【小説】ある天狗の昔話 下
天狗の里に攫われてきた少年、庄吉とひょんなことから交流をもつようになった烏天狗の猿彦は、いつしか少年との会話を心待ちにするようになった。しかし穏やかな日常の崩壊の足音は近づいてきていて――
以前書いた「のけものけもの」に出てくる天狗、猿じいこと猿彦の昔話。
下記の話の続きです。これで番外編も終わりとなります。長くお付き合いくださり、ありがとうございました。
「……もうこんな時間か。わしはもう行く」
「猿彦、もういくんか?」
庄吉は引き留めるように猿彦を見つめた。最近はこのような目をすることが多くなった。思い当たる理由はあったが、下手につついて薄氷の平穏を破る勇気はなかった。
「ああ。わしにも仕事があるゆえな」
膝を払って猿彦は立ち上がった。玄関で別れの挨拶をすれば、本日の茶話会は終了だ。
草鞋を履いて扉に手をかけたとき、高い声が猿彦を呼び止めた。
「ちっと待ってくれ」
きっと振り返ってはいけなかった。振り返ればこの日常が壊れる。わかっていて、猿彦は見捨てられなかった。
猿彦はゆっくりと振り返った。少年のすがるような目と合った。
「頼む、猿彦。うちに帰らせてくれ。おっとうとおっかあに会わせてくれ」
丸い瞳が歪んで、雫がぽろぽろと落ちた。
予想できた展開だった。常は明るく振る舞っている庄吉も、時が経つにつれてふとした瞬間に影が落ちることが増えた。いつ切れてもおかしくない糸が、たまたま今日切れただけのことだった。
「すまぬ。わしにはお前の行く末決める権力は持っておらぬゆえ……」
「いやだ! おらがなにしたっていうんだ!」
猿彦の言葉を遮るように庄吉は叫んだ。血が滲む感情の吐露がいかなる言い訳をも拒絶した。
庄吉の主張は正当だ。容姿を気に入られた、それだけの理由で見知らぬ場所に攫われ、好き勝手されればたまったものではないだろう。少年に罪はない。ただ他の人間より少しばかり不幸であっただけだ。
「おねがいだ。おら、ちゃんと言うこときくから、もう畑仕事がいやだなんていわねえからどうか、おねがいだ」
鈴懸の袖をつかんで庄吉は懇願した。こちらが頷かなければ何が何でも離さないと、強い意思を感じる手だった。
何が琴線に触れたのか、庄吉はひどく長の息子に気に入られたようで、他の子どもらが村に返された後も、未だ里に留め置かれたままだった。いつになったら返されるのか見当もつかない。
だがこの願いを承諾してしまえば、猿彦は全てを失うことになる。仮にも長の息子のお気に入りだ。それに彼の手を引いて逃げたところで、彼の村まで無事にたどり着ける保証もない。猿彦がいくら妖術に秀でていようが、いち烏天狗ではたかが知れている。すぐに追いつかれて八つ裂きにされるのが関の山だ。しかしこのまま里に置いておけば庄吉の心がもつまい。
友をとるべきか、安寧をとるべきか。
猿彦はきつく目を閉じた。
瞼の裏にかつてこの里に連れてこられた子どもたちの顔がよみがえった。
今まで彼らがどんな運命をたどるか知っていて、見て見ぬふりをしてきた。この身はとうに罪でまみれている。ならば最後くらい仏道を修めた者として善行をしよう。それが猿彦にできる贖罪であり、この小さな友に返せる唯一の礼だった。
「……わかった。お前を元居た場所に返そう」
「本当だか! ありがとう猿彦! おら、もう帰れねえかとおもって……」
「ただし出るのは今日の夕刻、日が落ちる直前だ。わかったな」
庄吉は何度も頷いた。猿彦は踵を返し、今度こそ家を後にした。
幸いにも今日は長の息子が出かけている。帰ってくるのは早くても月が天辺に昇る頃だ。
長の息子が執心しているだけあって猿彦以外この家に近づく天狗は滅多にいない。露見するのは明日以降になるはず。一晩あれば十分庄吉の村に着けるだろう。一度親元に返してしまえば、人間たちも警戒するだろうし、何よりこの里では一度返した人間を再び連れ去るのは見苦しいと嫌悪される。彼は気位が高いから、まず取り戻そうとはしないはずだ。
もしも運悪く同胞に出くわしてしまったり、予想よりも早く発覚してしまった場合、戦うのは得策ではない。長引くほど不利になるのはこちらだ。よって最悪の事態に陥ったとき、自分が打つべき手は逃げの一手のみ。
(肉か柿は手元にあっただろうか)
良き隣人たちとの交渉に必要なものを思い浮かべながら、猿彦は足早に自宅に向かった。
血のように赤い夕陽が里を染め上げている。周囲の目を避けながら、猿彦は例の家に滑りこんだ。
「猿彦! 待ってただ!」
今にも飛び出しそうな庄吉を制し、猿彦は懐から藁人形を取り出した。
「まあ待て。まずはお前が抜け出したことがわからぬよう細工をしなくては」
庄吉の髪を一本引き抜いて、人形にいれ、印を結ぶと人形は庄吉そっくりの子どもへと変わった。
「へえ、猿彦、こんなこともできたんか!」
「感動しているところ悪いが、時間がない。いいか、この蓑をかぶったら村に着くまでひと言も喋ってはならん。約束できるな」
こくりと頷いた庄吉を抱きかかえ、猿彦は蓑をかぶせた。小さな体は途端に周囲の景色に溶けこんで、腕の重みがなければ猿彦ですらそこに子どもがいることはわからないだろう。
妖が活発になる逢魔が時。皆、山に出かけていって獲物が出歩いていないか探しにいくか、あるいは夕飯の支度などで忙しく動き回っている。猿彦が一人、ふらりと消えたところで気に留める者は誰もいなかった。
夜の森を駆けて、一直線に庄吉の集落を目指す。寝静まった森は不気味で、猿彦が木の枝を蹴る音がやけに大きく響いた。
天狗が山を駆け回ることなどさして珍しくもないから、山の小妖怪たちは必死の形相で駆けていく猿彦をちらっと見やったが、すぐに興味を失ったように視線を外した。
猿彦も向けられる視線に意識を割く余裕はない。そうしてどのくらい走っただろうか。
頭上を覆っていた緑の覆いが薄くなって、月光が青白い斑のように点々と地に落ちている。目的地は目と鼻の先だ。疲労で動かなくなってきた足に力をこめ、地を蹴ろうとしたそのときだった。
「何やらずいぶん急いているようだのう、猿彦」
目の前に現れたのは一人の天狗だった。それもいま最も会いたくない人物の。
「次期里長どの……」
「おう、儂を嘲るような冷めた目で見やるくせに今日ばかりはえらく畏まった言葉遣いじゃのう。え? 猿彦よ」
月を背に立つ長の息子の笑みは氷よりも冷たかった。その目は不自然に固まった腕を見ている。腕の中で小さく息をのむ音がした。
「のう、何か儂に言うことはないか?」
背筋に冷たい汗が流れた。
ばれている。たまたま出会ってしまったのが運の尽きだったのだ。
ここで庄吉を引き渡せば、命ばかりは助けてくれるかもしれない。だがその代わり約束は果たせなくなる。
(元よりあの里でわしは影法師だった)
ただそこに在るだけ。どこにも混ざれず、一人ぽつんと佇む地面の染みだった。そんな無為に呼吸していただけの生き物が、初めて自分の意思で立った。初めて天にも恥じない行いをしようと決心した。
ならば答えは決まっている。
猿彦は真っ直ぐ長の息子を見つめ返した。
「……いいえ。何も」
「ほう?」
片眉を上げた長の息子が次のひと言を口にするより前に、猿彦は声を張り上げた。
「烏たちよ!」
瞬間、一斉にカラスたちが飛びたった。咄嗟に腕で顔を覆ったその隙を逃さず、猿彦は印を結んだ。一瞬で猿彦はカラスとなり、子ガラスにした庄吉を背負ってカラスの群れに紛れこんだ。
カラスは猿彦の友である。昼間のうちに猪肉をやる代わりにもしものことがあれば協力してもらうよう頼みこんでいた。
黒の大群が通り過ぎた後に残ったのは置き去りにされた隠れ蓑一つのみ。
「おのれ、烏天狗の分際で!」
赤い顔をさらに赤く染めて怒鳴る天狗の声が夜の森に響きわたった。
夜の村は静かだった。月明かりが裸の田んぼを照らしている。
「ここがお前の村であっているか?」
「う、うん。それにしても怖かったぁ。おら、もう終わりかと思った」
恐怖が再びぶり返したのか、庄吉はぶるりと体を震わせた。
「ところでお前の家はどこにある」
「あ、そうだった。こっちだ」
庄吉は意気揚々と駆けだした。
案内された先にあったのは一軒の藁葺き屋根の家だった。戸や壁にはあちらこちらに小さな隙間や穴があって、隙間風が入り放題の、粗末な家だ。
「とうちゃん、かあちゃん、おらだ。庄吉だ」
庄吉が木戸を叩くと中の気配が動いた。しかしなかなか戸は開かない。猿彦には中の者の困惑が手に取るように伝わってきた。
当たり前だろう。真夜中に神隠しにあった我が子の声がしたら、妖が我が子の真似をしてやってきたと思うに違いない。
それでも庄吉が叩き続けているうちにようやく戸が開いた。
顔を出したのは草刈り鎌を握りしめた一人の男だった。薄汚れた麻の服を着、無精ひげを生やしている。その目の下に黒い隈ができていたのは、真夜中に叩き起こされたせいだけではあるまい。
警戒心を剝き出していた男は、庄吉の姿を認めるや否や固まった。手から滑り落ちた鎌の音が大きく響いた。
「お、お前まさか庄吉か。嘘じゃないだな。本物の庄吉だな」
「そうだよ。とうちゃん! おらだよ。庄吉だよ」
庄吉は男の腕の中に飛びこんだ。震える手が庄吉の背に回った。どちらともなくわっと泣き出す。猿彦はそれを黙って見守った。
散々泣いて落ち着きを取り戻した庄吉が、背後に立つ猿彦の存在を思い出したらしい。笑顔で庄吉は猿彦を指さした。
「それでな、こっちがおらを送ってくれた天狗の猿彦で――」
はっと顔を上げた男と目が合う。瞬間、男の目に憎悪の炎が燃え上がった。
「よくも、よくもおらの息子をかどわかしやがったな、この化け物め!」
男が鎌を掴んで振りかぶる。避けること自体は容易だったが、心は鎌で切り裂かれたかのように何かが破れる音がした。
「ま、まってくれとうちゃん。猿彦は……」
「あんたはこの化け物に騙されているんだよ。はやくこっちにおいで」
家から出てきた女が男の腰にしがみつく庄吉を引きはがして背に隠した。
わかっていたはずだ。人間が自分を見ればどのような反応をするかなど。
猿彦は唇を引き結び、翼を広げた。
「さらばだ庄吉。次は天狗なんぞに捕まるのではないぞ」
「待って、待って猿彦!」
悲痛な声が投げられたが、猿彦は一度も振り返ることなく、夜空を駆けた。
体の節々が悲鳴を上げ、視界が滲む。目から熱いものが落ちたのはきっと痛みのせいに違いない。
仮にも長の息子のお気に入りを勝手に里から元居た場所に返したのだ。里に猿彦の居場所はない。かと言って余所の天狗が猿彦を受け入れるはずもない。
猿彦はあてもなく彷徨い歩いた。あれほど怖じ気づいていた外の世界も一歩出てみれば案外あっけないもので、身の危険を感じたことは数えるほどしかなかった。
人に変化して、市井に紛れて暮らしたこともある。人の世はたしかに刺激に満ちあふれていた。だが疎外感は影のようについて回った。
彼らが受け入れてくれたのは同族だと思っているからだ。ひとたび正体を明かせば、庄吉の両親のように嫌悪を浮かべて追い払いにかかるだろう。実際、人に近づきすぎて己の正体を見破られた者はことごとく悲惨な終わりを迎えた。
やはり人間と自分たちは分かり合うことなどできない。
静かな諦観が根雪のように固まっていくのは当然の流れであった。
姿を変え、土地を変え、何十年と根無し草の日々を送っているうちにいつの間にか黒い髪は白く染まり、顔は皺がいたるところに刻まれるようになったが、猿彦は気ににもとめなかった。年ごろの乙女でもあるまいし、今さら容姿を気にする必要もなかった。
ある日、猿彦は尾曾山という山を訪れた。多くの川が汚され、腐臭を放つようになった今どき、そのまま飲めるほど澄んだ川だと聞いて興味がわいたからだ。カラスたち曰く、昔からカワウソが住む山らしいが、ここ最近はカワウソたちも人間に狩られて随分と数を減らしたという。
カラスたちの言う通り、底まではっきりと見えるほど透き通った水がさらさらと流れているが、カワウソらしき影は一つも見当たらない。清流に足をつけるとひんやりとした水が肌を撫でて心地よかった。
「ええい、誰の許しを得てこの水瀬川に足をつけているのだ、そこな天狗!」
はっと声の方向を見ると、対岸に一匹のカワウソが立っていた。牙をむき出して吠えているが、小柄な体のせいか、はたまた幼さが滲み出ているせいか、子犬が吠えているようにしか見えなかった。
「……獺か。驚いた。まだ生き残りがいたとはな」
無意識のうちに呟いた言葉にたちまち丸い瞳が怒りでつりあがる。
「なんじゃ、儂がいちゃいかんのか! 天狗といえど、言っていいことと悪いことがあろう!」
カワウソはきゃんきゃんと叫ぶ。しかし猿彦が錫杖を手にすると、途端にうろたえ始めた。
「な、なんじゃ。お前はこんなか弱い獣を苛めるつもりか。酷い奴じゃ。もしもその棒で儂を殴ろうものなら、お天道様からばちが当たるぞ。いいのか」
「お前をぶつつもりはないから安心しろ。久しぶりにこのような綺麗な川に出会えたものだから、ひと休みさせてもらっていただけだ。気分を害したなら悪かったのう」
懐から濡れた手巾を取り出し、足を拭くと草鞋に足を通した。人の気配はあるが、大地の精が強く、住み心地の良い山であったが、住民が難色を示すのならば仕方がない。背を向けたそのとき、慌てふためいた声が飛んできた。
「ま、待て!」
「どうした。もうわしはこの場を立ち去る。安心して魚とりでも水浴びでも何でもするがいい」
「そ、そんなこと言うな。儂は寛大だからな。天狗の一人くらい広い心で許してやろう」
ばしゃばしゃと水音が立ち、彼が駆け寄ってくるのがわかる。そのまま足を踏み出そうとすると、カワウソは足元にすがりついた。
「な、なあ、本当に行ってしまうのか? まだ一刻も経ってないではないか」
潤んだ瞳で見上げられ、ふとかつて仲の良かった人の子の面影が重なった。猿彦は小さく息をついた。
「そうだな。美しい川だ。ここまで澱みのない川はそうあるまい。主の許可もおりたようだし、一刻ほど休ませてもらおう」
「そうだろう、そうだろう。礼は儂を満足させるような話でいいぞ」
カワウソは満足気に頷いた。そのころころと移り変わる表情は、ささやかながら満ち足りていた過去を呼びさまし、針で刺されたような痛みが胸を襲う。猿彦はかぶりを振って、気をぬけば顔を出そうとする思い出を振り払った。
カワウソは権次郎と名のった。同族を狩った人間のことが嫌いで、いつか一泡ふかせてやるのだと胸を張っていた。が、少し話を交わしただけで、彼が小心者で、変化一つさえできない未熟者であることは言葉の端々から伝わってきた。
「……言っておくが、お前の復讐に手を貸す気はないぞ。わしはどちらかというと人間寄りだ」
いくら苦い思い出があろうと、人間を完全に嫌いになることはできなかった。妖と人が相容れぬともわざわざ人間を排すようなことはしたくなかった。
権次郎は鼻を鳴らした。
「ふん、馬鹿にするなよ猿じい。これは儂の戦いよ。むしろ他人に首を突っこまれては儂の名誉に傷がつくわ。お前はお前で勝手に人間を愛すがいい。儂は人間が報いを受けてほしいと思っているが、そこはお前の勝手よ」
「そこは気にならないのか……。ちょっと待て。猿じいとはなんだ」
片眉を上げて権次郎は猿彦を見た。ビー玉のような目に眉をひそめた自分が映っている。
「猿彦だから猿じいでいいだろう。ちょうど白髪で翁のような恰好だしな」
「なんだそれは」
至極当然といった顔で妙なあだ名をつけられて猿彦は呆れ返った。しかし悪気は感じられないので叱りつけるのも大人げない。嘆息を落とし、猿彦は空を見上げた。雲がのんびりと流れている、平和で退屈な昼下がりだ。
そもそもなぜ自分はカワウソと共に川に足をつけて雑談に興じているのだろう。それも自分と正反対の思想をもつ者と。
猿彦はちらと傍らの獣に目を落とした。
「さて長居したな。もう一刻も経っただろう。そろそろ行かなくては。今夜の宿が野ざらしの河川敷では困るゆえ」
「な、もう行くのか?」
権次郎がぎょっと目をむいて腕にしがみつく。猿彦は眉根を寄せた。
「先ほどからなぜわしを必死に引き留めようとする。種族も理念も違う相手といるなど疲れるであろう」
権次郎は口をつぐんだ。しばらくの間、二人の間には風が流れる以外音はなかった。
「……儂は落ちこぼれでな」
「まあ、それは」
猿彦は口ごもった。だが口に出さずとも察しがついたのだろう。権次郎が鋭い眼光を送ってきたが、すぐに俯いて見えなくなった。
「よく仲間らに馬鹿にされていたものよ。いつか、奴らを見返してやろうと思って練習に励んだが一向に上達せん。そんな儂を見て、奴らはますます嘲笑い、揶揄した。惨めで枕を涙でぬらさなかった日はなかったほどよ。
ある日、儂をしつこく馬鹿にしていた奴が人間に捕まった。仲間たちは大層嘆いたし、当然儂も悲しんだ」
権次郎は短い後ろ足で水面を叩いた。川に映る獣の影はあっという間に崩れて消えた。
「……実はな、心の中ではほんの少しだぞ? 毛の先ほどだぞ? 毛一本ほどだが、ざまあみろと思ったのだ。儂を馬鹿にした報いだとな。だがそれも最初のうちだけだった。どんどん仲間は減っていって今やこの川にいるのは儂のみよ。昔はそれこそ昼も夜も獺の声が絶えない川だったというのに」
小さな手が鈴懸の端を掴む。丸い瞳はいっそひたむきなほど真剣に自分を見つめていた。
「ひとりは寂しいんじゃ。なあ、ひとりぼっちになりたくないゆえに、他種族であるお前にとどまってほしいと願う儂はおかしいか?」
それは猿彦にも覚えのあるものだった。むしろ人生の大半はその孤独と同居していたに等しい。満たされていたのは人の子と交流した僅かなひと時だけである。
冬の夕暮れに落ちる影のような日々がふいに脳裏をよぎった。
「……わしは故郷に帰れぬ身だ。定住の地もない。ゆえにどこにでも行くことができる。そのような生き方を長く続けてきた」
頬を張られたかのように権次郎が目を見張る。猿彦は微笑みを浮かべた。
「だがわしも年をとった。もうそろそろ旅続きの暮らしは厳しいと思っていたところだ。もしお前が良ければここを家にして良いかのう」
「ほ、本当か! ……じゃない。ごほん。いいだろう。儂は山より高く海より深い心の持ち主であるからな」
ぱっと浮かんだ喜色を誤魔化すように咳払いするも、口元の緩みを隠しきれていない。
うららかな日差しが二人を照らす。その温かさに猿彦は目を細めた。
山に結界を張り、尾曾山の主として暮らすようになってからずいぶん経った。変わり者の一匹天狗は周囲に知られるようになり、いつしか同じ孤独を抱えた者たちが訪ねてくるようになった。
「そこで猿じいがな、どうかこの尾曾山にいさせてくれないかと地面に額をこすりつけて頼みこんできたのだ。まあ儂は寛大だからな。そうか、そうかそこまで言うのならこの尾曾山に住む許可を与えようと言って、孤独な天狗を拾ってやったわけだ」
「馬鹿言うんじゃないよ。あんたみたいなチビがどうやって天狗を拾うってのさ」
「拾われたの間違いじゃないのかい」
「なんだと! イタチとカラスの分際で!」
権次郎が唾を飛ばして怒鳴るも、イタチたちは鼻で笑うだけだ。イタチの名を椎菜、カラスの名をヤタという。椎菜は鎌鼬だが、人間に弟たちを捕獲されたため、いつも一匹でいる。それに寄り添うのはここを訪ねてくる前から知り合いだった古烏のヤタだ。
ヤタに連れられてやってきた椎菜と初めて対面したときは危うい獣だと思った。何かの拍子にふつりと切れてしまいそうな張り詰めた緊張感が常にあった。事実、ヤタがいなければ、彼女は冬の白さに身を投げ出していたことだろう。
それが今や権次郎とじゃれ合うようにまでなったのだから、よく持ち直したものだ。
「ほんと元気だよねえ。よく昼間から喧嘩する元気があるもんだ」
「でもなんだかんだ言って仲良さそうでよかったじゃないか」
「それ、あの三人に聞かれたらタヌキ鍋にされると思うよ」
「えっ、やめておくれよ。僕、おいしくないからね!?」
それを少し離れたところで見守っているのは化けダヌキの大三郎と猫又のミケだ。変化の術を学びに弟子入りしにきた大三郎の話を聞いてミケも時おり顔を出すようになった。最近のお気に入りは椎菜をからかうことで、絡まれた椎菜が鬱陶しそうに振り払っているのをよく見かける。
権次郎一匹だけでも賑やかだったが、さらに四匹も増えて、最近は輪をかけてにぎやかになっていた。
(同族には好かれなかったが、獣とは波長が合うのかもしれんな)
自分も彼らと同じ種族だったのならばあの孤立感を抱えずにすんだのだろうか。そんなくだらない空想を思い浮かべていると、権次郎が振り返って叫んだ。
「ええい、猿じいも見ていないで儂の擁護をせんか!」
「そうだのう。ひとりにしないでくれと縋ってきたのは権次郎のほうだったな」
「ほら見な。拾われたのはあんたのほうじゃないか」
「おい猿じい!」
キイキイ鳴いて地団駄を踏む友の姿に、猿彦は小さく噴き出した。
なんだかんだ彼のおかげで騒がしくも温かな日常を得られている。もっとも口に出すと調子に乗るので思うだけにとどめているが。
こんな日々も悪くはない、と猿彦は目を細めた。
そんなある日、椎菜たちが人間の少女を連れてきた。ヤタの説明によると、少女の境遇は目も当てられないほど酷いもので到底親元に返すわけにはいかなかった。
額に触れたときこそびくりと体をこわばらせたものの、少女の目には光がなく、ぼんやりと猿彦を見上げているだけだ。
「そうさな、まだ断言はできぬからヤタには協力してもらうが、まあそこまで労をかけずとも良さそうだ。ミケのところにでも身を寄せればいいんじゃないか?」
本当は人間に任せたほうがいいのはわかっていた。妖怪に一人として同じ者がいないように、人間も千差万別だ。正しく親として接してくれる親切な人間も探せばいることだろう。
だがその人間を探し出すまで少女を放置するわけにもいかない。この面子の中で仮の保護者として任せるのならば椎菜が一番適任だろう。と、理屈をこねくり回しても心の底ではわかっていた。
自分と彼では成し遂げられなかったつながりをこの二人ならあるいは、と、在りし日の理想が往生際悪くごねているだけだと。
だがそれでも。それでも、憎まれ口を叩きながら拒絶の意を示さないイタチと、怯えながらも逃げようとはしない少女に猿彦は光を見出したかった。
「幸せにおなり」
少女は不思議そうに自分を見上げている。恐らく自分がこめた思いなど一分たりとも伝わっていないだろう。だがそれでいい。自分の勝手な願いなど知りもせず、ただ陽だまりの道を歩んでいってほしかった。
それから言い表せないほど長い紆余曲折があった。一時期は悲痛な最後になってしまうかとはらはらしたが、今も彼女らは一つ屋根の下で暮らしている。それが答えだ。
「のう、権次郎。今日もいい天気だ。この様子なら明日も晴れそうじゃ」
「ふん、晴れだろうが晴れじゃなかろうがどうでもいいわ。どうせあの童のところは明日も明後日も晴れだろうよ」
そう吐き捨てながらも澄み渡った青空の先を見つめる横顔はどこか穏やかだ。
「そうだな。ずっとそうであってほしいものだ」
彼らの行く末がこの空のように晴れわたったものであることを、猿彦は尾曾山の片隅から祈っている。
「ああ、本当に綺麗な空だのう」
きらめく太陽に猿彦は穏やかに微笑んだ。