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【短編小説】灰色の晴天 表
男のついていない一日、奇妙な青年と遭遇する話
街中はまだ雨の匂いが色濃く残っている。曇天の下、男は人混みの中にいた。豊かな銀髪を後ろで束ねた彫りの深い顔立ちは、しかしお世辞にも機嫌の良い表情ではなかった。心なしか髪色もくすんでいる。
突如、クラクションの音が男の耳に飛び込んできた。と、一台の車が通り過ぎざまに泥水をはねあげていく。男の靴の先に濁った水がかかった。思わず舌打ちしそうになるのをこらえ、男は足早に人々の間をぬっていく。
「これならば近道したほうが早いか」
男はビルとビルの間の小道に足を向けた。が、その足はすぐさま止まる。
「なんだってこんな時に通行止めになっているんだ。こんな道誰も使わないだろう」
細い道の真ん中には大きく『工事中!この先通行止め!』と書かれた看板が置いてあった。周囲の建物の影に隠れた薄汚い壁にきつい黄色はやけに浮いて見える。男は今度こそ大きく舌打ちをした。
「仕方がない。大通りを通っていくか」
回れ右をして男は再び人混みの中に潜りこむ。今日はやけについていない。そもそもこんな人混みに入る羽目になったというのも、今朝いきなり仕事の内容が変更されたからだった。急な予定変更に男の心はささくれだつ。
気分転換に馴染みの喫茶店でも行こうか。丁度目的地の方向にあるのだし、コーヒーを一杯くらい飲む時間はあるだろう。そうと決まれば、重々しい足取りが幾ばくか軽くなった気がした。
喫茶店に向かう途中、やけに五月蠅い音が聞こえるビルがあった。見上げると頂上にクレーンが見える。鉄骨でも運ぶのだろうか。灰色の空に何ものせていない古びた錆色の重機が寒々しく映った。
扉を開けばカランコロンと真鍮の鈴が音を立てる。
「おや、いらっしゃい。久しぶりだねえ」
初老の店主が目尻に笑い皺を刻ませて出迎えてくれた。時間帯が微妙だからだろうか、クラッシックが流れる心地よい空間は店主の他に誰もいない。男は窓側の席に腰をかけた。大きな硝子張りの窓の外は人々がせわしなく流れていく。
「ああ、久しぶりだなマスター。コーヒーを一杯もらってもいいか?本当はゆっくりしたいが時間があまりないんだ」
「おや、忙しいのに来てくれたのかい?」
男の言葉に店主は片眉を上げた。
「今日はあまり運がないらしくてな。マスターのところで一杯もらってから仕事に向かおうと思っていたところだったんだ。ここのコーヒーはいつだって美味いからな」
「それは嬉しいねえ。でも残念だ。せっかく新作のデザートを作ったところだから是非食べて感想を聞かせて欲しかったんだけどね」
男はちらりと壁掛け時計を見上げる。この時間ならば茶菓一つ食べても余裕がある時間だ。しかし今日は妙な日だから何が起こるかわからない。念のため早めに行ったほうがいいだろう。
「悪いが――」
断りの言葉を口にしかけたとき、軽やかな鈴の音が響き渡った。扉から黒髪の若い男の顔が覗く。
「いらっしゃい」
店主が声をかけると青年は軽く会釈してから店内をぐるっと見渡し、最後にこちらに目をとめた。目と目が合う。と、彼の瞳が一瞬うるんだ気がした。
彼とどこかで出会っただろうか?
男は記憶を探ったが、引っかかるものはない。首をひねっていると彼は真っ直ぐこちらに向かってくる。
「すみません、相席してもよろしいですか?」
「いや、だが」
男の他に客はいない。だというのにどうして男の目の前に座ろうとするのか。男も店主も訝しげな顔で青年を見た。
「ちょうどこの席が気にいったんです。ダメですか?」
彼はにこやかな顔で問いかける。しかしどこか断りきれない圧を感じさせて。
「では俺が席を移そうか」
そう言って立ち上がろうとすると青年は緩く手を振った。
「いえ、いいですよ。貴方の方が先だというのに立たせるなんて申し訳ない」
ならばわざわざ俺の前に座る必要もないだろう。口まででかかった言葉を寸前で飲み込み、男は溜息をついた。
「わかった。好きにしろ」
「ありがとうございます。あっ、すみません。コーヒーとティラミス一つもらえますか」
青年はさらに笑みを深め、注文をする。すると店主は青年の言葉に眉根を寄せた。
「構わないが、なぜ君は新しく開発したデザートの名前を知っているんだね?私の記憶の限りでは君がここにきたのは初めてだし、誰にも言っていなかったはずなんだがねえ」
「ああ、別の店のメニューと混同していたかもしれません。申し訳ない」
彼は一瞬目を見開き、軽く謝罪した。
その割には手元の表に一瞥もくれる事無く、随分手慣れた様子で頼んでいたように思うのだが。何ともおかしな奴だ。
そうこうしているうちに頼んだものが運ばれてきた。深みのある落ち着く香りが店内を満たす。男はここの深煎りのコーヒーが気に入っていた。
艶のある濃い黒褐色の液体が揺れ、微かに湯気が立ち上る。彼の元には男と同じコーヒーとココアの粉化粧で着飾った洋菓子が鎮座していた。艶やかな女性を思わせる洗練された姿。しかし彼は一口もつけずに男の前に皿をずいっと差し出した。
「これ、差し上げます」
「どういうことだ? お前が頼んだものだろう」
顔をしかめて男が問うと彼は静かに微笑んだ。
「今日、俺とても良い事があったんです。だから貴方にもお裾分けしようと思って。きっと貴方が好きな味ですよ、これ」
ますます怪しさが増した。男は突き返そうとする。が、男が行動に移す間もなく青年はコーヒーを一気に飲み干すと席を立った。
「ごちそうさまでした。代金、テーブルに置いておきますね」
さっと机に視線を移すといつの間にか代金が置かれている。置かれた数枚の紙幣は男が頼んだ珈琲をいれても釣りが貰える金額だ。
扉を開けて彼は一度立ち止まり、こちらを振り返った。
「それでは、お元気で」
その顔にたたえていたのは美しい笑み。とても満ち足りた笑みだった。いっそ消えてしまうような儚ささえあった。
――捕まえなければ。
直感的にそんな言葉が頭に浮かぶ。胸に湧き上がる謎の焦燥感。何故かその手を掴まなければいけない気がした。これを逃せば大切な何かを失ってしまうような気がして。
男も慌てて外に飛び出す。蹴った椅子が後ろでけたたましい音を立てたが構わなかった。
しかし彼は色褪せた人混みに紛れてもう何処にも見当たらなかった。
「知り合いだったのかい?」
「いや、知り合いではない。初めて会った奴だ」
男の言葉に店主は眉をひそめる。
「じゃあ、何故――」
「だが、きっと何処かで会った気がするんだ。違うな。絶対に何処かで会ったんだ」
男には記憶はなくとも確信はあった。
今度会ったら一言言わなければな。
男は次こそは必ずと決意して倒れた椅子を直し、腰掛ける。カップを傾けて液体を喉に流し込めば、強い苦みとコクのある味が芳香と共に口の中を満たした。
男は目の前の洋菓子に視線を落とす。ひと匙、目の前の洋菓子を口に含んだ。舌の上を滑るなめらかなマスカルポーネチーズ。控えめな甘さと後を締めくくる上品なほろ苦さ。それはまさに男好みの味だった。