人なんかないのかよ。もっと怖い話とかないわけ?」
たしかにまだ交代までは時間が残っていた。
「はあ」
新人が呆れかえった目でため息をついたそのときだった。
トントン
絡もうとした手が目にもとまらぬ速さでひっこめられる。三人は一斉に扉へと顔を向けた。
トントン
再び扉が叩かれる。
「だ、誰だ?」
先輩兵士が恐る恐る問うた。老兵も腰の剣に手をかける。
この時間にくる者など普通はいないはずだ。もしや敵だろうか。いやそれとも――
取ってがゆっくりと動く。ギイイと扉が開いた。
「夜遅くにすみません。夜食をもってきたのですが、お邪魔でしたか?」
顔をだしたのは若い女中であった。一つにまとめた豊かな茶髪が流れる。
「いやいや、そんなことはないよ。さっ、むさくるしいところだけど、炎でもあたって暖まりなよ。寒かっただろう?」
先輩兵士は先程の怖がり様が噓のように笑顔で対応する。鼻の下を伸ばしている先輩兵士を新人が塵屑を見る目で眺めていた。
「残り物を適当に挟んだもので悪いのですが」
申し訳なさそうに差し出されたのは肉と野菜を挟んだパンというシンプルなものだった。
「いや、持ってきてくれるだけでありがたい。わざわざすまないな」
「そうそう、こんな美人さんが持ってきてくれるだけでたとえパン一切れだとしても祝祭のご馳走並みに感じられるんだから」
「ふふ、兵士さんったらお上手ですね」
ころころと女中は笑う。
「嬉しいこと言ってくれる兵士さんたちにはもう一つつけますね」
盆の上にのっていたのはパンだけでなくビンも二つあった。
「お、もしかしてそれは……」
先輩兵士の瞳が期待に輝く。
「ええ、夜は冷えますからね。ちょっと古いものですが」
微笑みながら木のマグに注いでいく。酒精を帯びた芳醇な葡萄の香りが広がった。
「お二方はどうします?」
微笑まれて老兵も頬を緩めた。
「私も同じやつを」
「水もあります?」
「ええ、ありますよ」
「なんだよ、ここはお前も同じものを頼むところだろうが」
先輩兵士がつまらなさそうに言った。それを新人は埃でも見るような目で見返す。
「僕が何を頼もうが僕の勝手でしょう」
「やっぱりお前って奴は……」
「はい、兵士さんたちどうぞ」
険しい顔つきになった先輩兵士の前に盆が差し出される。にこやかに微笑む女中を見て、先輩兵士はすぐさま表情をだらしなく緩めた。
「ああ、本当にありがとう。君みたいな美しい女性がわざわざ食事を運んでくれるなんて、俺は多分この砦で一番ついている男だよ」
そしてそのまま盆を女中の手から取り上げた。
「ずっと持っているんじゃ辛いだろう? 俺が配るよ」
「えっ、あの……」
空いた手が宙に浮く。困惑する女中に片目をつぶってみせて、若い兵士は二人に盆を差し出した。
「悪いな」
「……どうも」
硬い肉に萎れた野菜、もそもそしたパンを酸味の強い葡萄酒で流し込む。お世辞にも美味しいとは言えないが、それでも疲れた体には極上の味だった。
「ああ、女中さんありがとう。すっかり腹が満たされた」
「いえ、それならよかったです」
老兵が微笑むと彼女も微笑み返した。
「俺もそう思うぜ! 本当にありがとう!」
先輩兵士が顔を突っ込んでくる。あまりの勢いに二人は頬を引きつらせながら曖昧に笑い返した。
「夜遅いというのにご苦労様です」
新人も軽く頭を下げた。その言葉に女中はふわりと笑う。一層嬉しそうな笑みだった。
おやもしかして、と老兵は思わず微笑ましい眼差しを送った。しかし先輩兵士は気に食わなかったらしい。
「ところでお嬢さん、君はまだここにいるかい? もし時間があればここでおしゃべりでもどうかな? ずっとここに座っているのは退屈だからさ」
声を張り上げ、女中の注意を惹きつけた。
「ええ。時間はありますけど、おしゃべりと言っても何を話せばいいか……」
「何でもいいんだよ。君が好きなものとか好みの男の特徴とかさ。何だったら後日食事にでも」
「怪談を話していたんですよ。何かそういった奇妙な体験したことあります?」
静観していた新人が突然先輩兵士の言葉を遮った。先輩兵士は忌々しげに新人を睨んだが、彼は一瞥すらよこさない。女中は少しの間顎に手をあてて考えていたが、こくりと頷いた。
「それならば私も一個もっていますよ。じゃあお耳汚しになりますが一つ語らせてもらいましょうか」
「いや、別に怪談話じゃなくても……」
「まあいいじゃないか。お前も聞きたいだろう?」
老兵は彼の言葉を最後まで言わせなかった。老兵自身も女中の怪談話に興味があったのだ。別にこちらを舐めている節がある後輩の口説きを邪魔したいというわけではない。
肩を落とす若い兵士を尻目に女中は語り始めた。
「これは私があるところで働いていたときの話なんですけどね――」
『あら、あれがないわ』
後ろで同僚の声が上がって私は嫌な予感を覚えました。というのもこの後に続く言葉が大体予想できてしまったからです。
『ねえ、悪いんだけどさ、倉庫にちょっと取りに行ってほしいものがあるんだけどぉ』
わざとらしい猫なで声が私を呼びました。
『あっ、私急用があるから』
『そんなこと言わないでよ。今度、あなたの仕事私が代わりにやっとくから』
すり抜けようとした腕をがっしりと掴み、彼女はすり寄ってきました。
『ねっ、お願い。友達でしょ?』
私は困ったときだけ友を名のる人を友とは思ったことないのですが、あなたとは友達の定義が異なるのでしょうかね。それに仕事を肩代わりしてくれたことなんて一度もないくせにと私は心の中で吐き捨てました。
あからさまに顔をしかめても彼女は気にする素振りすら見せません。
『倉庫から箱一つとってくるだけだから。じゃ、お願いね!』
『え、ちょっと!』
返事も聞かず、彼女は出ていってしまいました。
「な、なんかすごい同僚だね……」
先輩兵士が顔を引きつらせる。老兵も女の争いを垣間見て乾いた笑いを返すことしか出来なかった。
「あまり無理なことを押しつけられるようであれば上に相談したらどうです?」
新人は意外にも女中の同僚に対して憤っているようだった。細められた若葉色が強く光る。
「いえ、大丈夫です。もう解決しましたから」
彼女はにこりと微笑んだ。美しい笑みだったが、どこか薄ら寒さを感じさせる笑みだった。
「ならいいですけど」
新人はしかめっ面だが、どこか安心したような顔で座り直す。
いやそれでいいのか? と老兵は思ったが、口には出さず彼女にそっと先を促した。
ああ、すみません。話の続きなのですけど、その日はもう日が沈み、外は真っ暗だったんです。
おまけにその倉庫は少し離れたところに立っていて昼間ですら薄暗いところでして。夜はおろか昼間ですら寄りつく人はほぼいません。
ですが、押しつけられてしまった以上、私がやらなければ明日に響きます。私は渋々明かりを取ると外に出ました。外はいつも以上に静まり返っていて手元の明かりが心もとなく揺れるだけです。
さっさと終わらせてしまおうと私は足早に進みました。古びた扉を開けると外よりも濃い黒が出迎えました。
『えっと、これかしら。まったくなんでこれだけ忘れるのよ』
愚痴をこぼしながら木箱を小脇に抱えて私は帰ろうとしたそのときでした。
突然炎がかき消えたのです。辺りは完全な闇に覆われました。
「ひっ」
想像してしまったのか、先輩兵士が震えあがる。他二人も固唾をのんだ。彼女は真剣な顔で続ける。
思わず悲鳴を上げてしまいましたが、ひとりぼっちの空間に虚しく響き渡るだけでした。誰もきてくれるはずがありません。元々昼間ですら人が寄りつかない場所なのですから。
嘆いていてもしょうがないので手探りで出口を目指すことにしました。幸い真っ直ぐ進めば出口にたどり着くのです。物にぶつからないよう注意しながらゆっくりと歩を進めました。
もうすぐ扉までたどり着く、そのとき私はある異変に気がつきました。
壁に立てかけられた松明の周りを一匹の蛾が飛び回る。その下に潜む狩人に気づかぬまま。毛むくじゃらの狩人はただ罠に獲物がかかるのを待っていた。
女中がそれに一瞥をよこす。新人も次いで目をやった。しかし他二人はそれに背を向けていたため、気がつかない。
ズズ、ズズと何かを引きずるような音が微かに聞こえるんです。そしてそれは徐々に、徐々にこちらに近づいてきていました。
もちろん暗闇なので、何も見えません。それでも何かが確実に奥からやってくる、私にはそう感じました。そしてそれに出会ってしまえばいけないと直感的に思ったんです。
私はなるべく早く足を動かしました。早く、早く扉についてと祈り、もたつきながら進み続けました。やがて伸ばした手が冷たい金属に触れました。このときほど安堵したことはなかったでしょう。
やっと出られる、外に出れば人を呼ぶこともこれから逃げおおせることもできるはずだと希望が沸き上がりました。
女中はそこで一度大きく息を吸い込んだ。暖炉の火が彼女の顔に濃い影をつくる。
ですが、扉は開きませんでした。
『なんで!? どうして開かないの!?』
押しても引いても扉は動きません。取ってを力任せに動かしても、ガチャガチャと耳障りな音を立てるだけです。
『お願い、開いて! 誰か、誰かいませんか!』
声の限り叫んでも人の気配はおろか虫の音一つ聞こえません。聞こえるのは重い袋を引きずるような音だけ。それは真っ直ぐこちらに近づいてきます。ズズ、ズズとゆっくりと、真綿で首を締めるようにゆっくりと私を追い詰めるのです。
私は何度も扉を叩き、体当たりまでしてみましたが、やはり扉は開きません。音はついに目と鼻の先まできました。いつの間にか、鳥肌が立つほどひんやりとした空気が降りています。相変わらず姿は見えません。
でも息づかいまで感じるんです。確実にその何かは私の真後ろに立っていました。
その何かが私の肩を掴みました。恐らく手だったと思います。氷のように冷たい手でした。到底生きている温度ではありません。
それは恐ろしい強さで私を振り向かせました。何かが私の耳元に近づきます。
『――』
私はそれを突き飛ばして、思いっきり扉に体当たりしました。木が大きく軋む音がした瞬間、扉が歪みながら開きました。
ですが、私はそれに見向きもせず、走りました。一度も振り向くことなく。
「そ、それでどうなったんだい?」
恐る恐る先輩兵士が尋ねた。
「翌朝になってから上司に事情を話してついてきてもらったんです。倉庫の扉は壊れ、頼まれた木箱は入口のところに転がっていましたが、その他には何もなかったんです」
「じゃあ、結局何だったのか分からずじまいだったのかね?」
老兵の言葉に女中は首を振った。
「いえ、上司は私の話を信じてくれて、その倉庫をよく調べてくれたんです。そうしたら――」
「そうしたら?」
先輩兵士が唾を飲み込んだ。
「倉庫の壁の一角に地下へと続く道が土で埋められていたそうです」
「そこに何かいたんですか?」
新人が聞くと女中は頷いた。
「……死体が、半分白骨化した死体が一つあったんです」
「ではその死体のせいだというのかね?」
「どうでしょう? ただ」
女中はぽつりとこぼした。
「私の肩に残った手のような痣とあのとき囁かれた言葉だけは耳にこびりついているんです」
「寒い、寒いっていう低い男の声が」
しばらく誰も言葉を発せなかった。火のそばだというのに真冬のような空気だった。
「あの、それって本当に前の職場の話なんだよね? ここの話とかではないよね?」
言葉を震わせながら先輩兵士が尋ねる。女中は意味ありげに微笑んだ。
「さあ、どうでしょう?」
「じょ、冗談だよね?」
先輩兵士はすっかり縮こまってしまった。彼女は笑みを浮かべるだけだ。
「ところで痣は大丈夫だったんですか?」
次に口を開いたのは新人だった。その目に気遣う色を認めて老兵は目を見張った。
この生意気な新人が気を回しているなんて意外な一面もあるものだ。もしかして女性には優しくするという主義なのだろうか。
「ええ、数日で治りましたよ」
女中は顔をほころばせた。部屋に温かさが戻ってくる。
「そうでしたか。でもそれあの人は他の人に話してないんでしょうかね。僕、聞いたことないんですけど」
「まあ、あの人のことですから報告するほどのものではないと判断したのでしょうね。あの方には耳にいれておいたかもしれませんけど」
「ったくあの人は……」
新人は舌打ちをした。呆れと苛立ちと、そして仄かな親しみが一瞬よぎる。
「君たちは前々からの知り合いだったのかね?」
二人が老兵のほうを向いた。
「ええ。前の職場で一緒だったもので」
「そうなんですよ」
新人は仏頂面で、女中はにこやかに答えた。
「そうならそうと言えよ! 全く気が利かない奴だな」
先輩兵士が文句を言うと絶対零度の視線が返ってくる。
「なんでアンタに教える義理があるんです?」
「ああ? てめえな……」
「お前たちいい加減にしろ。特に新入り、お前はいちいち相手の気を逆立てるようなことを言うんじゃない」
またもや不穏な空気に陥りかけ、老兵は新人を注意する羽目になった。
「そうだぜ。お前、癪に障るんだよ」
老兵は深々とため息をついた。
「お前もだ。大体こういうときは察してやれ」
「違います! そんな関係じゃありません!」
温かい視線を送ると、彼女は言葉尻を奪うように叫ぶ。握りしめた服の裾が大きく皺を作った。
「おや違ったのかね?」
「違うと言っているじゃないですか!」
「あの、何をそんなに言い合いしているんです?」
怪訝な顔で新人が尋ねる。思わず老兵は呆けてしまった。
「お前、それ本気で言っているのか?」
「ええ。ちょっとあなたが言いたい意味がわかりかねます」
その瞳には困惑の色以外見えない。老兵は軽く女中の肩を軽く叩いた。
「まあ、なんだ。お嬢さん頑張りなさい」
「だから、ああ、もう!」
彼女の頬は火にあたっていても分かるほど真っ赤に染まっていた。
「もうそんな奴放って俺と一緒に」
「そういえば、随分ここにいますが大丈夫ですか? そろそろ交代の時間だと思いますけど」
先輩兵士の言葉を途中で新人が遮る。
「あっ、そうですね。他の兵士さん分は持っていませんから、私はお暇しますね」
手早く瓶やマグを片付けると女中は立ち上がった。
「では皆さんどうかこのことは内密に」
唇に手を当てて彼女は片目をつぶる。
「あ、ああ、うん。ありがとう」
「ああ。ありがとう。気をつけてな」
「お気をつけて」
「皆さんもあと少しお勤め頑張ってください」
彼女は笑みを浮かべて軽く頭を下げると出ていった。扉が閉まると、先輩兵士が新人に詰め寄った。
「てめえ、さっきから邪魔ばかりしやがって」
「僕はただ時間大丈夫ですかと尋ねただけですが何か?」
「おい、お前たち……」
止めようとした老兵の手を振り払い、先輩兵士はついにつかみかかった。
「もう我慢ならねえ。てめえは一回痛い目みてちっとは自分の態度を反省しろや」
新人はそれを冷え切った目で見つめ返す。さらに苛立った先輩兵士は腕を振り上げた。
「おい、交代の時間だぞー。ってお前ら何やっているんだ」
丁度よい時機に次の兵士たちが入ってきた。二人は気まずそうに距離をとる。
「いやなんでもない。後は頼んでもいいか」
「もちろんですよ」
鷹揚に頷いて数人の兵士たちは暖炉の前に座った。
「さ、お前たちもう務めは果たしたのだからさっさと寝ようじゃないか」
二人の背中を押して部屋の外に出る。
「……痛い目なんて、生ぬるい世界で生きているアンタよりよっぽどみていますよ」
「ん? 何か言ったか?」
「いえ何も」
部屋を出る際、新人がぼそりと何かを呟いたが、老兵は聞き逃してしまった。新人は振り返ることもせず、さっさと出ていってしまう。
「まったく散々な夜だったぜ」
ぶつぶつ愚痴を言う若い兵士に苦笑いをこぼして、老兵たちも部屋を後にした。