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【短編小説】黒猫のシロ

自分にないからこそ好きになる。
白を愛する黒猫を飼っている男の話。

 うちには「シロ」という名の猫がいる。動物好きな妻がどうしても、と切望して家に迎え入れた黒猫だ。――そう、黒猫なのである。
 別に足先や尻尾の先が白だとかそういうことではない。てっぺんから尻尾の先までまごうことなき黒だ。無数の毛を一本一本かきわければ、一本くらい白髪ならぬ白毛が見つかるかもしれないが、やるのはよほど暇なときにしておいたほうがいいだろう。わざわざ白髪を探すなんて、人間相手でもやらないのだから。
 妻が言うには、なんでも昔みた絵本の影響で、どんな猫であっても必ず名前はシロにする、と決めていたらしい。
 シロが来た経緯は単純だ。前々から猫を飼いたがっていることを耳にしていた知人が、ちょうどうちに子猫が生まれたから引き取らないか、と持ちかけてくれたのだ。
 妻はもう大喜びで、引き取る前から猫飼いの友人や動物病院の先生に相談していろいろと準備していた。まだ来てもいないじゃないか、と呆れると、たちまち眦をつり上げて、せっかくご縁をもらったのだから、こちらもそれなりの用意をしなければ猫にも先方にも失礼なのだ、と頬を膨らませた。
 無事に我が家にやってきた後は、さらに猫への献身に拍車がかかった。その様はもう親バカとしか言いようがない。うちには子どもがいなかったから母性本能が刺激されたのかもしれなかった。
 幸いにも、シロはなかなか胆の据わった猫で、敷居をまたいだときも怯える仕草一つとして見せなかった。それどころか堂々と用意したタオルケットの中で昼寝をし始めたものだから、これは大物になるなと感じたものだった。ちなみにその予感は見事あたり、シロは猫のくせに人見知りも猫見知りもしたことはない。
 さて、そんなシロだが、一つ変わった癖がある。それは白いものをみるとたまらなくなることである。
 名は体を表すとはよく言ったもので、シロは自分の名になった白に親近感を抱くらしい。初めて自分の姿を認識するまでは、どうも自分も同じ白の仲間だと思っていたようで、自分は白色ではないとわかってしまったときの顔は悲痛にあふれていた。耳も尻尾もしょぼくれ、全身で己の身に降りかかった不遇な運命を嘆き悲しんでいた。傍目から見る分には思わず笑みをこぼしてしまうくらい面白い光景だったのだが、それは本気で気落ちしている本人、いや本猫のために胸のうちにしまっておこう。
 ほとんど夜鳴きもしない猫だったのに、例の体毛ショックがあってからというもの、数日ほど昼夜問わず、悲しみに満ちた声を上げていた。食欲もがっくり落ちて、心配のあまり妻の食欲まで細くなってしまったほどだった。
 が、気持ちの整理がつくと、シロの切り替えは早かった。それがシロの奇癖の始まりだ。シロは白いものに強い執着をみせるようになったのである。
 リビングの壁から始まり、クッション、シャツ、ティッシュ、皿、毛糸、果ては病院の先生の白衣までもシロの愛でる対象となったのだ。
 おかげさまで、うちのおもちゃから食事用の器に至るまでシロのものは全て白色だし、誤飲しそうな細い糸やリボン、ちょっとでも外に放置しておけば、最後の一枚まで引きぬかれるティッシュなどは厳重に保管しなければならなかった。おちおち鼻をかむこともできない。
 なぜならひとたび真っ白な紙を手にとれば、どこからともなく黒い物体が飛んできて、じいっとその様子を見つめているのである。それはもう視線を可視化したならば、眩いビームが飛んでいると確信するくらいには熱い視線が注がれるのである。気分はまるで彼氏の前で彼女と話す知り合いのような気まずさだ。
 鼻をかんでからも油断してはいけない。うっかり手近なくずかごに放りこもうものなら、さっとくずかごをひっくり返して、気がすむまで「愛でる」のである。彼が満足した後には無数のティッシュの残骸が散らばり、この光景をみた妻の顔を思うと、ため息しか出てこない。よって、唯一シロが訪れてはならない場所だと教えこまれている聖域ことキッチンにあるゴミ箱以外、捨てる場所はないのである。
 ただ、シロの白いもの好きは悪いことばかりではない。
 第一に、病院の先生には大変好評である。病院の先生曰く、「どんなに動物が大好きでも、やっぱりワンちゃんネコちゃんにとっては痛いことをする嫌なやつですからね。シロちゃんみたいに懐いてくれる子少ないんですよ」とのことで、先生にとっても癒しの時間の一つらしい。予約の電話をいれると、明らかに声のトーンが上がるので、こちらも笑顔になる。
 シロも始めこそ見知らぬ場所に緊張していたが、診察室は白を基調としているし、病院の先生は白衣を着ているしで、自分の大好きな白に囲まれる、まさに天国のような場所だったのだ。今では病院用のキャリーを持ち出した途端、いそいそと足元にやってくる。瞳を輝かせてこちらを見上げる様は、自分が聞きかじった猫たちの様子とはかけ離れた姿だ。
 さすがに注射を刺すときは一瞬固まるのだが、その後すぐに先生や看護師さんに思い切り甘やかせてもらえるのだから、もうえびす顔である。おまけに帰れば、ごほうびのおやつも待っている。思う存分白衣に体をこすりつけて堪能し、名残惜しげに診察室を後にするのが常だった。
 第二に、妻の夢が叶った。妻の夢の一つに、飼い猫にすり寄ってもらうというのがあったらしい。妻が白い服を着た瞬間、シロは弾丸のように飛びこんでいって、甘えた声で妻にすり寄る。ゴロゴロと喉を鳴らして、すりすりと頬をこすりつけてくる様子はたしかに愛らしい。
 その間、自分は完全に蚊帳の外となるので、寂しくないのかと問われれば、首を振るが、妻が一日中上機嫌のままなのでこちらにも利はある。例えば夕飯の気合いの入れようは、シロとの触れ合いタイムがとれるかとれないかで、天と地ほどの差がある。
 妻はしまりのない顔でシロを撫で、その名を呼んだ。シロは時おりそれに答えるように鳴いてはうっとりと頬ずりしている。うちのアルバムには膝の上で丸くなるシロと、満面の笑みを浮かべる妻の写真が何枚もできた。
 しかしその至福の時間が終わった後に残されるのはありとあらゆるところに散らばる黒い毛である。特に冬はもこもことした白い服を好んで着るものだから、まるまった線維にシロの毛が絡みついて、酷い有様となる。が、妻はにこにこ顔で面倒な洗濯を行った。あの時間の対価が、手間のかかる掃除洗濯で済むものなら安いものだと。むしろこの程度でシロにすり寄ってもらえるのなら実質無料、いや実質収支はプラスらしい。些か意味不明な発言だが、猫好きが極まるとそれ以上に訳の分からぬ迷言が飛び出すことを知っているので、妻の発言はまだ正気の範疇なのかもしれない。少なくとも周囲のベテラン猫飼いたちはこの発言のさらに上をいく発言をたびたびしている。
 が、やはり何事にも慣れというのはあるもので、妻がいつも着るもこもこの部屋着より、自分が会社に行くときのシャツのほうが食いつきが良い。レアキャラの白シャツが引っ張りだされたのを視認したら最後、家から出るまでひっつき虫になる。妻が部屋着を着ても見向きもしない。喜びに目を輝かせ、足をよじ登って愛しの白に会いに行こうとする。
 だがここで甘やかすわけにはいかない。さすがに黒い猫毛まみれのシャツで出社するのは恥ずかしすぎる。心を鬼にして足から引きはがすのだが、そのときはもう、今生の別れのごとき哀切に濡れた声で泣きわめくのだ。なんら悪いことはしていないのに、思いあう恋人たちを引き離す悪役になってしまったような、罪悪感が積もる。おまけに愛猫を独占されて、妻の機嫌は急降下だ。必死に手を伸ばすシロの向こうに絶対零度の瞳が突き刺す。
 地獄のような朝の時間を終え、玄関を開けるときには既に退社後よりも重い疲労感がつきまとう。最終的に純粋な白ではないシャツを着用するか、上着を着て白の面積を減らすことでようやくシロの求愛行動を回避することに成功した。
 上着を着て一部しかシャツが見えなくなると、妻のほうに天秤が傾くらしい。残念そうに一瞥して、妻のほうに向きを変えるのである。妻も妻で、愛猫を独占されずに済むので、機嫌が地の底に落ちることはない。なんだかシロのほうが自分よりも優先順位が高いのは複雑な気持ちだが、家庭の平和が一番である。何も言わずにコーヒーをすするのが賢い選択だ。
 妻は長い時間シロを独占されることを嫌う。逆はいいにも関わらず、だ。まあ、妻ほど熱をあげているわけではないから、さほど怒りはわかないが。
 だから妻にはあずかり知らぬ、男同士の秘密の時間が存在する。


 とある休日の午後。うららかな日差しが己の膝の上を照らす。膝の上には少しへたった白いブランケットと、その上で丸くなる真っ黒な毛玉。気まぐれに顎の下をかくと、ゴロゴロと喉が鳴った。
 今、妻は旧友に会うために出かけている。ランチと買い物をする、と言っていたので、あと二時間は帰ってこないだろう。

「まったくあいつにはこんな格好見せられないな」

 下りていた瞼が上がり、磨きぬかれた金の光彩に己の姿が映る。緩んだ顔と真っ白な布地。そう、自分が身にまとっているのは、普段タンスの隅に追いやられた白シャツだ。
 理由は正当なものとはいえ、白シャツからすれば理不尽の極みである。猫のために冷遇されるのはあまりに哀れだ。その立場に同情の涙を禁じえない自分は、咎める人物がいないとき、伸び伸びと部屋を行き来し、陽だまりに当たれる時間を作るのだ。シロが寄ってくるのは不可抗力である。断じて狙ってやっているとか、そういうわけではない。

「いいか、いくらお前が勝手に寄って来てるとはいえ、これを知ったらあいつがへそを曲げるからな。絶対に密告するんじゃないぞ」

 指を口にあてて言い聞かせると、金の瞳を細めて、シロはにゃあ、と鳴いた。


テーマは「猫」「白」でした。

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