【小説】ブレイン・ペット 第3話
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今日もいちゃもんをつけられて嫌味を言われるだろうと身構えていたのに、課長は一度こちらに目を向けただけで、何も言わずに手元の書類に視線を落とした。
だが僅かな交錯の間にその目が揺らいだのを男は見逃さなかった。
勝負に勝ったような達成感が湧き上がる。しかしその感情も己のデスクまでたどり着けば消えてしまった。
課長に突っかかられなかったからといって何になるというのだ。一度言い返しただけで男の生活が劇的に変わるはずもない。彩度の低い日々が無為に消えていくだけだ。
ちらりとパソコンのカレンダーを確認する。たしか今日は会議があったはずだ。淡い黄色で塗りつぶされた今日の日付けには「10時 会議」と簡潔なメモが記入されている。
体がきゅっと締めつけられたような気がした。
会議は好きではない。特に今日の議題は既存商品の販路拡大についてだ。無言でやり過ごすという訳にはいくまい。
昔から自分の考えを述べるのが苦手だった。間違えるのが怖かった。
親に厳しく教育されただとか教師に自分の意見を激しく否定されただとかそういうわけではないのだが、自分の回答にバツをつけられるのが恐ろしかった。
何歳のときだったかは忘れてしまったが、グループワークで的外れな意見を言ってしまったことがある。そのときの全員のきょとんとした顔と、皆との回答のズレが非常に恥ずかしくなった。それからというもの発言するときは間違いがないか、漏れはないか何度も何度も確認してから発言するようになってしまった。だがあまりにも入念にやりすぎて、その確認作業が終わる頃には既に話題は移ってしまっている。せっかく用意した「完璧な」答えは役立たずのゴミと化した。
それを繰り返しているうちに男は沈黙を選ぶようになってしまった。沈黙を貫きすぎていると当然話を振られることもある。しかし確認作業が終わっていない段階で振られると、舌がもたついてろくな言葉にならない。そこで相手に呆れられるか、不思議そうな顔をされると言わなければよかったと後悔がこみ上げてくる。そして更に口が重くなり、また上司に𠮟責され……その繰り返しだった。
正解を導き出していて、口に出せばよかった思うことも幾度となくあったが、勇気を振り絞って口に出すものに限って的外れな返答になるのである。
だから先週のあれはどうかしていた。なぜ萎縮しなかったのか、いつもの動悸が起こらなかったのか今でもさっぱりだ。
あの瞬間たしかにあった万能感はとっくに消え失せている。今いるのは意志薄弱で己の意見一つすら満足に答えられないちっぽけな男だ。
「おい、なにぼんやりしているんだよ。会議の資料の最後の見直ししなきゃいけないだろ」
いつまでも動かない男を訝しんでか加藤が声をかけてくる。無意識のうちに返事は返していたが、それは誰がどう聞いても生返事だった。
加藤は呆れたように肩をすくめ、彼自身のパソコンに向き直ってしまった。後はキーボードが軽やかに鳴るだけだった。
会議の部屋はシンプルだ。圧倒的な白とわずかばかりの黒。必要なものだけをとり出した合理性の塊のような部屋も苦手だった。間違いは一切許さないと言われているようで。
「時間になったな。会議を始めるか。今日はなるべくいろいろな意見を聞きたいからな。だんまりになるなよ」
係長がこちらを一瞥した。心臓が萎縮するかと思ったが、予想に反して心臓は一定のリズムを刻み続けていた。
会議は手元の資料に則って淡々と進んでいく。一連のプレゼンテーションが終わったところで係長が仰々しく口を開いた。この部屋で一番偉い自分の立場を見せつけるかのように演技じみた仕草だった。
「なるほど、よくわかった。ところでこの販路拡大に対するアイデアだが皆の意見を聞いてみたい。そうだな、まずは君からどうだ」
係長はまっすぐ男を見ていた。その口がゆがんだ弧を描いている。
やはりきたと思った。係長は前々から男の弱点を見抜いていて、事あるごとにこうしていじめてくるのだ。
普段ならば汗がふき出すなり、心臓が飛び跳ねたり逆に縮こまってしまったりして頭が真っ白になってしまうはずだった。そうやって男が慌てふためいている様子をにやにやと眺めているのを、男は知っている。
男は一度深呼吸して、係長の顔を見つめた。
「そうですね……今回の案ではインターネットを活用した広告に力を入れていくとのことですが、SNSを活用するだけでなくECモールへの出店はどうでしょうか。今や世界中が利用するサイトですし、おすすめとして潜在的顧客層にも表示されます。そこでうまく引きこむことができれば新規顧客の獲得にも繋がるでしょう。もちろんメリットだけでなく、デメリットもありますし検討が必要なところではありますが」
まるで何かが乗り移ったようだった。いや乗り移ったなんて生易しいものではない。皮を剥ぎ取って中身をまるっと別物に作り替え、最後に皮膚を再び取り付けた、そんな錯覚を覚えるほどに男の舌は滑らかに言葉を紡いだ。そこに枷はなかった。肝心なときに限って故障する心臓も固まって動かなくなる体も誤作動を起こす汗腺も、全てが正常に動いていた。
男が述べ終わると、静寂が空間を満たした。
皆が啞然とした顔で男を見ていた。係長ですらもぽかんと口を開けて間抜け面を晒していた。
「あ、ああそうだな。なかなかいい案じゃないか。検討してみよう」
「じゃあ次の議題はそれですか」
会議の取りまとめ役の女性社員が問いかける。
係長が頷くと、あれよあれよという間に予定が組み立てられていく。それは早送りで再生される建物の建設過程によく似ていた。
「なあ本当にどうしちゃったんだよ、お前さ。俺はてっきり今日もだんまりなもんだと思ってたんだけど」
会議が終わって早々、加藤が絡んでくる。
「いや自分の思ったことを言っただけだ。どうせネットを活用するのならできる限りのことをしたほうがいいじゃないか」
「だからそれがおかしいっていってんの。なあ本当にお前どうしたんだよ。クスリでもやった? 違法じゃないやつなら俺にも紹介してほしいんだけど。いや真面目にさ」
「まさか。そんなクスリがあるんだったら誰だってやっているさ」
男は苦笑を浮かべた。
たしかに自分の体に何かしらの変化が起きたことは確実だ。だが何が自分をここまで突き動かしたのかその原因は依然謎のままだった。
習慣を変えたこともなければ、自己啓発本の類を読んで触発されたわけでもない。クスリなんて論外だ。そんな便利なクスリがあるのならとっくに商品になっていることだろう。
ならば脳に何かあったか。脳に異常があると言動に変化が起こるとテレビで見たことがあった気がする。脳にガンか、はたまた別のナニカが脳に居座っていて、自分の体に変化をもたらしたのか。
――脳に居座る?
男ははっと己の腕に視線を落とした。白いシャツの生地の下にはぞんざいに貼った絆創膏がある。例の傷は見るのも嫌になって絆創膏を取り換えてもいないため、あのおぞましい隆起物がどうなったのか男は把握していない。腫れはひいていたので、てっきり死滅したものと楽観的に捉えていたのだが。
だがしかしそれ以外に思い当たる節はない。
例のものが行動に影響を及ぼしているのなら、脳まで虫が到達したということではないか?
口が急速に乾いていく。加藤が「おい、どうした? 顔真っ青だぞ」と珍しく本気で心配した声をかけているのがぼんやりと耳に入ったが、それは何枚もの膜で隔てられたかのようにぼやけた。
もしも虫が脳まで達したのならば後は死への一本道を転がり落ちていくだけだ。脳に侵入した虫は凄まじい速さで増殖を繰り返し、その名の通り網の目のように支配領域を拡大させ、宿主に虫が望む行動をとらせる。そして最後に皮膚を食い破って、宿主の命を潰すのだ
脳の奥深くまで支配した虫に現代医学が応戦する術はない。ただでさえ脳というデリケートな場所だ。宇宙からやってきた彼らに放射線は効かない。外に引きずりだせば死ぬが、それをするにはあまりにリスクが高すぎた。繊細な脳の機能を傷つけずにおびただしい虫を完璧に排除するのは実質不可能だった。
どれほど細心の注意を払って虫どもをとり出そうとも一匹でも残れば水の泡だ。おまけに術者の感染リスクもある。そんな状態で執刀しようと考える人間が少ないのは当然だろう。
無論、それに挑戦した勇敢なヒーローたちはいた。だが彼らも気づいてしまうのだ。自分たちの行為は迫りくる死神の足取りをほんの少しばかり遅らせるだけの、ただの悪あがきでしかないことを。
人類に残された手段はただ一つ。感染者が末期になって新たな虫を放出する前に宿主ごと虫を殺すのだ。項にこぶができる前に宿主を殺すと虫たちも死ぬ。感染者の遺体は念を入れて超純水で中を洗った後、火葬されるのがスタンダードだった。
しかし多くの感染者にとってこの方法は受け入れられなかった。当然だ。大のために小を切り捨てる。その考えは理解できてもその切り捨てられるものの中に自分が入っていれば誰だって躊躇するし、逃げたくもなる。患者たちは神に祈り、命乞いをし、逃亡を図り、己が運命を受けいれる者はほとんどいなかった。同時に「健常者たち」を疑心暗鬼に陥れ、少しでも疑しい者や感染したと嘘の噂を流された「感染疑い」を排除しようとする動きが生まれた。
逃げ回る感染者と生存権を盾に声高に感染者を擁護する人権団体、逆に疑わしき者は全て罰する過激団体の衝突。結果、いくつもの凄惨な事件を引き起こしたことは当時学生だった男の記憶にもよく残っている。
男だって死にたいわけがない。何とか隠しきれないものか。いやどの道虫に殺されるだろう。待て。そもそも脳にいった確証も空遊病である確証もないじゃないか。だが実際に影響がでている。本当に空遊病ではないのか?
「本当に大丈夫か? さっきから全然まともに答えないじゃん」
「悪い、少しお手洗いにいってもいいか?」
「なんだよ、腹でも下したのか? 漏らすなよー」
男は加藤のつまらない軽口に応じる余裕もなく、足早にトイレへ向かった。
とにかく己の腕の現状を確認しなければならなかった。
トイレの個室で恐る恐る袖をまくる。そこにあったのはひしゃげて潰れた醜い隆起物であった。中のものが抜けてこぶというよりも大きないぼに近い。赤いはんぺんには幼子がひいたようなよれよれの線が数え切れないほど這っている。
あれほど殴りつけても、爪をたててもまだ奴らはいるのだろうか。
そして小さな体を血管に潜りこませて、脳へと向かって――
「おえ”」
喉元までせりあがってきた不快感が口から飛び出る。
びちゃっと水分を含んだ音と共に黄色い液体が便器を汚した。それに眉をしかめる暇もなく第二弾が食道を上がってくる。
なんで自分ばかりがこんな目に。だが運命を呪おうが目の前の現実は変わらない。
男のえづく音が冷たい個室に不規則に落ちた。
何とか表情を取り繕うことに成功した男だったが、周囲の視線が気になって仕方がない。
誰かがこの腕を目撃していないだろうか。或いは既に感づいていて政府機関に連絡を入れていないだろうか。
腕を見たといえば加藤と佐藤だ。二人は自分の腕についたこぶを見て何とも思わなかっただろうか。
隣の加藤は欠伸を噛み殺しながらつまらなさそうに指を動かしている。その横顔に特段目につく変化はない。
いや加藤のことだ。自分が空遊病に罹ったと知れば何食わぬ顔で接しながら裏で政府に密告していてもおかしくはない。
口角をつり上げて誰かと電話口で話す加藤の顔がまざまざと浮かんで、男はパソコンごとデスクの端ギリギリまで動かした。加藤との間に妙な空間ができたが、気にしてられなかった。正直肩も並べたくないのだ。替えられることなら、今すぐ加藤と最も遠い席の人と替わってもらいたい。
一方佐藤はどうだろうか。あの日気遣ってくれたとはいえ、男を庇うほど親しくもない。それに加藤も言っていたではないか。彼女が空遊病に過剰反応するのは、彼女の父親が空遊病の犠牲者だったからかもしれないと。家族の命を奪った憎き仇を宿した男を匿ってくれる義理などない。それよりも男を処刑人に突き出すほうが容易に想像できた。そのとき佐藤はきっと氷よりも冷たい目で男の背を押すことだろう。
佐藤は事務なので加藤ほど顔をあわせることはないが、それはすなわち佐藤の行動が見えないのと同義だ。彼女が少しでも男に懐疑の念を抱いて行動に移しても男は気づくことさえできないのだ。
しかし数日経っても男はビルの屋上やら山を目指したいとは思わなかったし、空の青さに目を細めることはあっても、手を伸ばしたくなるだとか、ましてや泳ぎたくなるような衝動もこみ上げてこない。加藤が不審な挙動を見せることもなければ、見知らぬ電話番号からの着信もない。
それどころか――
「おい、この前の資料の作成は終わったのか」
「はい、こちらになります」
男を見上げる猜疑心の塊のような小さな目をまっすぐ見据える。課長は何か言いたげに口を僅かに開けたが、結局無言で視線を紙に落とした。
「最近すごいわね。今まで全然パッとしなかったのに」
「だよね。なんかちょっとかっこいいかも」
ひそひそと女性社員の声が耳に入る。
男はにやけそうになる頬を内側から噛み、曲がっていた背を伸ばした。
自然と体が震えるほど怯えていた課長にも全く恐れを感じなくなり、人前で意見を言うときにも恐怖が頭をもたげることはない。
むしろバグが解消されて気分は爽快だ。人前でも臆することがなくなったため、評価はうなぎ登り。
「お前のおかげかもな」
男はそっと腕の傷痕をなぞった。
もしかしたら虫が脳に行かずにそのままとどまったかもしれない。あの症例報告では感染性があるか不明と書かれていたので、皮膚にとどまった虫は宿主を殺めることなく共存できるのかもしれない。あるいはあのとき男が奇跡的に全ての虫を排除することに成功して、痕だけが残っているのかもしれない。全ては憶測だ。だがそれを確かめる術はない。
病院に行けばきちんとした診断がおりるだろうが、それでもしも空遊病であったときは、男は処分されてしまう。たとえそれが脳に移行しないとしても。
死ぬなんてまっぴらごめんだ。せっかく絶頂期が訪れたのだ。さえない人生に咲いたもう二度とあるかわからないバラ色の幸福を楽しまなくてどうする。
世界を震撼させた病がなんだ。男にとってこの傷は幸福の象徴だ。周りに迷惑をかけているわけでもない。
そうだ、幸福の象徴なのだから傷と称すには味気ない。せっかくモノクロの生活に色をつけてくれた救世主。ならば、それなりの名前が必要だろう。
「もし名前をつけるなら……」
男はうっすらと透けてみえる絆創膏に視線を落とす。この印を端的に表す名がいい。特徴をつかんでいる名。これの特徴と言えば――
男の口から自然と言葉が滑り出た。
「……ブレイン」
脳みそみたいな傷だからブレイン。安直だが、覚えやすいし我ながらいい名前じゃないか?
男は心の中で深く頷いた。
よし、今日からこれの名前はブレインだ。
もう一度傷をなぞる。また一段と世界が輝き出した、そんな気がした。そのときだった。
「すみません」
降ってきた硬い声に男ははっと顔を上げた。そこには緊張した面持ちの佐藤が立っていた。
「ちょっとお話いいですか?」