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【小説】ブレイン・ペット 第5話
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動画の内容はある寄生虫の生態についてだった。
その侵略者の名をロイコクロリディウムという。鳥に寄生する生き物なのだが、子孫を増やすためカタツムリを「足」にするのだ。本来物陰に隠れているカタツムリを日向に誘導するだけでなく、触角を膨れ上がらせたロイコクロリディウムの袋は特徴的な縞模様とその蠢く姿から鳥の大好物である芋虫と誤解させるのだ。それにまんまと引っかかった鳥はカタツムリの命ごと虫を腹に収める。そして鳥の中で新たな命を紡がれていく。
運び屋にされたカタツムリは自分が何をやっているのか理解することもなく、その生を侵略者にこき使われて終わる。ただ命を繋げるためだけに。たったそれだけのために。
あまりに容赦のない仕打ちに男はやるせない思いを抱いた。カタツムリがいったい何をしたというのだ。普通に生きていたカタツムリが体を乗っ取られ、何が何だかわからないまま使い潰されるなんて。
しかしこいつだけが残酷な生き方をしているわけではないらしい。動画の最後に「別の動画でもキモカワイイ寄生虫たちを紹介しているのでぜひ見てね!」とありきたりな決まり文句がとってつけられていた。
男はそのアカウントをタップした。ずらりと並ぶ動画を一瞥し、右下に浮かぶ数字を確認する。どれも十分をゆうに超える数字ばかりだ。男はため息をついた。
男はパソコンを開き、検索バーにワードを打ちこんだ。
「脳 操作 寄生虫」と。
しかしやはりというべきか真っ先に出てくるのは空遊病のサイトばかり。今はお呼びではないので、マイナス検索に切り替える。それでもおびただしい数の検索数が表示された。
男は早速一番上のサイトをクリックした。
ロイコクロリディウムのような生活をする生き物は地球上でもかなり幅広く存在しているらしい。それこそロイコクロリディウムと同じ吸虫から昆虫、キノコ、細菌、ウイルスまで男の想像を遥かに超える世界がそこにはあった。例えば、
ロイコクロリディウムはカタツムリの脳を操作し、臆病なカタツムリを活動的な性格に変え、わざと鳥に見つかりやすくする。
ハリガネムシは寄生した昆虫の栄養を奪うだけでなく、最終的に入水させる。
トキソプラズマに感染した人は失敗を恐れる気持ちが低い一方、注意力が散漫になり交通事故に遭う確率が高くなる。
では空遊病は?
――自分は?
ぞっと項の毛が逆立った。
ブレインが住み着いてから過去の失敗に足をとられなくなった。恐ろしい上司の前でも汗腺や心臓がバグを起こさなくなった。
それが彼らの「母体」の贄にするための装置だったとすれば? 運び手が恐怖を覚えないように、警戒しないように本能を麻痺させるクスリだったとすれば?
そもそも男がブレインに好感を抱いたのも、奴の策略ではないのか? ブレインは男がいなければ生きていけない。男が腕をかきむしって虫を殺さないように血か何かを通じて男の脳に働きかけているのではないだろうか。それとも既に脳に?
いや自分は他とは違う。ブレインと自分は寄生よりはむしろ共生に近いはずだ。男が体を貸す代わりにブレインは男のトラウマを取り除く。どちらにも益がある共益関係を築いているはずである。だってブレインがいなければ男は未だ自分の意見もろくに述べられない臆病者だ。毎日毎日上司のサンドバッグにされる会社の最底辺だ。気になる女性一人ろくに食事の誘いも取り付けられない小心者だ。だからブレインが必要なのだ。
――本当に?
現時点では感染性はないのかもしれない。共生できているのかもしれない。だがひとたび脳に行ってしまえば、奴はすぐさま牙をむくだろう。その瞬間、男はパートナーから仲間を増やす苗床に転落だ。
だがだからといって病院を頼れるのか? 検査が陽性であれば感染性の有無にかかわらず政府や世界は排除しにかかるだろう。あるいは冷たい研究室の中でサンプルとして飼われるか。陽の光も差さない狭いケージの中で一生を終えるラットのように。
だが奴が脳まで到達してしまえばどの道結末は同じだ。他の犠牲者と同様、遅かれ早かれ項から血と子虫をまき散らしながら死ぬ。だったら世のため人のためにも今のうちに自分ごと終わらせるべきではないのか。
嫌だ。死にたくない。他人なんて知ったことか。苦しかったとき、誰も手を差し伸べてくれなかったじゃないか。なぜ自分を見殺しにした奴らのために自己犠牲を払わねばならない。
だがその「生きたい」という気持ちすらもブレインの願望ではないのか。
違う! 死を恐れるのは、生に執着するのは生き物として当然のことだ。これは決してブレインの、ちっぽけな虫の思いなどではありはしない。百パーセント自分の望みだ。
――本当に?
ならば傷口に超純水をぶっかければいいじゃないか。前みたいに皮膚を引き裂いて虫に直接かければ奴は死ぬ。
男は腕に貼られた絆創膏に目を向けた。その下には図々しい居候が今も己のエネルギーをすすって浅ましくも息をしている。ほんの数時間前までは幸福の象徴だったそれも今や疫病神、いやそれ以下だ。
しかしブレインを排してしまえばまたモノクロの日常に逆戻りするのではないだろうか。いいのか? バーコード頭になぶられて、係長からはだんまり君と嗤われて。「あーあ、結局まぐれだったのね」と女性社員からは嘲笑の的にされて。そんな状況に耐えられるのか?
笑い者にされようが死ぬよりはマシだろう。そもそもこんな考えが浮かんだのも奴の策略なのではないのか。
違う。自分はただ訪れるであろう未来を想像しただけだ。先を予想するなんて人間誰しも持っているものだろう。これはただの想像だ。自分の脳が生み出したイメージだ。
――本当に?
『空遊病根絶から十年が経ちましたが、アメリカの――大学が原因生物の生活環について新しい仮説を発表しました』
ふいにアナウンサーの声がよみがえった。どこかで聞き流したニュースの断片。意識の隅にも置かなかった記憶のゴミ。そのガラクタがにわかに輝きだした。
そうだ。空遊病の生活を知れば自分の置かれている状況がわかるかもしれない。まずは敵を知れと偉人も言っていたではないか。
男はキーボードを壊す勢いで文字を打った。結果が表示されるわずかな間すら惜しかった。
検索画面のトップに踊り出たのは英語で書かれた論文。それを翻訳にかけて端から端まで舐めるように目を通す。
その内容を要約すると以下の通りだった。
脳網虫は多くの寄生虫と同じように幼虫の宿主である中間宿主と、成虫の宿主であり有性生殖を行う場でもある終宿主が存在すると思われる。人間は本来の宿主ではないが不幸にも脳網虫にとって適応できる程度の環境であるらしく、仮初めの中間宿主の座に収まってしまった。
中間宿主に寄生した脳網虫は脳を操作し、哀れな犠牲者を空に「恋させる」。彼らは空を目指して上へ上へと登らされ、そして誘惑のダンスを踊らされるのだ。彼らの母体に見つけてもらうために。
恐らくこの生物の終宿主は鳥のような空を飛ぶ生物だ。その理由として脳網虫に感染した人間は恐怖や不安が有意に低下すること、特に高所に対する恐怖や自分より背の高いものに見下ろされる圧迫感が軽減されること、空の画像や高所に移動すると幸福を司るホルモンが上昇すること、見晴らしの良い場所で留まる傾向がみられることが挙げられる。
脳網虫は待っているのだ。他個体と交わり次世代にバトンを渡すことを夢見て。
だが残念ながら彼らの待ち人は地球には存在しない。だから脳網虫は有性生殖を行えない。その証拠に感染者から見つかった遺伝子配列は隕石から見つかった虫たちのパターンのいずれかに当てはまる。彼らは人間の体内では無性生殖しか行えなかったのだ。
つまり脳網虫は地球に不時着してからずっとクローンを作り続けていたのであり、感染者から生まれ出でた虫を子虫と呼ぶのは正しくない。正しくは彼らのコピーである。このまま彼らがコピーを作り続けていったところで行きつく先はどん詰まりだ。彼らの故郷がどのようなものであるかは推測することしかできないが、環境が大きく異なることはたしかだろう。人間が積極的に殲滅しにかからなくとも何かの拍子で全滅していた可能性が高い(ただしこれには希望的観測だとの意見もあった)。
終宿主が鳥のような生き物と書かれた一文を読んだとき、男は先ほど動画にあったカタツムリを思い出した。
哀れで間抜けなカタツムリと狡猾で残酷なロイコクロリディウム。それが男とブレインに変わっていく。
ブレインは他の脳網虫と違い、男の皮膚にとどまったままだ。だから今も男は空に焦がれることもなく、普通に生活できている。だがそれが男のためかと言われれば答えは否だ。たまたま獲物を捕らえておくためのクスリが上手く作用しただけであって、お互いの利を尊重した真の共生などではなく、数多の偶然の上にできた薄氷の平穏が男とブレインの関係である。いつ、どんな拍子に男がカタツムリに落ちるかは誰にもわからない。
ブレインにとっては男はただの運び屋であり、厳しい外界から身を守る盾であり、養分の提供者であり、それ以上でもそれ以下でもない。男が勝手に親近感を抱いて勝手に失望しただけの話だ。
ちなみに論文ではなぜ脳網虫にとって高純度のH2Oが毒なのかについての考察も語っていた。筆者によれば、彼らの故郷にH2Oが存在していなかった、あるいは超純水ほどの高純度の水に適応できなかったため死んでしまうのではないかとのことだった。
太古の昔、地球の生き物にとって酸素は猛毒だった。なぜなら元々地球に酸素はなかったからだ。奴らにとってそれが純水だったのだろう。
男は大きく息を吐いて、パソコンから顔を離した。
やはりブレインは殺すべきだ。いつ寝返って敵になるかわからない以上、生かし続けるのはリスクが大きすぎる。
せっかく人類が多大な苦労をかけて封じこめた虫を解き放つわけにはいかない。幸いにも高所や空に惹かれる衝動は起こっていないし、恐怖心の低下などはみられるものの未だブレインに変化はない。
だからといって脳に移行していないという保証はないのでは?
心のどこかからか囁く声がしたが、男は無視した。
病院は最終手段だ。
いくじなしめ。また心のどこかで冷めた目が男を見ていたが、男は気づかぬふりをした。自分の生き死ににかかわることだ。しかも後者の可能性が高ければ、誰だって真実の確認は先延ばしにしたくなる。
ふと親や友人たち、最後にネオン光を背景に微笑む佐藤の顔が頭をよぎった。
もう少し様子を見てもいいのでは? 悪魔が顔を出す。男は首を振って悪魔を追い出した。
ひとまず超純水がどこで購入できるか調べてみよう。
男は新しいタブを開いて検索バーをクリックした。
ボタン一つで注文が完了し、その数日後には品物が届く世界になったのだから先人たちの努力には頭が下がる。
男の目の前には段ボールが一箱でんと鎮座していた。先ほど届いたばかりの超純水だ。その量約20L。しかもコック付きだ。
男はそれを浴室に移動させた。ずしりと重みのあるそれは持ち上げるだけでもひと苦労だ。玄関から浴室まで、十歩もかからないほんの短い距離だというのにほとんど引きずるようにして移動させねばならなかった。よっこらせと浴槽の縁に段ボールを置くとなんだかそれだけでひと仕事終わった雰囲気が漂う。
男は袖にうっすらと透ける絆創膏に視線を落とした。
よれて端がやや黒ずんでいるウレタン不織布を慎重にめくる。そこには先日みたのとまるで変わらないこぶだったものがはんぺんのようにのっぺりと皮膚に浮かんでいた。無数に刻まれた不格好な溝も変わらず存在している。
男は深呼吸した。吸って、吐いて。もう一度かつて幸福の象徴であり、一度は良き同居人と認めたものを見据える。
そして男は据わった目で腕を振り上げた。
痛みと共に赤が飛んだ。しかし警告を告げる赤信号が点滅しようと男は手を止めなかった。再生したての柔い肌を破る。肉をえぐる勢いでひっかく。血が勢いよく溢れ出ても、滑らかな爪を汚しても、男は気に留めなかった。
気づけばあの日のように腕は血まみれで酷い有様だった。どくどくと流れ続ける幾筋もの赤い線と濡れた同色の肉。鉄錆びた特徴的な匂いが鼻腔をこする。
男はコックの真下に腕を開ける。
勢いよく流れ出る水が血を洗い流していく。透明な水に赤が混ざって、溶けて、薄くなって、排水溝へ吸いこまれていく。自分の命の欠片が消えていく。その中に別の命の粒が混ざっているのが見えた気がしたが、やはりどんなに目を凝らしても赤は赤のままだった。