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【小説】幻獣病理医パトロギの事件簿 第三話

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第三章「思わぬ邪魔」

 次の日。
 早速昨日採材した臓器の組織切片作りに取り掛かる。まずは一部薬品に漬けた臓器を取り出すことからだ。取り出した塊を薄く切り出すのは二人に任せ、パトロギはその間に組織切片に使わない腎臓の全体像の観察を行う。
 豆状の小さな臓器の表面には薄っすらと白い粒が全体にわたって広がり、中を開けば外側のほとんどがのっぺりとした赤黒い色へと変化していた。細胞が壊死している証拠だ。
 腎臓は皮質と髄質という外、内の二つの構造にわけることができるが、今回は皮質細胞の壊死が中心だったらしい。

「何かわかりましたか先生?」

 パフィンが横から覗きこむ。パトロギは首を横に振った。

「いや昨日以上のことは得られなさそうだ。とにかく組織像を見ないことには始まらないだろうな。このまま作業を続けてくれ。私は手頃なところで部屋の掃除に移るよ」

 炎色の瞳に力なく笑う自分の顔が映る。パフィンは柳眉をよせたが、気遣いの言葉を口にして、作業に戻っていった。
 掃除やら出さなければならない検査結果の送付やら症例報告をまとめているうちにいつの間にか太陽は西の山に沈みかけていた。

「やぁーっと終わりましたよ先生。僕めちゃくちゃ急いだんですからね。次の給料色つけてくれたっていいんですよ」

 心底疲れた様子を隠しもせず、ウィローは肉球の上に乗せたガラス片を差し出した。長方形の透明な板の上には指の爪にも満たない赤い点が鎮座している。知識ない者がみれば薄いカバーとガラス板に挟まれた奇妙な図形でしかないが、パトロギにとっては心から求めた宝だ。ペンを放り出し、壊れ物に触るような丁寧な手つきで標本を持ち上げた。

「ありがとう。助かった。早速みてみよう。賃金の件については、まあこの出来具合によるな」

 目の前の黒猫はあからさまに尻尾を床に落とした。

「ええー僕とっても頑張ったのに」
「なに馬鹿なこと言っているのよ。私が手伝わなきゃ倍以上かかっていたでしょ」

 パフィンが呆れた眼差しを向けたが、ウィローは耳をふさいで舌をだした。無言でパフィンは傍らの猫の頭を軽くはたいた。大げさに飛び上がって黒猫はパトロギの後ろに隠れる。

「じゃあ上手く出来ていたら給料の件考えてくださいね」

 だがしおれた態度から一転、尻尾を足に巻きつけ、大きな瞳でじっとパトロギを見上げてくる。パトロギは苦笑してよく毛づくろいされた頭を撫でた。

「そうだな。検討しよう」
「先生、そんなに甘やかすとつけ上がりますよ」

 腰に手をあててパフィンが渋い顔を作る。心なしか白衣の袖から覗く羽毛が逆立っているような気もした。

「安心したまえ、パフィン君。私の採点は厳しいからな」

 笑ってパトロギは検査室に足を踏み入れた。


 丸い画面に映し出されたピンクの塊を見渡す。ねじを回しながら一つの変化も見落とさぬよう注意深く。パトロギの骨ばった手が、動いては止まり、そのまま停止したかと思えば再び動き出す。眩い西日が窓から差しこみ、椅子の脚までその手を伸ばしていた。室内には時おり椅子の軋む音と白衣と机の間で擦れる音が落ちるだけであった。
 徐にくせ毛のある茶髪が持ち上がる。

「先生どうでしたか?」

 パフィンが静かに問いかけた。眼鏡をかけ直し、パトロギはため息と共に口を開いた。

「正直わからない」
「えっ!? お手上げってことですか? 病変の種類すらもわからないので?」

 ウィローが飛び上がってパトロギの隣にやってくる。背伸びして顕微鏡を覗きこもうとする頭を押しとどめて、パトロギは言葉を重ねた。

「いいや。予想通りの組織像だった」
「じゃあなんでそんなこと言うんです?」

 ウィローが首をかしげる。パフィンも近寄ってパトロギの目を見つめた。

「先生、組織像をみせてもらってもいいですか?」
「そうだな。そうするといい。君たちの意見も聞いてみたいからな」

 椅子をウィローに譲り、パトロギは壁に背をもたれかけ、顎に手を置いて考えこんでいる。黄色みの強い明るい茶色はレンズ越しに床ではないどこかを見ていた。
 二人は代わる代わる組織像を観察し、パトロギに顔を向けた。

「やはり石灰沈着らしき構造物がみえますね。あとは近位尿細管とその周りの細胞の損傷が大きいです。ほとんど壊死像だなんて、よほど酷い腎障害を起こしていたに違いありません」
「でもなんで皮質の尿細管だけなんでしょうね。糸球体からつながっている最初の管と間質だけ細胞が壊れているっておかしいでしょ。内側の髄質のほうはそこまで顕著じゃないのに」

 パトロギの視線は下に落ちたままだった。すらりと伸びた足が一歩前に出る。

「近位尿細管と遠位尿細管では役割が異なる。近位尿細管では糸球体で濾過された水分や必要な成分を再び取りこむのに対し、遠位尿細管では吸収も行うが、何より尿の濃度を調整するのが役割だからな」

 己の考えを整理するかのように、パトロギは部屋の中を歩き回り始めた。

「で、それと今回の病変に何の関わりが?」

 ウィローが急かす。爪がカリと机をひっかく音がした。

「働きが違うから原因によって壊れる細胞が変わってくるのよ。たとえば近位尿細管のほうはわざわざこしとったものを身体に戻さなきゃいけないんだから大きなエネルギーが必要でしょう? エネルギーを得るためには血液が運んでくる酸素が必要だわ。だから酸素が少なくなればより多くの影響を受けるのは糸球体から近いほうなのよ」
「物質を吸収するということは、細胞の中に取り入れることだからな。もしもこしとったものの中に有害なものが含まれていれば、その影響をもろに受けることになる」

 ようやくウィローの瞳に納得の色が浮かんだ。

「ふうん。じゃ、先生は酸素が足りなくなったか、なんかの毒物を食べちゃったのかって考えているんですか?」
「ああ。私が考えているのは後者だ」
「なんでそう言い切れるんです?」

 ウィローの眉が跳ね上がる。パフィンも動きを止めてパトロギの顔を見つめた。

「気になったのは全身に石灰がついていることだ。鳥の痛風というのは腎臓の働きが落ちたか、産卵時に代謝が進み、代謝物を外に出すのが追いつかなくなったときにみられる。今回の遺体は男性だから前者しかない。そしてその原因として考えられるのは三つ。食事バランスに問題があったか、特定の疾患か、中毒だ」
「あっ、つまり両者の原因を照らし合わせると、当てはまるのが中毒しかない。そう言いたいんですね」

 ウィローが手を打った。パトロギは頷く。だがその顔は浮かない。

「では先生は何に引っかかっているんです?」
「中毒の原因だよ。仮に中毒だと仮定した場合、いったい何が原因となったのか? それがさっぱり検討もつかないんだ。ガルダがまさか殺虫剤を飲みこむわけでもあるまいし」

 ガルダは非常に賢い鳥人だ。誤飲の可能性は限りなく低い。ましてや幼子でもない立派な青年が。
 パトロギは押し黙り、ぐるぐると部屋の中を歩き回り続けている。ウィローとパフィンは思わずお互いの顔を見合わせたが、良い考えは浮かんでこなかった。
 居心地の悪い静寂が部屋に満ちる。窓の外はいつの間にか茜色から藍色に変わり、星々が瞬いていた。パフィンが立ち上がって明かりをつける。青白い光は冷え冷えと周りを照らした。
 ウィローがひげをいじりはじめた。パフィンが軽く手をはたいたが、艶やかな黒毛に覆われた腕は数秒止まっただけですぐに再開する。パフィンは小さく息をついて、机の端に置かれた分厚い専門書を手にとった。
 沈黙が破られたのは次の瞬間だった。荒々しい足音と共に扉が乱暴に開かれる。

「病理医パトロギはここにいるか」

 現れたのは筋肉隆々のミノタウロスを筆頭にケルベロス、ドラゴン、グリフォンたち。大柄な男たちにはこじんまりとした検査室は手狭で、中にはドアの枠に頭をぶつけている者もいた。苦言を呈する暇もなく、鼻の先に金の紋章が突きつけられる。

「警察だ。急なことで申し訳ないが、ここに届いたガルダの遺体を引き渡し願えるだろうか」

 言葉こそ丁寧なものの有無を言わせる気がないのは明白だった。現にこちらの答えを聞かぬうちに屈強な男たちが部屋の中に踏み入ってきている。

「ちょっと、いきなり来てなんなんですか!」

 たまらずパフィンが目を怒らせた。ミノタウロスが冷たい目で睨みつける。それだけでパフィンの身体は震えた。が、後ずさりそうになる足を叱咤して、彼女は負けじと眼光を鋭くした。

「たかが一介の病理医には任せられない案件となっただけだ。いいからさっさと出せ。従わないというのであれば業務執行妨害で逮捕することになるが」

 これ以上は時間の無駄だと、男たちは作業を開始した。ケルベロスの太い腕が顕微鏡に当たって、ガラスの擦れる嫌な音がした。

「黙っていれば言いたい放題だな牛野郎! 警察がそんなに偉いかよ」

 ウィローが毛を逆立てて牙をむき出した。瞳の中で刃物のように鋭い光が輝いている。

「なんだと? 猫風情が偉そうに。故郷くにに帰ってミルクでも飲んでいたらどうだ」
「人間に出しぬかれたまぬけな牛さんには言われたくないね。あんたこそ薄暗い迷宮に戻ったら? 無理やり品行方正なふりするの疲れるでしょ? 自堕落な生活のほうが性にあっているんだし、牛のくせに猫かぶりしなくていいよ」

 ミノタウロスのこめかみに青筋が浮かぶ。拳を振り上げたミノタウロスの前に、黒猫を押しのけて何かが割りこんできた。

「まあウィロー君待ちたまえ。それから警察官殿、私の部下が失礼いたしました。ですがここは検査室。危険な薬品も取り扱っておりますゆえ、皆様には事務室のほうでお待ちいただいたほうがよろしいのではないでしょうか。それに罪もなき市民に手をあげたとなれば外聞も悪いでしょう」

 警察官たちを見上げる眼差しはどこまでも真っ直ぐで、落ち着きはらっていた。両者の視線はかち合ったまま動かない。息の詰まるような緊張感が辺りを満たす。先にそらしたのはパトロギを見下ろす濡れ羽色の目だった。
 ミノタウロスは緩やかに拳を下げ、鼻を鳴らした。

「……それもそうだな。おいお前ら、不用意に触るんじゃない。事務室で待機だ」

 顎をしゃくってミノタウロスは踵を返す。渋々ながら警察官たちはミノタウロスの後についていった。

「おい人間ども。俺たちは鼻がいい。隠し事したって無駄だぜ」
「だいたい警部補殿も慎重すぎるぜ。俺たちの鼻があれば危険な薬品なんて一発でわかる。こいつらの言うことなんて聞かずにガサ入れしちまえばいいのに」
「だよなあ」

 三つの頭が交互に喋る。ケルベロスは金の瞳に好戦的な輝きを宿して、唇から牙を見せつけた。

「ガサ入れって私たち何も悪いことしてないでしょう。これじゃ警察官じゃなくてならず者か強盗よ」

 パトロギが止める間もなく、パフィンが吐き捨てた。腕を組み、眼差しには軽蔑をのせている。たちまち暗闇色の尻尾が膨れ上がった。

「ああ? ハーピーのくせになんてこと言いやがる」
「盗人なんて残飯を食い散らかす卑しいお前のほうだろうが」
「そうだそうだ。俺たちのやり方に口挟んでくるんじゃねえよ」

 さすがのパトロギも頭に血が上った。彼女が彼女自身の種族にまとわりついた負の印象をどれほど気にしているか知っているだけに、今の発言は看過できるものではなかった。
 一歩踏み出したパトロギの肩を誰かが掴んだ。振り返ると唇を引き結んだパフィンが首を振っていた。喉から出かかった言葉は彼女の目を見た途端、腹の底に逆戻りした。普段暖かな火の色をした瞳は、極限まで冷え切っている。
 パフィンは顎を上げた。

「察しの悪いワンちゃんにははっきり言ってあげるわね。あなたたち、道具の扱い方が乱暴すぎるのよ。あなたがさっき当てた顕微鏡がいくらすると思っているのかしら。まあそれはこの部屋の中でも一番安いものだけど、中にはあなたの薄給じゃ何か月かかったって弁償できないものもあるのよ。何より、その手つきじゃご遺体を傷つけかねないもの。犬は犬らしく上司に従っていなさいよ」

 ケルベロスたちは言い返す理性すら失ったようだった。唸り声を上げて足を一歩下げる。飛びかかろうとしたまさにその瞬間、傍らにいた同僚たちがその首根っこを掴んだ。

「やめろ。俺たちの目的は被害者の遺体の回収だ。ここで下手ないざこざを起こしてうちの顔に泥を塗るんじゃない」

 触れれば切れそうなほど鋭い目で睨みつけたが、同僚たちは手を離さなかった。けっと唾を吐いて引きずられるようにケルベロスは部屋を出ていった。

「我々も急いでいるのでね。突然のことで悪いが、なるべく早くしたほうがいい。うちの若い衆や警部補殿の気が変わらないうちに」

 グリフォンは低く抑えた声で告げ、踵を返す。男たちの姿が完全に見えなくなってからパトロギは表情を緩めて、手を叩いた。

「さて、小言をいわれる前にさっさと終わらせてお引き取り願おうか。警察なんて物騒なものうちには似合わんしな」

 片目をつぶってパトロギは歩き出す。細い肩が小刻みに震えているのは気づかないふりをして。


 「これで全部だ。あと聞いておくものはあるかね?」

 差し出された遺体、臨床医の診断書、組織切片諸々を端から端まで検分し終わったミノタウロスたちは顔を上げた。

「結構だ。邪魔をしたな」
「では私のほうから一つ聞いてもいいかね」
「なんだ」

 夜を塗りこんだ瞳がじろりとこちらを見る。にこりとパトロギは笑みを作った。

「君たちの部署はセントラル第一部署かね?」
「だとしたらどうした」

 蹄が床を叩く。パトロギは緩く首を振って両手を上げた。

「いや確認したかっただけさ。他意はない」
「そうか。おいお前ら帰るぞ」

 はっと野太い返事と共に男たちは出ていった。扉が閉まったところできっとアーモンド型の目がパトロギを睨んだ。

「先生、なんでろくに言い返しもしなかったんですか。あんな横柄な奴ら、一言くらい嫌味言ったっていいでしょうよ」
「まあ招かれざる客だったのはたしかだが、余計な波風おこして業務執行妨害でお縄にされるのも困るじゃないか」

 頬を膨らませたウィローに苦笑を返してパトロギは言った。

「ひとまず今日の業務はここまでにしよう。みんな疲れたはずだからな。今日はゆっくり休もうじゃないか。お疲れ様」

 二人の顔は浮かなかったが、パトロギは知らぬふりで彼らの背を押した。

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