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【小説】ブレイン・ペット 第2話

第1話はこちら。

 論文の内容は男の状況と酷似していた。
 ひかない腫れとそこに刻まれた脳溝のような溝。だが診断の際の記録に対してその後の経緯はひどく簡潔だった。
 脳網虫感染症と診断された翌日に永眠。
 脳への移行はなし。感染性があるかは不明。亡くなった理由については、空遊病によるものではないとしか報告書には書かれていない。
 もしや自ら命を絶ってしまったのだろうか。罹ったら確実に死ぬ、しかも世界から恐れられる感染症に侵されたとなれば、その絶望は計り知れない。地獄の宣告を下されたとき、哀れな犠牲者は何を思ったのだろう。
 感情を削ぎ落した文字の羅列には何も感じ取ることはできない。患者が何を感じ、何を考え、どんな最期を迎えたのかその何もかも。
 心臓がドクドクと脈打ち、手先は冷えていく。
 もう一度腕を見た。やはりそこには小さな脳がちょこんと座っている。
 男の中にかっと灼熱のような衝動が走った。
「なんでだよ! なんで俺なんだよ!」
 腕についたこぶをかきむしった。それは思いの外柔らかく、まるで本物の臓器のようだった。
 脳脊髄液に満たされたプールの中に浮かぶ己の脳みそ。そこに群がる無数の虫たち。
 そんな妄想が頭に貼りつく。絶叫が上がった。
 男は何度も何度もかきむしった。消えろ、消えろ、消えてくれと懇願した。真っ赤な血がこぼれて、滑らかな爪を汚していく。あふれる鮮血は涙のように肌をつたった。それが余計に男の癪に障った。
 ふざけるな。泣きたいのはこっちのほうだ。なんで自分ばかりがこんな不幸に見舞われなければならない。自分は何も悪いことはしていない。理不尽に耐えながら慎ましく生きてきたではないか。これが許されるのならば神も仏もいやしないだろう。どうして。どうして。どうして。
 爪をたてるたびに血が流れる。痛みが走る。だが新たな傷をつくるたびに、腕を振り下ろすたびに、柔らかな塊がゆがんで、その身のうちで虫の断末魔が響く気がするとやめられなかった。
 気づけば腕は血まみれで、こぶはずたずたに裂けていた。お椀をかぶせたようなきれいな半円状は蹂躙され、はらわたを周りにぶちまけている。
 そこでようやく溜飲が下がった。興奮がおさまってしまえば、次にやってくるのは空虚な脱力感だ。
 いったい自分は何をやっているのだろう。癇癪をおこして、叫んで、自傷して。明日も仕事があるというのに。周囲のことも考えずに大声でわめいていたから近隣から苦情がくるかもしれない。空遊病になった確証もないというのに、感情に振り回された幼児のような言動をするなんて馬鹿みたいだ。
 ローテーブルをみると、暴れ回った際に腕か足をぶつけたのか弁当がひっくり返り、中身が散乱している。白い滑らかな板に冷めきった食材たちの残骸が浮いていた。
 男はため息をつき、緩慢な手つきで散らばった弁当だったものを片づけ始めた。

「だからさあ、お前何度言ったらわかるわけ? 俺は午前に完成させろって言ったよな」
 今日もバーコード頭が怒鳴る。言葉の拳が飛ぶ。それをノーガードで受け止めるしかない自分。いつもと変わらぬ光景、いつもと変わらぬ展開。
 今ならサンドバッグの気持ちがわかると思った。昨日かきむしった腕が袖の下でじくじくと痛みを訴える。今更になって後悔が寄せ波のようにやってきた。
 心臓が縮こまる。脈が乱れる。呼吸が不規則になる。
 大丈夫。いつもと同じように頭を下げて決まり文句を口にすればいつしか終わる。
 大丈夫。大丈夫。きっと大丈夫。
 手が汗ばむ。冷たく不快な汗だ。だが拭うことは許されない。
「おい聞いているのか」
 そのとき課長の背後の窓から光が差しこんだ。眩い光が瞳孔から神経を通って脳に届く。ぱちんと何かが弾ける音がした。
 ふいに心臓を鷲掴む手が消えて、体が軽くなった。
 目が合った。ネズミをなぶる猫のような残忍な光を宿した目だ。その目をじっと見据えてやると、思わぬ反撃を受けたかのように瞳が揺らいだ。その奥底に僅かではあるが、怯えの色が浮かんでいる。
 それを認めたとき、男は笑いだしたくなった。
 今までかなうはずのない怪物だと思いこんでいたものが、蓋を開けてみればちんけな怪獣のおもちゃだったときのような、拍子抜けした気分だった。
「はいすみません。資料はあと一時間もすれば完成すると思います。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんが、なるべく早く提出いたします。そのときは確認よろしくお願いいたします」
 はきはきとした声がオフィスに響きわたった。キーボードを叩く音か電話の通知音くらいしか響かない部屋が、それすらもなくなって息をひそめるかのように沈黙している。そのくせ視線は自分に集中していることが手に取るように伝わるのだからおかしなものだ。
 普段なら不要な注目を集めて汗が止まらなくなるだろうに、今は何も感じない。むしろ高揚感すら感じる。分厚い殻が崩れて、新たな自分が羽化したような、上手く言葉では言い表せないが、何かが決定的に変わった。そんな確信があった。
「あ、ああ。なるべく早く提出してくれ」
 課長はどもりながら、しかし威厳だけは保とうとするかのように胸を張ってみせている。が、目が泳いでいるのでまったく意味がない。必死に虚勢を張る様は哀みすら覚えた。
「はい、失礼いたします」
 靴音が鳴り響く。その間も視線は貼りついたままだ。全員が自分を見ている。やはり恐怖は湧き上がってこない。見たければ見ればいい。自分は逃げも隠れもしない。むしろ見せつけるように背筋を伸ばして席まで戻った。
「お、おいどうしちゃったんだよいったい」
 席につくや否や、加藤に話しかけられた。加藤はガワだけ同じの、中身は別人にすり替わってしまった知人に遭遇した人間のような表情を浮かべている。
「どうしたって何がだ」
「何がってお前自分でも気づいていないのか? 前まであんな……課長に口ごたえするっていうかさあ、今までさっきみたいな対応したことなかっただろ。どうしちゃったわけ?」
「いや思ったこと言っただけだ。話はそれだけか? 悪いが早く頼まれた仕事をやらなきゃならないんだ」
 加藤の言いたいことはわかっていたが、自分でも己の変化を理解できていないのだ。突然重石がどかされた感覚は、自分のものではないかのように動いた口は今まで抑えこんできた意思が爆発したものなのか。それとも他の何かが原因なのか。男にはまったく見当もつかなかった。
 再び腕が鈍く痛む。だが気に留めるほどでもない。
 加藤はちらりと周囲に目を走らせた。小動物が敵を警戒する仕草さながら、誰かが耳をそばだてていないか慎重に気配を探り、周囲の目が向いていないことを確認してから、ようやく口を開いた。
「まさかとは思うけどお前さ、ここ辞める気か?」
 最後の言葉は傍らにいる男でもよく耳をすませていなければ聞き取れないほど小さな声だった。
 それを聞いた瞬間、男は吹き出した。
「まさか。今のところその予定はないな」
「……そっか。いやそうならいいんだけどさ」
 加藤はまだ納得していなさそうではあったが、結局それ以上追及することはしなかった。
 

『空遊病根絶から十年が経ちましたが、アメリカの――大学が原因生物の生活環について新しい仮説を発表しました』
 テレビは未だ空遊病のニュースを放送している。
 その名前を聞きたくなかったので、男は席をたった。ちょうど食べ終わったところでよかった。空の器を食器返却口のところまで下げ、男は食堂を後にした。
 食堂を出るとアナウンサーのよく通る声も一気に遠のく。煩わしい単語も壁に阻まれて届くことはない。

 仕事を終えると、既に太陽は地平線の向こうに消えかけていた。燃えるような残照が最後のきらめきを空に添える。雲が紫の影となって細くたなびき、濃紺の帳には銀の粒たちがきらきらと輝く。四角い窓からは温かな光が漏れ出でていた。蝉がどこかで鳴いている。ここ最近は暑すぎて、昼間よりも夕方のほうが鳴いているのだ。
 そういえば子どもの頃はよく蝉をとって遊んだものだった。あんなに元気に鳴いていればすぐに敵に見つかってしまうだろうに、彼らのけたたましさは夏が終わるまで途切れることはなかった。
 エネルギーの塊のような彼らが一週間程度の命と知ったのはいつだったか。暑苦しささえ感じる彼らの叫びが命を燃料に燃える灯火だと知ったのはいつだったか。アスファルトに転がる死骸に物哀しさを感じるようになったのはいつだったか。
 夜に沈みゆく街並みを歩く。金曜日のせいだろうか、街行く人々が常より浮き立っているような気がしてならない。ネオン街に消えていく男女や赤提灯が垂れ下がる飲み屋に消えていくスーツ姿の男たち。
 祭りのような高揚感に浸るのは悪くない。自分も久しぶりに飲みに行こうか。
 外まで漂ってくる肉の焼ける香りに混じって煙草の煙がまとわりつく。
 店で酒を飲むなんていつぶりか。家で飲むときはあったが、ここ最近は酒を買う気力すら持てなかった。やはり一杯目は生か。缶でもビールは味わえるがキンキンに冷えたジョッキに勝るものはない。
 スマートフォンで検索をかけてみる。立ち並ぶ数多の吹き出したち。その中から特に良さそうなものを選んでルート案内をかける。
 意外と近い。横断歩道を渡って徒歩十分ほどにある。ずらりと並ぶ写真にはタレを滴らせる焼き鳥や大粒の雫をかくビール。見ているだけで涎が出てくる。
 信号は点滅していた。自然と足が速くなる。
 ププー!
 突如鳴り響いたクラクションに体が固まる。右折した車が横断歩道すれすれで止まっていた。周囲の人間が驚愕の表情でこちらを見つめている。
 正直言って車はまったく視界に入ってこなかった。イヤホンをしているわけでもないのにタイヤがアスファルトをこする音も気配すら耳に入ってこなかった。
 スマホに集中していたとしても注意力がなさすぎる。疲れていたのだろうか。今まではどんなにクタクタになった日でも車の気配は察知できたというのに。それとも久しぶりの飲みに浮かれすぎていたのか。
 不機嫌な顔した運転手にペコペコと頭を下げてそそくさと渡りきる。信号は赤になっていた。
 気分はすっかりしぼんでしまっていたが、わざわざ調べたのに、このまま帰るのも勿体ない。
 迷っているうちに足は勝手に歩みを進めていく。
 そうこうしているうちに店の前まで来てしまっていた。
 店は和モダンとでもいうのだろうか。上半分は漆喰、下半分は板があしらわれ、のれんは暗めの板にあわせたのかえんじ色。女性受けを狙うオシャレさはないが、大衆チェーン店のような安っぽさはない。三十代、四十代程度の落ち着いた年齢層をターゲットとした店のようだった。
 男はこの期に及んでもまだためらっていた。しかし客が出てきた拍子に店員と目が合ってしまう。
「お一人様ですか?」
 にっこり笑いかけられて、男に残された道は一つしかなくなってしまった。

 高評価がついている店なだけあって料理も酒も美味い。ぐっとジョッキを傾けるとビール特有の苦みときめ細かい泡が喉奥で弾けた。
 焼き鳥がおすすめとのことで手始めに皮とももを頼んでみる。皮はパリッとしていて香ばしさが肉の旨みを引きたて、ももは厚みがあって歯をたてればあっという間に肉汁が口内を満たした。
 美味い。文句なしに美味い。ここに通おうか本気で検討したくなるレベルだ。
「そういや鶏ってのは昔は飛べたもんらしい」
「へえ、あんな体形で? それとも昔はもっとすらっとした形だったていうのかい」
 隣の席に座る三十代後半から四十代近くの二人組が雑談に興じている。恰好からいって自分と同じサラリーマンだろうか。
 赤ら顔の二人が吐く酒臭い息が鼻腔を掠めたような気がした。
 話題をふっかけたほうは背が高く痩せ気味で、相づちを打つ男は背が低く小太りだ。対照的な二人だな、なんて思いながら何とはなしに男は二人の会話に耳を傾けた。
「いや体形はそこまで変わったわけじゃない。元々飛ぶのが得意ってわけでもなかったらしいが、人間が家畜化してしまったから飛ぶ必要がなくなって、おまけに肉をたくさんとるために改良されて、もうとてもとても空を飛べる体じゃなくなったようだ」
「へえ、ぬるま湯につかっているうちに本当に飛ぶのをやめちまったってわけか」
 飛べなくなった鳥か。かつて自由に駆け回っていた空が手の届かないところまでいってしまって彼らは何を思うのだろう。切り取られた狭い空を見て、悲しくは思わないのだろうか。悔しくは思わないのだろうか。
 もしも自分だったら――
 格子窓の向こうに広がる青に手を伸ばす。
 かちゃんと食器が擦れる音がした。はっと意識が引き戻される。
 手元には空の皿に置かれた串が二本、指先にはガラスの肌をつたう大粒の雫。先ほどの音は手を伸ばした拍子に当たった皿の音だったようだ。
 今日はずいぶん疲れているらしい。注意力散漫なだけでなく、妄想と現実の区別すらつかなくなりかけるとは。今日は早めに引き上げたほうがいいかもしれない。
 二人の会話は続く。
「でもいくら安全っていったって、その庇護者に最後は食われるってんだから、報われねえよな」
「だが野生だったらキツネやイタチに狙われたり、雨風しのげるところ探したり、毎日飯の心配をしなくちゃならないんだから、それもそれで大変だろう」
「ま、つまり自由だが日々生きるか死ぬかわからねえ野生の道をとるか、衣食住を保証されちゃいるが、自由のない期限つきの生か。俺ぁどっちかとるなら前者だな」
「だが俺たちの生活は後者じゃないか? 生活のために自由を捨てて、日々なあなあに生きる俺たちと、卵を産むか肉を育てるためだけに狭い小屋の中に押しこめられた鶏たちと何が違う」
 男ははっと二人を見た。酔っている割には細身の男の目は真剣みを帯びている。小太りの男が困ったように眉を下げた。
「そいつを言っちゃあおしめえだろうよ。もう自分を優先できる年でもあるめえし。俺にもお前にももう家族がいるじゃねえか。俺ぁ女房を捨ててまで自由をとるのは無理だな」
「……まあそうだな。俺にもお前にも縁のない話だ。忘れてくれ。せっかくの酒が不味くなってしまう」
 なんだか妙にしんみりとしているが、男の意識は別にあった。
 自由の代わりに安定をとる。必要がなければ切り捨て、退化させて他者に依存することも厭わない。
 生物にとっての正解がそれならば、その究極形は寄生虫ではないだろうか。
 相手におんぶにだっこで、益をもたらすどころか害すらある。だがひとたび外に出されればあっけなく死んでしまうか弱き生き物。
 ではなぜ彼らは自分たちを殺そうとするのだろう。わざわざ楽園を脱してまで彼らが再び過酷な外界に飛び出そうとするのはなぜか。
 彼らは何を求めているのか。そもそも自分はなぜ選ばれてしまったのか。
 腕がじくじくと痛む。
 やめよう。せっかくの料理が不味くなる。
 男は残った液体を一気に飲み干し、店員に声をかけた。
 
 店を出ると天鵞絨に銀紗をまいたような夜空が広がっている。人工的な光に負けず輝く星々はいつにも増して美しい。
 今日は早く寝て来たる月曜日に備えなくては。来週もバーコード頭を撃退できるとは限らないのだ。
 男は首を振って、人混みへ体を滑りこませた。

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