【小説】ブレイン・ペット 第4話
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「それで何ですか話って」
佐藤は男を部署の外まで手招いた。
もしやついに腕の正体を知ってしまったのだろうか。
無意識のうちに喉が鳴る。絆創膏が貼られた箇所を隠すように握りしめた。
しかし彼女が切り出した言葉は男が覚悟したものとまったく異なるものだった。
「この書類についてなのですが、不備がありまして、訂正お願いできますか」
差し出されたのは一枚の紙。なんてことはないただの記入漏れだ。男からどっと力が抜けた。目の前に佐藤がいなければきっとへたりこんでいただろう。
「あ、はい、すみません。すぐに直します」
男は頭を下げて紙を受け取った。
「でもそれだったらその場で渡してくださればよかったのに」
そう、男が気になった点はそこだった。単に書類の間違いを直してもらうだけならわざわざ廊下まで呼び出す必要はない。男のデスクに紙を置いて一言用件を告げればいいだけだ。
男が指摘すると、佐藤は言いよどむように唇を震わせた。言いたいことをはっきり口にする彼女にしては珍しい。
「すみません、あの、差し出がましいとは思うのですが腕、大丈夫ですか」
「腕ですか」
思わず声が上ずってしまったのは不可抗力だ。男は上半身をよじって見えない位置に腕を動かした。男の妙な行動に佐藤は眉をひそめるでもなく、男の前に手のひらを差し出した。
「前見たとき腫れが酷かったのとまだ絆創膏貼っているようなので。よかったらこれどうぞ」
自分よりも一回りか二回りほど小さな手に乗せられていたのは平べったく丸い軟膏入れだった。
「これ、腫れによく効くんです。私も虫に刺されたときとか愛用してます」
「は、はあ……」
しかし親切にしてもらう理由がない。佐藤とは仕事以外で会話することもないし、何よりブレインに関することは些か過敏なくらい警戒するほうがちょうどいいのだ。特にこの傷を見られた二人には。
男の困惑を感じとったのか、佐藤が眉を下げた。
「ごめんなさい。突然で驚きますよね。別にいらなかったら捨ててくれて構わないんですが、ずいぶん腫れていたのが気になって……」
「あ、やっぱり気持ち悪かったですか? でももう腫れもひいているんで大丈夫ですよ。お恥ずかしい話、ちょっとかきむしってしまったので絆創膏つけているだけなんです」
男は誤魔化し笑いを浮かべながら頭をかいた。だが佐藤の顔はこわばったままだ。
「いえ、気持ち悪いとかそういうわけではなく、単純に気がかりで。これ傷口に塗ると治りが早いので良ければぜひもらってください」
「そういうわけには……」
男の言い訳を断ち切るように佐藤はやや強い口調で言った。
「私、虫刺されが苦手なんです。どうしても父を思い出してしまうので」
「父、ですか?」
男が聞き返すと、佐藤は頷いた。
「ご存知かと思いますが、父は空遊病で亡くなったので」
「ああ、あの噂本当だったんだ……」
つい口から本心がまろび出てしまい、はっと口を押さえるも既に後の祭り。ただでさえ人気のない廊下だ。この距離では確実に聞こえてしまっている。
恐る恐る正面の顔を窺うと、佐藤が小さく笑った。笑顔を見るのは初めてだった。何せ彼女の顔なんて怒った顔か機械のように無表情の顔しか見ていない。久しぶりに心臓が誤作動を起こした。
「気にしないでください。慣れてますし、昔に受けた仕打ちに比べればかわいいものです」
「すみません……」
空遊病は感染者の家族が次の感染者になってしまうケースがちらほらあったため、ひとたび誰が感染したとの情報が出るや否や、その家族は激しい差別の目にさらされることが多かった。もちろん感染形態的に家族だからといって感染リスクが上がるわけではないが、己の経験でしか物事を捉えられない人間はいつの時代も一定数存在する。
それを省みると男の発言は迂闊だった。いや迂闊を通り越して失言である。いくら不用意とはいえ傷をえぐるのは許されることではない。
鈍く光る床に情けない声が落ちる。頭上でくすりと笑う気配がした。
「気にしないでくださいと言っているじゃないですか。それでこんなところまで呼び出した理由ですが、無愛想な女が突然こんなもの渡してきたら色々と邪推されるでしょう? 特にあなたの隣の人には」
下種な好奇心を隠すことなく絡んでくる加藤の姿が容易に思い浮かんで、男は盛大に顔をしかめた。
「でもこうやって二人きりでいること自体邪推されるんじゃないんですか?」
「いえ、多分私にお𠮟りをくらっていると思われるだけですよ。私、あなたを特別優遇したことなんてないので」
「はあ」
現在進行形でしているのでは? という気がしなくもないが余計な事を言って蛇を出したくはない。
佐藤は唇の端を上げた。
「私の演技、結構上手かったでしょう? わざと怖い顔作ったんですから」
だから妙に顔に力が入っていたのか。ブレインのことを指摘されるのだと身構えていたが、よくよく考えてみれば空遊病と気づいたのなら男に声をかける必要はない。もしも空遊病に感染しているとわかれば感染者がどのような行動を起こすか、身内が患った佐藤ならばよくわかっていることだろう。それこそ男が脳内で思い描いたように、担当機関に一報を入れればいいはずだ。
笑う佐藤の顔は幼い子どもがエッヘンと胸を張るようなあどけなさがあった。そこには容赦なく相手の不手際をつつくいやらしさも、どんな相手に対してもはっきりとミスを指摘する気の強さもありはしない。男の心臓が再び誤作動を起こした。
「別に恩を着せようとかそういうつもりじゃないので。強いていうなら私の自己満足ですよ。お時間をとらせてすみません。それでは」
佐藤は男の手に軟膏を押しつけると踵を返す。ここで男も自分のデスクに戻ればいつも通りだ。だがそれが惜しいと思ってしまった。もったいないと思ってしまった。
気づけば男は声を上げていた。
「ま、待ってください!」
男の声が廊下中に響き渡る。一拍遅れて顔に熱が集まった。
佐藤が足を止めて振り返る。レンズの奥にあるつり目が大きく見開かれていた。
「何か?」
「あ、あの、そのもしよかったら佐藤さんのお父様の話について聞かせてもらえませんか?」
佐藤がぽかんと口を開けた。
正直、自分でも何を口にしたのかわかっていない。だがこれだけでは語弊があることはわかる。彼女の一分の隙もない理路整然とした口調でなぶられるために男は声を張り上げたわけではないのだ。
「いえ、別にその佐藤さんのお父様を貶めたいとかそんな話じゃなくて、空遊病自体に興味があるというか……ああ、違うな。そうじゃなくて、こうたまたま虫刺されのよしみと言いますか、これを機に佐藤さんの話を聞いてみたいなとか、そんな感じと言いますか」
駄目だ。何を言っても正しく伝えられる気がしない。それどころかますます誤解を招くような言い方になってしまっている。これでは本気で説教を食らう羽目になるかもしれない。
わたわたと慌てふためく男とは対照的に佐藤は黙りこくったままだ。やはり怒らせてしまっただろうか。
と、そのとき、ふはっと空気が抜けるような音がした。
「わかりました。まさかあなたからこんな下手くそなナンパを受けるとは思いませんでしたよ。今日夜空いてます?」
「え? あ、ああ空いてます」
男が頷くと佐藤は笑みを深くした。
「よかった。それでは仕事が終わり次第お会いしましょう。会社だと目立つので会社の向かいにあるカフェで待ち合わせでどうですか」
男はろくに言葉を返すこともできず、ただ壊れた玩具のように何度も頷くことしかできなかった。そんな男を見て佐藤は苦笑する。だがすぐに笑みは消え、いつもの仏頂面に戻ってしまった。
「ではまた後で」
今度こそ佐藤は去っていった。どんどん小さくなっていく後ろ姿を男は呆けた顔で見送った。
「それで私の父の話でしたよね」
「話しにくかったら無理に話さなくても大丈夫ですよ。軟膏をもらった上に辛い記憶を掘り起こしてもらうなんて心苦しいですし」
別に無理してまで佐藤の父の話を聞きたいわけではない。もしかしたらブレインが空遊病である証拠が掴めるかもしれないという淡い好奇心だ。それも後ろ向きの好奇心である。もしブレインが空遊病であったとして男にできる術はないし、そもそも佐藤の父と男では状況がまるで異なる。脳にいくこともなくこのまま静かに皮膚の上で生きてくれるのならば、間借りくらいさせてやってもよかった。何せブレインのおかげで脳や心臓のバグが修正できたのだから。
「いえお気遣いなく。できない約束はしない性質ですので」
佐藤はにこりともせずに首を振った。
男は未だほとんど手をつけられぬまま机の上に座っている料理たちに視線を落とした。
向かいのカフェで落ち合った二人は挨拶もそこそこにすぐに移動した。会社の向かいなだけあって、会社の人間の目に触れる可能性も高い。男は先日見つけた焼き鳥の美味い居酒屋を紹介しようと思ったのだが、あいにくそこには個室がなかった。すると佐藤がちょうどいい店を知っているとのことで、その言葉に甘えて彼女に任せることにした。
佐藤が案内してくれたのは古民家を利用した小料理屋だった。
お品書きには酒もあったが、佐藤が酒をいれないほうが正確に話せるだろうと断ったので、男も遠慮せざるを得なかった。
小鉢に乗った茄子のポン酢かけはさっぱりしていて食欲が減る蒸し暑い夏の夜にもぴったりの一品だろう。メインの刺身は色鮮やかでいかにも新鮮そうだ。だが料理が運ばれてきても佐藤はまだ一口も口につけていない。自分だけが食べるのも気まずく、男の手も自然と膝の上で固まったままになった。
「そうですね、何から話しましょうか……」
「あの、もしかして佐藤さんのお父様は宇宙関係の職をなさっていたんですか?」
「まさか! 父は普通のサラリーマンでしたよ」
佐藤はさもおかしそうに笑った。やはり笑うと険が消えて幼く見えた。
「父は山登りが趣味だったんです。その頃はまだ登山者に厳しい目が向けられていない時でしたから休日のたびに山に行ってて。そこで感染したんです。感染者に直接出会ったわけじゃなかったのですが、感染者が訪れた山に入っちゃったみたいで」
佐藤はぽつりぽつりと話し始めた。
「最初は虫に刺されたみたいだって笑っていたんですけど、ずっと腫れがひかなくて。おかしいなってなっていたところにたまたまついていたテレビからニュースが飛びこんできたんです。空遊病の症状に関するニュースでした。紹介された初期症状はまさに父そっくりの状態で、一瞬で穏やかなお茶の間が凍りついたのを覚えています」
佐藤の手にはお冷が握られていたが、その水面は細かく揺れていた。
「まさか、まさかそんなはずはないよねって、嘘だよねって信じたい気持ちと、もしかしたら……って疑う気持ちがありました。
きっと違うって、まだ感染者は数人しか出ていないし、たまたま似通っているだけだって。でもいったん気になってしまうとやっぱり不安で……。安心のために行ったんです」
佐藤は俯いた。前髪が彼女の目元を隠して表情をうかがい知ることはできない。だが細い体が小刻みに震えていた。
「それで検査の結果が残念ながら……」
佐藤は顔を上げた。今にも溢れ出ようとする感情に何とか蓋をしたような、怒りとも悲しみともつかぬ顔だった。それでも意思の強い黒はまっすぐ男を射抜いていた。
「はい、陽性でした。目の前が真っ暗になりましたよ。何とかしてください先生って頼みこんでも治療法がないと、感染形態からいって安楽死以外手法はないのだと、そう言われました。でもまだ初期段階だからということで少しの猶予をもらえました」
いくら最後が決まりきっているからと言って感染が確認されました、はいご臨終ですというわけにもいかない。残される家族が心の整理をつけるためにもある程度の時間は与えられる。
「いろいろ試してみました。当時効くとされた虫刺され薬や超純水を買って毎日使ってみたこともあります。でも駄目でした」
空遊病の虫にとってどうもH2Oは毒らしい。自然界や体内にある混ざり物の水ならば耐えられるようだが、純度の高い水につけると死ぬのだ。しかし超純水が有効であることが知られてもそれが治療法として確立しなかったのはその溶解力の高さにある。そもそも超純水とは限りなく不純物を排除した水のことだ。口から摂取したくらいでは唾液やら体液やらと混じってしまい、すぐにただの水になってしまう。かと言って血液や脳にそのまま流すわけにもいかない。よって遺体の消毒代わりとして気休め程度に流すくらいしか用いられなかったのだ。
「父は少し進行が遅かったので何とかなるのではないかと希望を抱いた日もありました。でも結局最後は空を求めたのです。今でも思い出せます。私たちが必死に引き留める中、まるで恋しい人に手を伸ばすように空に恋焦がれる父の姿を」
佐藤はきつく目を閉じた。奥歯の擦れる音がこちらまで聞こえてきそうだった。
「あれからというもの、虫刺されに酷く敏感になってしまって。しばらくは肌に赤い点が浮かんだだけで気が狂いそうでしたよ」
「すみません……。気分を害するようなことを」
男は体を縮こませた。自分の浅ましい欲のために彼女のかさぶたをはがして、いったい何をやっているのだろうか。自分が酷く情けない存在に思えて。
「いえこちらこそすみません。ご飯が不味くなるようなことばかりで楽しくなかったでしょう」
「そんなことは!」
思わず身を乗り出した男を押しとどめて佐藤は微笑んだ。男の思惑を知ってなお、しょうがないわねと許容してくれるような顔だった。
「まあこの話はやめにしましょう。そういえば最近ずいぶんと明るくなりましたよね。活躍もめざましいですし。うちでも素敵になったと話題になってますよ」
「えっと……それは、まあ何といいますか、ちょっとしたきっかけで殻が破れたと言いますか……」
さすがに今の流れでブレインのことを馬鹿正直に話すわけにもいかない。言葉を濁す男に佐藤は笑った。
「まあ前向きになったなら何よりです。ところでこの前新しいプロジェクトに参加したとお聞きしましたけど」
「ああ、それはですね――」
はじめこそ仕事の話題だったものの、趣味やらプライベートまで枝葉は広がり、気づけば時は瞬きの間に過ぎていた。
「なんだかあなたのおかげでずっと背負っていた荷が軽くなった気がします。今日あなたと話せてよかった。また機会があったら話しましょう」
そう言って佐藤はネオン輝く夜の街へと溶けていった。
家に帰ってからも佐藤の笑顔が忘れられず、男はぼーっと突っ立っていた。スーツをハンガーにかけるだとか洗濯をするだとか雑事は山積みなのに何もする気がおきない。
男はそのままベッドに倒れこんだ。しかし習慣というものは恐ろしく、柔らかなシーツに抱きとめられたと思ったそのときには手はポケットの端末を取り出していた。
流れるように動画サイトを開いて、無限に流れてくる動画を流し見する。
そのとき、ふいに一匹のカタツムリが視界に入りこんできた。普段は気にも留めない、なぜ突然おすすめに上がってきたのかもわからない動画。だがその異様な姿が男の指を止めさせた。
異常なほど膨れ上がり、毒々しいシーグリーンが蠢く触角。一瞬で見る者に不快感を抱かせるエイリアンじみた造形。
『カタツムリを操る寄生虫!? その生態に迫る!』
動画名は好奇心を煽るありきたりなものだ。
腕が疼く。男の指が自然と画面をタップした。