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【短編小説】クラゲの押し花

硝子板にはまった海の花。
老女と好色なクラゲ。クラゲに振り回される店主を添えて。

上記の以前書いた「グラスの夏海」と繋がってますが読まなくても読めます。

 ドッジボール大会のごとく投げ交わされる会話がふいに止んだ。初老の男は小瓶を磨く手を止めて顔を上げる。出入口の扉から客の気配は感じられず、変わった点も見受けらない。
 店主は首をかしげた。幽霊が通るという俗説で有名な、突然会話が止まる現象だろうか。それにしても普段は誰かが口をつぐんでも、他の者は気にする素振りすらなくおしゃべりに興じているというのに、一体どういう風の吹き回しか。
 脳裏に深い青がひらめく。海を閉じこめた美しい青が。今はもういない変わり者の旅立ちの日がよみがえる。あの子はかの青年とよろしくやれているだろうか。あれから一度も呼ばれていないので、きっとそれなりに楽しく過ごしているのだろうが。
 店主はふっと口元を緩めた。
 また誰かが行き先を見つけたのか。この空気からして常連のところではあるまい。新たな出会いの気配に口角が上がっていく。
 そのときチカチカとカウンター上の何かが明滅した。店主は鳶色の目を見開き、珍しくあからさまに瞳を揺らした。

「え? いやですが貴方、ここに来たの何日前だと思っているので? あまりにも早すぎませんか?」

 点滅は収まるどころか、むしろいっそう気を高ぶらせたかのように激しく光の強弱を繰り返す。

「はあ、わかりましたよ。まったく貴方の気まぐれには頭が痛くなります。振り回されるこちらの身にもなってください」

 店主は眉間をもんで重苦しいため息をついた。満足げに光が弱まっていき、やがて何事もなかったかのように何食わぬ顔で天板の上に寝転がっている。瞬間、待ってましたとばかりに店内がやかましくなった。
 店主はじろりと薄情者たちを睨みつけた。

「まったく貴方がたも止めてくれたっていいでしょうに」

 静寂が訪れたのはほんの瞬きにも満たない間で、すぐに喧騒が戻ってくる。店主はため息をついて、再び研磨布を手に取った。

 老女がその店の戸を叩いたのは些細な偶然が積み重なった結果だった。久しぶりに顔を合わせた友人とカフェで会話に花を咲かせ、彼女と別れた後も老女の胸の内は浮きたっていた。体に居座る高揚感が帰路から足を遠ざけ、華やかに彩られたショーウィンドウに引き止められては、また向かいの店の佇むドレスに惹かれてターンするということを繰り返していた。それはさながら花にとまって蜜を吸う蝶々のようだった。
 あっちへふらふら、こっちへふらふら、気のおもむくまま、誘われるがままに歩き回っていた彼女の目に、それはふいに飛びこんできた。
 深緑色のひさしをかぶったおしゃれなカフェと、着飾ったマネキンたちがポーズを決める洋服屋の間にそれはあった。薄く灰色がかった白壁にアンティーク調の扉がぽつりと立っている。隣には窓が一つついていたが、薄いカーテンがかけられ、ミステリアスなベールが店内を隠していた。薄布の向こうには植物らしき影が垂れ下がっており、隙間から食器やら本やら花やらが覗いていることから、どうやら雑貨屋らしい。
 しかし足を止める人は老女の他に誰ひとりとしておらず、まるで老女以外その店自体目に入ってすらいないようだった。
 明かりがぼんやり灯っているので、店に人はいるのだろうが、そもそも開いているのだろうか。扉にはopenともcloseともかかっていない。ダイヤ型の小窓はただ静かに老女を見下ろしているだけだ。
 だが老女には必ずあいているのだと奇妙な確信があった。無意識に取っ手に手が伸びる。扉はあっさりと開き、老女を中へといざなった。

「ごめんください」

 ふわりと独特な匂いが鼻腔をかする。中はしんと静まり返っていて、何の返答も返ってこなかった。しかし拒絶する空気も感じない。にわかに一陣の風が起こり、老女の背を押す。たたらを踏んだ老女の後ろで扉が閉まる音がした。
 そこは不思議な空間だった。まず目につくのは天井からぶら下がる大きな三日月のランプ。その周りにはいくつもの小瓶が垂れ下がっている。中で光り輝くのはなんだろうか。

「……お星さまかしら?」

 まさに星屑を集めたかのように、瓶の中には親指ほどの小石がぼんやりと青白い光を放っていた。滑らかな硝子の肌に触れると、ちりりと鈴の音のような音が鳴って、ほろほろと銀が散った。
 唐突に泣き出したいような気分が沸き起こり、老女は慌てて手を離した。彼らの寿命を削ってしまった。もう幾ばくかの命も残っていないというのに。そんな言葉が頭に響き、とっさに頭を下げて距離をとる。が、気まずさは拭いされず、逃げるように踵を返した。
 窓からは薄い光の筋が薄布の隙間から漏れ出ているが、それは窓の周りをわずかに照らすだけで、店の内を浮き彫りにすることはかなわない。両側には蔦が窓の枠を縁どるように垂れていた。揺れる濃い桃色のハート型の葉が微かに震える。さらさら、さらさらと揺れ動く葉を眺めているうちに、老女の胸に再び奇妙な感覚が湧き上がってきた。
 瞼の裏にかちっとした学生服を身にまとう青年の背が映った。ふいに青年が振り返る。黒々とした瞳が自分の姿をとらえた瞬間、強張った顔がやわらかく緩んだ。心臓が大きく飛び跳ねる。
 ああ、そうだ、彼は今は亡き私の夫だ。若かりし頃の、まだ付き合いたての頃の彼だ。あの頃は手をつなぐどころか、指先が触れあっただけで真っ赤になって飛びすさるような初心うぶな二人だった。当然口づけなんて夢のまた夢で、はしたないとすら周囲にはこぼしていたが、密かに期待していたのも事実だった。手もろくにつなげないくせに、目と目があっただけで、今日こそ唇同士が触れ合うのでは、と日ごと馬鹿な夢想を繰り広げたものだ。
 当時は、青臭く真夏の日差しのような恋情が、狂おしく胸の中を渦巻いていた。それでも表に出すのは気が引けて、何とも思ってませんよ、と淑女らしいお澄まし顔をしていた。もっとも夫の目には小娘が必死になって背伸びしているようにしか見えなかったようだが。
 その熱が今、体の中でごうごうと回っている。セピア色の思い出が急速に色づき始め、鮮明な映像として目の前に迫っていた。ああ、このまま駆けよれば――
 カツ、と硬い物同士が触れ合う微かな音ではっと我に返る。気づけば指先が桃色の葉に触れる寸前のところまできていた。危ない。先の失敗を繰り返すところだった。
 特に誰に聞かせるまでもないのに、咳払いを一つして老女は一歩後ろに下がった。
 音の出どころは窓の前の長机の上に飾られた食器が身を乗り出した拍子に擦れておきたものらしい。淡い緑の深皿や銅のマグカップの周りには干したハーブらしき植物たちが無造作に並べられていた。乾いて生気をなくした草花は、無気力に机の上に横たわっている。その色褪せた亡骸の中に何かが光る。……光る?

「別のところの商品が入りこんでしまったのかしら」

 枯草をかきわけようとして伸ばした指がひるんだ。また不用意に触れて彼らの体を損なったらどうするべきか。散らしてしまった星の欠片が老女を咎める。
 と、次の瞬間、触れてもいないのに草花がころりと転がって求めていたものの姿をさらけ出した。

「あら、風が吹いたのかしら。勝手に……」

 独り言にしては些か大きすぎる声で呟き、いかにも自分には何の非もありませんというていで、老女は現れたものを見下ろした。
 一本の枝。そしてその枝先に実る乳白色の木の実たち。硬質な輝きを放つそれは、もはや木の実というより真珠に近かった。いや違う。どうみても真珠だ。

「こういう芸術作品なのかしら?」

 植物と鉱物、異なるもの同士を組み合わせるアートの一種だろうか。それにしては元々真珠が実る木と説明されたほうがしっくりくるほどつなぎ目が完璧に隠されている。
 (最近の技術はすごいのねえ……)
 ふんふんと感心した老女は窓を離れて右の棚に目を移した。棚には分厚い外国の本がずらりと積まれて、ときどきその合間の空間に地球儀が鎮座していたり、占い師が使うような巨大な水晶玉が深い紫のクッションの上に腰を下していたりしている。
 奥には同じような棚がもう一つあったが、その前に何か大きな枝のようなものが突き出ている。老女は首をひねりながら歩を進めた。棚の奥行が長いのか中々枝の全貌が見えない。いよいよその姿が見えたとき、老女はあっと声を上げた。
 それは枝ではなかった。トナカイの角の先だったのだ。弧を描いて天に伸びる角と前に突き出る角は一本の大木から伸びる枝々のように伸びやかでかつ、思わず背筋が伸びる荘厳さがある。動物に詳しくない者でも、生前さぞかし美しくも気高い生き物であったと容易に想像がつくであろう。
 だが大きさ以外にもこの頭の剥製には異なる点があった。なんと上に向かって伸びた角の先端にはクリスマスツリーに飾るオーナメントが揺れていたのだ。これも先ほどみた枝と同じく、まるで角に実がなったのだと言わんばかりに自然としっくりくる形でそこにあった。真紅に刻みこまれた雪の結晶模様は彼の故郷の雪原を思い起こさせる。
 普通ならば完成した自然の美に人工物を加えるなど言語道断の所業であったが、これはあまりにも自然に溶けこみすぎて、拒否反応が起こるどころか元々この形だったのだと納得してしまえさえする。

「これが匠の技ってものなのかしらねえ」
「おや、これはこれは気づかずにすみません。いらっしゃいませ」

 はっと振り返ると白髪の男が立っていた。自分よりは少し若いだろうか。背は曲がっておらず、髪も髭も真っ白だが、一対の鳶色の目は衰えのない理知的な光を灯す。

「いえ、私こそすみません。勝手にお店の中を覗いてしまって」
「いえいえ、ご自由にみてくださってけっこうですよ。そういう店ですので」

 にこやかに笑みを返した店主だったが、突然笑みを消すと苦々しい表情で呟いた。

「なるほど、たしかに貴方が好みそうな人だ。いやしかし、このご婦人に勧めるのはあまりにも……」
「あら何かおっしゃいましたか?」

 きらっと一瞬、カウンターで青がきらめいた気がした。店主は苦りきった顔でカウンターを振り返り、重いため息をついた。だが再び老女に向き直ったときには既にその色は消え去り、穏やかな笑みを浮かべていた。

「いえ何でもございません。ところで奥様、押し花には興味ございませんか?」
「押し花、ですか?」

 きょとんと老女は瞬いた。

「たしかに本は読みますけれども、ええ。栞は足りておりますし……。何かおすすめがあるんですか?」
「そうですね。ちょうどいい品が入っているのですよ。もちろん強制はしませんが、ぜひ一目見ていってはいかがですか」
「まあそれでしたら」

 ここの店の商品は他ではまず見ないものばかりだ。たとえ買うには至らなくとも、目を楽しませてくれる一品には違いない。
老女は手招かれるままにカウンターに近寄った。また何かがきらりと反射した気がしたが甲板の上に光を反射するようなものはない。

「どうぞ」

 店主はカウンター脇に置かれた数冊の本やら小瓶やら雑多な小山の中から一枚の薄い板を引っ張り出してきた。それが目に入った瞬間、老女はひゅっと息をのんだ。
 極限まで薄く引き伸ばした硝子板の中に収められていたのは、半透明の楕円。中央には四つ葉のクローバーのような模様が花開いている。周囲には泡まで散りばめられていて、海からそのまま切り出してきたかのようだ。ふちをなぞると傘がたゆんと揺れる。潮の匂いがどこからともなく香ってきた。

「クラゲ、ですか?」
「ええ、奥様のおっしゃる通り。これはクラゲの押し花でございます」
「そんな。あり得ませんわ」

 クラゲの押し花だなんて聞いたことがない。クラゲの骨くらいあり得ないだろう。

「ああ、クラゲの傘の模様を花に見立てた作品ですのね。とてもよくできてますこと」
「いやいや、いくら技術の進歩が目覚ましいといえど、クラゲの動きまで再現することまではいきますまい」

 老女が反論する前に店主はさらに続けた。

「よくご覧ください。素直に見つめれば、きっと私の言葉が嘘でないということがわかるでしょう」

 困惑したまま店主を見つめたが、鳶色の瞳には噓偽りは何一つ見当たらない。
 まさかね。老女は恐る恐る硝子板を覗きこんだ。
 相も変わらず小さな海の中でクラゲはふわり、ふわりと揺らめいている。クラゲが一つ揺れるたびに、老女の意識もふわり、ふわりとぼやけていって、心地よい幸福感がひたひたと足を濡らした。
 広大な海の波間に揺られていつまでも揺蕩っていたい。潮騒を子守唄に、深い青のゆりかごの中でまどろむのだ。半透明の腕が巻きついていくのをぼんやり感じながら瞼を閉じようとしたそのとき。

「……さま、……くさま、……おくさま、……奥様!」

 強く揺さぶられて、はっと意識が引き戻される。気遣わし気な瞳と目があった。

「大丈夫ですか」
「え、ええ。ちょっとぼうっとしていたみたいで。ごめんなさいね」

 店主は首を振った。

「いえ、迂闊に勧めてしまった私の責でございます。これにきつく言っておきますので、もうよしましょう。お詫びに別のものを持ってきます。ご安心ください。今度のものは妙な真似を起こすような不届き者ではありませんし、どんなお客様にも似合う一品ですから」

 そう言って店主は抗議するように点滅するクラゲを荒っぽくポケットの中に突っこんだ。助けを求めるように時おりポケットから青白い光が漏れる。
 とっさに手を伸ばしそうになり、慌てて腕を抑える。微笑みを作って今にも奥に引っこもうとする店主を呼び止めた。

「そんな、いいですよ。私、これ気に入りました。お値段きいてもよろしい?」

 途端に店主は顔を歪めた。

「いいのですか、奥様。よく考えなさってください。今感じた幸福感は少しすれば消え去ります。早急に決める必要などないのですよ」
「いいえ、いいえ。私はこれがいいのです」

 店主はしばし考えこんでいたが、やがて長い長い息を吐き出した。

「わかりました。少々お待ちを。ご迷惑をおかけしたお詫びにサービスしますよ」
「えっ、よろしくて?」
「構いません。むしろそうさせてください」

 言い終わるや否や店主は足音をたてて今度こそ奥に引っこんだ。それから五分ほどだろうか。店主が押し花を手に戻ってきた。が、その付け根には先ほどまでなかった銀のウミガメの飾りがあしらわれている。

「お待たせしました。今回は大変ご迷惑をおかけしましたので、普段よりも割引させていただきます。普通は六桁いくところですが、諸々のお詫びをかねてごまんえ――」

 突如、ポケットがチカチカチカッと激しく明滅した。

「え? そう言われましても自業自得でしょう。ああ、はいはいわかりました。わかりましたよ。この格好つけめ」

 低い声で何事かを呟くと、店主は顔を上げた。

「失礼しました。一万円でいかがでございましょう」
「それは悪いですよ。いくらなんでも赤字じゃありませんか」

 そもそも迷惑を被った実感すらいまいちわかないのだ。元々六桁はくだらない商品を一万円だなんて。しかも美しいウミガメのストラップまでつけた上での値下げ。あまりに下げすぎていっそ心配だ。

「奥様、お気持ち大変よくわかります。詐欺か何かと疑われるのも当然。しかしながら当店は他の店とは少し事情が異なるのですよ」

 真剣な顔つきで店主は続けた。

「奥様、お気づきになられましたか? この店の商品は全て値札がついていないのですよ」
「えっ、あ、本当だわ」

 よくよくみればランプにも窓の植物にも本にも値札らしき札は一切見当たらない。

「この店はお客様ではなく商品が選ぶのです。値段も全て商品が決めます。ご安心を。趣味の延長線上に近い商いですし、もとより利益については考えておりませんから」

 嘘をついているようには見えなかった。というより嘘をつく道理がない。騙すにしても、どう見たって一万円ばかしの代物ではないからだ。

「どうか、これの顔をたててやってはくれませんか」

 老女はふうと息を整えた。

「わかりました。こんな老いぼれを選んでくれたのですし、買わせていただきます」
「そんなことありませんよ。これは無類の女好きですので、女性を見る目はあるのです。奥様は素晴らしい女性ですよ」

 老女は思わず吹き出した。

「あら、女好きなんですか?」
「それはもう酷いものですよ。悩みの種です」
「あらあら。じゃあすぐに飽きられちゃうかもしれないわ」
「大丈夫ですよ。一度気に入りますと一途ですし、何より変な真似はこの子がさせません」

 店主はウミガメを指さした。たしかに甲羅の筋まで描かれた精巧なカメのストラップだが、それ以外に特別なものは感じられない。だが彼が言うのならばきっとそうなのだろう。

「ふふ、わかりました。かめさんもこれからよろしくね」

 返事をするようにきらっとカメの目が光った気がした。

「それでは少しでも違和感を覚えましたらお呼びください。すぐに駆けつけますので」

 それから店主は押し花に視線を落とした。

「いいですか、次妙な真似をしでかしたら、そのときはわかってますね。この子が黙っちゃいませんよ。貴方もよくよく見張っておくように」

 クラゲには脅すように低い声で、ウミガメにはやや声を和らげながらも、しっかり念を押した。
 店主は手際よく薄黄色の包みにくるんで代金と交換する。

「それではまたのお越しをお待ちしております」

 店主の挨拶を背に、老女は店を後にした。
 軽やかな足どりで歩き出したところで、うっかり帰路とは反対方向に歩き出していたことに気づく。

「いやね。ぼけたくないっていうのに」

 くるっと踵を返した老女はふと店に目を向ける。そしてあんぐりと口を開けた。
 カフェと洋服屋はぴったりと隣あっており、そこに子どもが入れるほどの隙間も存在していなかった。

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