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【小説】あるタヌキのころび道
以前書いた「のけものけもの」に出てくるタヌキ、大三郎の七転八倒、失敗ばかりの過去話
上記の話の番外編です。本編は長いので時間のあるときにお読みください。
とある街中に佇む一軒のカフェ「猫又」。猫の置物が店内のいたるところに置かれ、カフェなのに実は店主は熱いものが苦手だという。何年経っても皺一つ増えない彼は中性的な見た目も相まってどこか掴みどころがなく、どうやって見た目を保っているのか、その秘訣を聞きたがる客も多いのだとか。
空には濃紺色のビロードが広がり、布地に埋めこまれた星々が輝いている。飲み屋以外は閉店の看板を掲げ、辺りは閑散としていた。それはこのカフェにも当てはまる。しかし閉じられたカーテンの隙間からは煌々とした光が漏れていた。
「そういえばこの前、ヤタから聞いたよ? 雪華ちゃん慰めてあげたんだって? 相変わらず優しいねえ、大三郎は」
二つにわかれた尻尾を揺らして三毛猫は片方の口の端を上げた。
「ああ、仕事で失敗して迷惑かけちゃったって泣いていたからさ。でも椎菜に心配させるのも嫌だからって、公園に一人いるところを見かけてしまったものだからつい、ね」
こくりと頷いたのはタヌキだった。短い後ろ足をぶらぶらさせながらココアをすすっている。店主はつまらなさそうにため息をついた。
「まったく君はからかいがいがないねえ。椎菜だったらすぐに噛みついてきてくれるのにさ。そうだ、椎菜にこのこと告げ口してあげようか」
「やめてくれよ。椎菜に誤解されたらとんでもなく怖いことになるんだから」
雪華の保護者である、気の強いイタチが記憶の向こうから睨みつけている。思わず背筋に冷たいものが走った。
青ざめた大三郎を見、三毛猫がにんまりと金の目を細めた。
「おや、じゃあ誤解のないように言ってあげなきゃね。大三郎が雪華ちゃんを泣かせたって」
「ミケ!」
声を荒げた大三郎にミケは肩をすくめた。
「冗談だよ冗談。ま、さすが失敗のプロなだけあって慰めるのもお手のものってことかい」
「そりゃ私ほど失敗してきたタヌキもいないだろうし、私の今までしてきた失敗に比べれば雪華ちゃんの失敗なんてかわいいものさ」
ふうんと相づちを打つミケの目からは急速に関心が失せていく。カウンターに置かれた小さな三毛猫の招き猫を前足でいじりながら、ミケは言った。
「もう雪華ちゃんだって独り立ちしたのに、まだ野菜届けに行くだなんていくらなんでもお節介すぎやしないかい? 君の子どもでもないくせにさ。本当に君はお人好しだよ」
「独り立ちしたといってもまだまだ苦労することも多いだろうと思ってね。野菜届けるついでに顔を見に行っていたけど、やっぱり余計なお世話だったかなあ。でも気にかけてくれるなんてミケは優しいねえ」
わざと主語は明言しなかった。
程よく温められたココアは甘い香りと共に喉の奥を滑り落ちていく。
猫には元々甘さを感じる味蕾がないらしい。人に化けられるようになって多少は人間寄りになったとはいえ、甘いものを作るのはミケにとって難しいだろう。それでも生い立ちが複雑で、他の子どもたちと馴染めずに浮いていた雪華がこの店を訪ねてくるたびに、ミケは子どもの舌でも楽しめるこの飲み物を提供し続けた。その分かりにくい優しさに少女は救われてきたのだ。
「君の何でも能天気な方向に物事をとらえるところは長所であって短所だね。話しがいがなくてつまらないよ」
「そうかい? 私はミケと話すの好きだけどね。頭の回転が速くて私では思いつかないようなことを考えられるし、何でもそつなくこなせるからね。私にはないものばかりだよ」
眼前の瞳が大きく見開かれたと思った次の瞬間には、そっぽをむかれてしまった。
「はあ、タヌキっていう奴は皆ほけほけ、のほほんとしているもんなのかな。それ飲んだら帰りなよ。あーあ、せっかくいいネタがくると思ったら、とんだハズレだったね。期待外れもいいところさ」
つんと顔をそらしてミケは嫌味を言った。
「うん、ココアありがとう。美味しかったよ」
空になったコップを置いて椅子から飛び降りる。ミケはさっさと行けと言わんばかりに一、二度尻尾を振っただけで顔すら出さなかった。大三郎は苦笑して、人間に変化するとぴょこんと出た耳を隠すように帽子を被りドアノブに手をかけた。
軽やかな呼び鈴だけが夜に溶けていく大三郎を見送った。
「お前の名前は屋島の太三郎狸様からとったんだよ」
物心ついたときから両親にそう言われて育ってきた。
人への恩義を忘れず、最後には屋島の守護神にまでなった伝説のタヌキ。自分も彼のように変化の技を極め、周囲のタヌキたちをあっと驚かせるような幻術を見せてみたい、とそんな夢を持っていた。
だが現実は非情だった。どんなに修行に打ちこんでも全然上達しなかったのだ。
両親は化けダヌキで、なんにでも化けることができた。特に得意だったのは人間。葉を一枚頭に乗せて宙返りすれば、男、女、子ども、老人、どんな人間にだってなれた。
大昔は陰陽師やら山伏やら旅の僧やらこちら側に詳しい人間もあちらこちらにいたので、専門家たちの目にうっかり留まらないよう気をつけなければならなかったらしいが、今は彼らもずいぶん数を減らしたため白昼堂々タヌキが街を歩いていても気づける人間などいない。だから食べ物が手に入りにくくなる冬にはたまに人間の姿をとって街に行き、美味しい食べ物を前足いっぱいに抱えて自分たちに食べさせてくれたものだった。
そんな両親を見て育ったものだから、大三郎も兄弟たちも変化の術に興味を持つのは当然の流れだった。
「教えられた通りにやればできるはずだ」
「緊張しないで。落ち着いてやれよ」
「失敗した姿を想像しないで。お前なら絶対できるって」
優しさだけを詰めた兄たちの声援が痛い。大三郎は息を吸って瞼をゆっくりと下ろした。頭に置いた葉を起点にして意識を集中させる。黒一色の世界の中、手探りで「糸」を探した。右にもない左にもない。もう少し前に進んでみよう。ない。ない。焦るな。落ち着け。
ようやく足先に何かが触れた。それをうっかり落とさぬよう慎重につまみ上げる。それはちょうど葉っぱを乗せた頭を起点として全身に広がっている。蜘蛛の巣のように張り巡らされたそれは闇の中でぼんやりと輝き、自分の輪郭を浮かび上がらせていた。
その像を掴んだままおもむろに目を開ける。
風が吹いた。誰かが唾を飲みこむ音がした。
足に力をこめて青空に向かって飛んだ。くるりと世界が回転する。
後ろ足が地面に着地した。視界がぐんと高くなって前足には毛がない。代わりに指が長くなって、自由に動かすことができる。後ろ足も毛が落ちて、鹿のように細く伸びていた。靴だってちゃんと履いているし、服装もシャツにジーパンと人間らしいものになっている。成功だ。
顔を上げた大三郎はしかし、曇った父の顔を目にし、急速に心がしぼんでいくのを感じた。後ろでは兄たちが首を振ったり項垂れたりしている。
「顔に手を振れてみなさい」
父が苦い声で言った。恐る恐る触れてみると手のひらに触れたのはつるりとした肌ではなくふわふわの毛。そのまま上に手を伸ばしても手から伝わってくるのは触り慣れた毛の感触だけで、おまけに半円型の耳までしっかりついていた。
「ついでに言えば、尻尾も出てるよ」
三番目の兄が声を落として囁いた。慌てて後ろを振り返ると、ズボンの縫い目から尻尾が飛び出ている。
頭がタヌキの人間などいやしない。いくらこちら側に疎くなった人間といえど、これでは一発で正体を看破されてしまうだろう。
「これではお前を街に出すことはできないな」
心臓が握りつぶされたかのような痛みを発した瞬間、ぽんと間の抜けた音と共に、変化が解けた。空中に浮かんだ体は重力に従って落下する。着地体勢をとる前に尻に鈍い衝撃が走った。
「大丈夫か?」
「本当にどんくさいんだから。お前はまったく」
「どっか痛めているところないよね?」
駆け寄ってきた兄たちが鼻先でつついたり、慰めるように舐めてくれたりしたが、大三郎は顔を上げることができなかった。
なんでいつも上手くできないのだろう。兄たちと同じ、いやそれ以上に練習を重ねた。何度も宙返りしたし、何度も妖力を操る訓練をした。しかし結果はこれだ。
一度目はTシャツを着たタヌキだった。二度目は二足歩行のタヌキだった。三度目は上半身だけ人間だった。四度目が今回、頭タヌキ人間だ。
兄たちは一回で成功したというのに、何がいけないのだろう。
鼻がつんと痛くなる。涙腺をきつく締めておきたいのに、意思に反して視界が滲んだ。
「どうしてお前はできないんだろうなあ」
ため息混じりに落とされた父の呟きが胸をえぐった。兄たちは既に自由に人の形をとれるようになっている。今日の試験で大三郎が合格すれば、兄弟全員で街に遊びに行こうという話をしていたのだ。だがこれでは当然無理な話だ。
「いい土産もってきてやるからさ。そう落ちこむなよ」
「この前欲しがってたあのガラス玉つきの青い瓶もってきてやるから。な?」
そう言って長兄と次兄は鼻で顔をつついた。三番目の兄は何も言わずにただ一度身をすり寄せてから離れていった。恐らくいま大三郎に必要なのは慰めではなく、一匹の時間を作ってやることだと判断したからだろう。そしてそれは最適な判断だった。
大三郎は足に力をこめて駆け出した。驚いた兄たちが声を上げたが、追いかけてくる気配はなかった。
走って、走って、走って、走って。
突如、体が傾いた。不味いと思う暇もなく、盛大にこける。足元を見れば、湿った落ち葉が薄い層を作っていた。泥が鼻にこびりついて不快だ。
浅い水たまりには泥まみれのタヌキが一匹映っていた。
どうして自分は駄目なのだろう。兄たちと同じようにやった。父に頼んで何度も見てもらった。こっそり母に助言を求めたこともある。だができなかった。
水たまりに波紋が一つ、二つと生まれていく。水面に映るゆがんだタヌキは泣いているように見えた。
月が天辺に昇る頃、ようやく大三郎は住処に帰った。草むらをかき分けていけば、ふいにぽっかりと斜面に穴が現れる。元はアナグマが掘った穴だ。家主がいなくなったので、有難く使わせてもらっている。
全身葉っぱだらけになって帰ってきた大三郎を母は何も言わずに毛づくろいしてくれた。
兄たちは明日街に繰り出すとあって既に寝入っていた。微かな寝息が毛玉の山から聞こえてくる。
少し前までは心地よかった夜風も冷たくなってきた。大三郎はぶるりと体を震わせ、兄たちの間にもぐりこもうと足を向けたそのときだった。
「今度、一緒に街に下りようか」
はっと顔を上げると父が静かな目で見下ろしていた。すぐさま飛びつきそうになる自分を何とか制して大三郎は首を振った。
「でも人間にはなれないし……」
「タヌキのままだって、街に行くことはできるさ。道を走る金属の塊には気をつけなければならないけどね。それともお前は行く気がないかい?」
「そんなことない!」
思いのほか大きな声が出て、一瞬寝息が止まった。が、すぐに穏やかな音が流れ始めた。ほっと胸をなでおろして大三郎は父を見上げた。
「……でもいいの? 昼、街に行っちゃ駄目って」
「それは兄たちと一緒に街に出かけるのは無理という意味で言ったんだ。私と一緒なら問題ない。ああ、お前は遊んでいる暇はないぞ。勉強しに行くんだからな」
真面目くさった顔つきをしていたが、目をつぶってみせるその仕草は茶目っ気があった。きっと街に行けない自分のことを気遣ってのことだろう。大三郎は唇を噛みしめた。
だがここで断るのは父の心遣いを無駄にしてしまう。それは嫌だった。
小さく頷いた自分に父は満足げに笑った。
初めて入った街は人間であふれていた。匂いも音も森とは比べものにならないほど雑多で、情報が氾濫している。
よだれが出てくるような瑞々しい果物の香りや新鮮な生肉の香り。かと思えば冷水を突っこまれたかのような不快な匂いが鼻を刺す。人間が口にくわえた棒や金属の塊から吐き出すされる灰色の煙も好きになれなかった。とにかく沢山の匂いが織り交ざって、目が回りそうだ。
音も聞きなれないものが多い。無数の足音に人の声。金属の塊が通るたびに伝わる振動。聞きなれぬ鋭い高音。鳥たちのおしゃべりよりも騒がしくて今すぐ耳を塞ぎたいくらいだ。コンクリート製の建造物に挟まれた小さな畑まで父が案内してくれなければ、きっとどこかの道路の隅でのびていたことだろう。
「こら、ぼーっとしていると車に轢かれるぞ」
隠れていた草むらの脇を、金属の猪が凄まじい速さで走りぬけていく。あれに突っこんでこられたらひとたまりもないだろう。
「よく見なさい。人間の動き、話し方、表情の変化。細かいところまで全部見落としちゃいけないよ。ちゃんと目に焼き付けなさい。お前に足りないのは想像だ。人間の造形が理解できていないんだ」
父が指さした先には一組の男女がいた。男はしきりに女に話しかけているが、女はつんとそっぽを向いてほとんど無言だった。まるで求愛に失敗したハトのようで他人事ながら悲しくなった。
「こら、憐れんでいる暇はないよ。人間たちの歩幅は? 視線の方向は? 手の仕草や口の動きは? ちゃんと観察しないさい。私たちの体と人間の体はまったく違うものなのだから、人間の自然な動きを身につけるにはコツがいるんだよ」
そう言われたので大三郎は意識を引き戻し、もう一度男女を観察した。
男のほうが手も足も動かすのが早い。女の人のほうが歩幅が小さい。女の人の靴は片方だけ上がっていて走りにくそうだと思った。
凝視し続けていたせいだろうか。ふと女が足を止めて振り返った。長いまつ毛に縁取られた瞳が驚愕に見開かれる。
「ネコ? じゃない。……タヌキ?」
「走れ!」
女の人が呟いた瞬間、父が叫んだ。反射的に体が動いた。
「タヌキ、タヌキだわ! こんな街中で見られるなんて」
「え? どこどこ」
「ほら、そこ! いま草動いているじゃない」
後ろがにわかに騒がしくなったが、確認している暇はない。死に物狂いで大三郎たちは森へと逃げ帰った。
そんな刺激的な冒険をした大三郎だったが、その努力のかいもなく、やはり完全な人間に化けることはできなかった。どうしても尻尾と耳が隠せないのだ。
両親は化けダヌキにしてはあまりに不出来な自分を心配してか、子離れの時期になってもなかなか手放そうとしなかったが、いつまでも親元にとどまっているほうが不健全だ。
「普通のタヌキでも十分幸せにやっていけるからな」
「そうよ。人にならなくたって生きていけるんだからね」
両親は最後まで自分を心配していた。変化の術を身につけなくとも生きているタヌキは大勢いるのだと口を酸っぱくして、末っ子の門出を見送った。
だが両親の願いとは反対に、大三郎は決して化けダヌキになるのを諦めたわけではなかった。
独り立ちしてからも、大三郎は練習を続けていた。どれほど宙返りしても上手く化けられないのなら、葉が悪いのかもしれない。そこでいつも使う葉とは違うものを試すことにした。松も試した。銀杏も試した。おおよその葉は全て試した。駄目だった。
では果物や野菜ならどうか?
この前は柚子をのせて見たが駄目だった。今日はみかんの日である。民家の庭先に転がっていた、まだ青いみかんを頭に乗せて家路を急ぐ。と、そのとき、突然声が上から降ってきた。
「やあタヌキくん。人に化けるだけじゃ物足りなくなって、今度は鏡餅にでもなるつもりかい?」
声の主はブロック塀の上にいた。金の目を弧にして、にやにやと自分を見下ろす一匹の三毛猫。その尻尾の先は二つに裂け始めていた。
「いや頭に乗せるものを変えたら上手く化けられるかもしれないと思ってね。別に鏡餅になりたいわけでは……。あ、でも完璧な鏡餅になるならいいのかも」
なにせ一度も完璧な変化ができたことがないのだから。これではぶんぶく茶釜のタヌキを笑えない。いや彼は最後こそ正体を出してしまったが、始めは完璧な茶釜になっていたのだから一度も成功していない自分より彼のほうが上だ。
なんてことをぐるぐる考えているうちに笑い声が降ってきた。
「なんだ、本当に鏡餅志望だったのかい?」
「いや、だから私は完璧な変化がしたいだけで、別に鏡餅志望というわけでは……」
「タヌキなんてそれこそ化ける妖の代名詞じゃないか」
「私は出来損ないなんだよ。今まで一度も変化に成功したことがない」
肩をすくめると、三毛猫は片眉を上げてこちらを見つめた。真偽をはかるような目つきを真っ直ぐ受けとめる。そのまま二匹はしばらく見つめ合っていたが、先に目をそらしたのは三毛猫のほうだった。
「どこの世界にも落ちこぼれはいるもんだね」
「それはそうだよ。でも君だって猫又になりかけているんだから、そのうち人にもなれるんじゃないのかい?」
「まだなりかけさ。……それに今はただの猫でいいよ。そっちのほうがあの人たちにとってもいいだろうしね」
目をそらしたままぼそぼそと三毛猫は答えた。その声音が春の日差しのように優しくて大三郎は頬を緩ませた。
「大事にされてるんだねえ、君」
「うわ、その顔嫌だな。鏡餅志望のくせに」
やれやれと首を振って、三毛猫はブロック塀から飛び降りた。危なげなく着地した彼はちらりとこちらを振り返った。
「そういえば知ってるかい? ここから少し離れているけど、尾曾山ってところに、一人天狗が住み着いているらしいよ? 天狗と言ったら多彩な妖術を使うことで有名だろう。聞く限り粗暴な性格でもなさそうだし、どんくさい君でも懇切丁寧に教えてくれるかもね?」
「それは本当かい? ありがとう! いい猫だね、君」
大三郎はぱっと顔を輝かせた。
尾曾山の場所は大三郎でも知っている。清らかな川が流れ、かつては多くのカワウソが住み着いていたという山。タヌキの足では少し時間がかかるが、数日かければいける。
天狗は今でも有名な妖だが、深い山奥に住んでいることが多く、街の近くに住む大三郎では滅多にお目にかかれない妖怪だ。
それがまさかこんな近くにいるとは。
素直に礼を口にする大三郎に、三毛猫はひげを震わせ、何やら気まずそうに口を動かしていたが、結局何も言わずに背を向けた。
「ま、立派な鏡餅になれることを祈っているよ。正月までに間に合うといいね」
「だから私は鏡餅になりたいわけでは……」
大三郎が言い終わる前に三毛猫は角を曲がって姿を消してしまった。
早速翌日から大三郎は尾曾山へと向かった。
初めて踏み入った尾曾山は人間によって草木を刈りとられ、頂上まで歩きやすいように道ができていた。こんなに人の気配がする山で果たして天狗などいるのだろうか。山の中を歩いてみたが、それらしき気配はない。
「たしかここにいるって聞いたんだけどなあ天狗」
酷使してきた足が悲鳴を上げている。川辺に座って大三郎はため息を落とした。
あの三毛猫が嘘をついていたのだろうか。いや彼は少々ひねくれている感じはしたが、嘘を言っているようには思えなかった。
きっと自分の探し方が悪いのだろう。天狗なのだから何かの術で住処を隠しているのかもしれない。仮にも妖術をかじったタヌキだというのに、術の端切れも掴めないのは情けない限りだが。
「なんだ、また猿じいの客か」
水音と共に話しかけられた。顔を上げると、一匹のカワウソが川からこちらを見ていた。
「カワウソ? まだいたのかい? 驚いたな」
「なんだ、儂が生きてちゃいかんのか!」
思わずこぼれたひとり言にカワウソが噛みつく。大三郎は慌てて首を振った。
「いやカワウソはずいぶん数を減らしたって聞いたからさ。ところで君はここに住んでいる天狗のことを知っているかい?」
「ふん、この川の主、権次郎に知らぬことなどありはしないわ。猿じいのことだろう?」
「知っているのかい!? 彼がどこにいるのかぜひ教えてくれないか?」
大三郎は川に足を踏み入れた。ひやりと冷たい水が足をぬらしたが構いやしなかった。急に距離を詰められた権次郎はぎょっと顎を引いたが、取り繕うように咳払いをした。
「いいだろう。しかしそのためには献上物の一つや二つはないとな――」
「柿ならあるけど食べるかい?」
「カワウソが柿を食べると思うのか! 馬鹿者!」
「じゃあミミズ……」
「ミミズも食わんわ!」
権次郎は怒鳴った。ミミズ美味しいのになあ、と考えていることに気づいたのだろう。権次郎がこめかみに青筋をたてる。権次郎が更なる罵詈雑言を口にしようとしたときだった。
「おや、わしの客か?」
どこからともなく老人の声が聞こえてきた。瞬間、霧が立ちこめ、視界が白に染まった。
視界が晴れたとき、そこは別世界が広がっていた。
切り立った崖に一本の松。その下には薄っすらと霧がかった森が広がっている。人の気配はなく、空気は澄んでいるのに濃密で重い。
その松の木の根元に人影があった。ゆったりとした鈴懸に黒の結袈裟、山伏の恰好をした白髪の老人の背にはカラスのような濡れ羽色の翼が生えている。
「最近はやけに獣が訪ねてくるな。いったいどんな噂が流れていることやら」
天狗は微笑んだ。温和な雰囲気に密かに安堵の息をつく。天狗は高度な妖術や便利な道具を持っているせいか傲慢な性格の者も多い。機嫌を損ねれば、あっという間に焼きタヌキになってしまう可能性もあった。
だがこの様子なら教えを乞うてもきっと快く教えてくれるだろう。
「変わり者の天狗が住んでるからみんな気になるんじゃないのかい? 鳥なのに一匹狼の天狗なんて、ねえ?」
松の木からカラスがからかう。しかしそれに気を悪くすることなく、天狗は髭をさすった。
「ほう。では変わり者の天狗を見にきたとな。すまないのう。珍しい術は何も見せてやれんが」
「いや、私はあなたの姿を見に来たわけじゃないんだ」
大三郎は息を吸いこんだ。
「私に変化の術を教えてください!」
森閑とした山に己の声が響きわたる。どこかで小鳥が飛び立つ音がした。
天狗はぽかんと口を開けたまま固まっている。
「……それはお前の同族に尋ねたほうがいいのではないか?」
「私の親は化けダヌキで私に何度もその術を教えこもうとしてきたんですが、まったく上手くならなくて。天狗は高度な妖術を持っているし、その分目も肥えているから、両親や私では気づかなかった原因を教えてもらえるかと思って。駄目だったでしょうか?」
天狗はしばらくひげを撫でて逡巡していたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「まあ、そういうことなら構わないが……。大した助言はできぬかもしれんぞ」
「いいえ、見てくれるだけでいいんです。ありがとうございます!」
「では、早速お前の術を見せてもらおうかな」
ふいに藪が揺れる音がした。一斉に全員が後ろを振り返った。
「なんだい、この空気。猿じい、また変な奴拾ってきたんじゃないだろうね」
草むらから顔を出したのはきつい目つきをしたイタチだった。
「違う。この者はわしに教えを乞いにきたタヌキだ。名は……」
「大三郎です」
大三郎は天狗の言葉を引きついだ。
「だ、そうだ。そういやわしの名前を言ってなかったな。わしの名前は猿彦。ここでは猿じいと呼ばれている」
挨拶するように手を伸ばしてきたので、大三郎も挨拶の代わりに指先に鼻をつけた。
「おい、それは自己紹介か椎菜」
「あんたのことを言ったのさ、権次郎」
にやにやと笑う権次郎にイタチは鋭く返した。権次郎は鼻先を噛みつかれたように飛び上がって、大三郎を盾にするように後ろに回った。
「ええい、儂を馬鹿にするなよ。儂を怒らせたら、酷い目にあわせるからな、この化けダヌキである大三郎が」
「ええっ!? 私?」
ぎょっと権次郎の顔を見たが、権次郎は「ほら、お前も何か言い返せ」だの「化けダヌキの根性を見せてみろ」だの煽るばかりで椎菜を宥める言葉一つとして出てこない。
「はっ、虎の威を借る狐ならぬ狸の威を借る獺ってわけかい。で、化けダヌキの大三郎とやら、私とやるのかい?」
椎菜の口からは鋭い牙が覗く。全力で噛みつかれたら、易々と皮を貫通するだろう。己の顔から血の気が引いた。
青い顔で首を何度も振るも、椎菜は戦闘態勢を崩さない。空気が張り詰める。
「まあまあ、お前たち落ち着きなさい。権次郎は大三郎を巻きこむんじゃない。椎菜もだ。喧嘩を吹っかけるのはやめんか。大三郎が可哀想だろう」
見かねた猿じいが口を出してくれなければ、一発きついのをお見舞いされていたことだろう。
これが椎菜との出会いだった。
鎌鼬の椎菜はなぜかいつも一匹だった。権次郎と折り合いが悪く、大三郎が猿じいのもとで修行する頃には尾曾山を出て、近くの森の廃寺に住み着いていたらしい。大三郎と会った日はたまたま顔を出しに来ていたのだ。
椎菜は物事をそつなくこなせる性質だった。大三郎が上達しない一方で、暇つぶしついでに傍らで見学していた椎菜のほうが変化の術を習得してしまったほどだ。葉も乗せずに一回転しただけで完璧な人間の女性になったときは、さすがに泣きたくなったが。
椎菜は怒ると恐ろしかったが、面倒見も良かった。落ちこんでいると木の実やら、昆虫やらをくれた。失敗続きの日にはその優しさが目に沁みた。
だがいつも寂しい影がついて回るイタチだった。猿じいを樹上でからかったカラスのヤタとは旧知の仲のようで、ある程度親しみを持って接していたが、他とは明確に一線を引いていた。雪の中、一本だけ立っている木のような生き方は見ているだけで寒そうだったが、所詮他人、いや他獣のタヌキにできることなど限られている。大三郎は知り合いとしてできる付き合いを続けるくらいしかできなかった。
のちに、弟たちが人間に殺されたのだと聞いてようやく彼女の生き方に納得した。彼女はもう弟たちのような近しい者を作りたくないのだろう。一向に番をとる気がない姿勢からもそれはうかがえた。
だから話の流れに流されたとはいえ、人間の少女、雪華を引き取ると言ったときは驚いたものだ。誰とも距離を置いていた椎菜と、唯一の肉親に見捨てられた哀れな少女が上手くやれるとは到底思えなかった。
実は同族や猿じいに頼んで、無理そうであれば然るべき場所に保護してもらおうと手を回していたが、それは二人の家に初めて訪問した際に杞憂となった。
口調こそきついものの、慣れないなりに椎菜が奮闘し、雪華を気遣っていることがわかったから。あの眼差しは幼い自分たちを見守る母に似ていた。雪華はまだ距離を測りかねている様子だったが、きっかけさえあれば打ち解けるであろうことは大三郎の目にも明らかだった。
ああ、きっと二人は大丈夫だと。椎菜に任せてよかったと。ぎこちないながらも親子をやる二人を見て、大三郎は心の底から安心したのだ。
一度親子関係の解消の危機はあったものの、今も二人は同じ屋根の下で暮らしている。
この前、知り合いからいい大根をもらったことだし、それを届けに行こうか。
すっかり大きくなった女の子と小さなイタチを照らす温かな明かりを思い浮かべ、大三郎は微笑んだ。