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【小説】龍成り 下

死んだ蛇を龍にするため、毎日読経と参拝に励む「私」は、友人から雰囲気が変わってしまったと指摘されたが――?

上記の話の続きです。これで終わります。

 肌にまとわりつく不快な熱気は、森に足を踏み入れるとすっと波が引くように消えた。
 夏でもここの空気は澄んでいる。階段を一段上るごとに汗が流れるが、生身のまま茹でられているような殺人的な暑さはない。
 深い緑に目を細めながら、夏でもここは静かだなと思った。もちろん、蝉の声は雨あられと降り注いでいる。だがそれは全て目に見えない膜を隔てた向こう側の音だ。冬の空気のように鋭く清らかな芯は、夏の盛りであっても一点の曇りなく、この空間の中心を貫いている。そのおかげか、流れる汗すら爽やかさがあった。
(うん、今日もいい空気)
 私は息を吸いこんで、鳥居をくぐった。
 紐を引っ張り、鈴を鳴らす。ざらついた音だ。滑らかな玉の表面に傷をつけるような雑音が鼓膜をひっかく。だが心の縁までは届かない。

『なんかさ、最近あんた遠いよ』

 美咲の言葉がよみがえる。
 遠い、のだろうか。でも何が?
 心乱れることは日々減っている。蛇のことを思い出しても、寒さを感じることは少なくなった。それでもまだふとした瞬間に心が軋む。
(修行が足りてないのかな)
 私は緩く首を振った。
 あの日誓った、蛇を龍にする意志は消えていない。龍にするという目標は確かにある。しかし、あの日胸に燃え上がった炎は小さくなったかもしれない。いや、熱が失せたといったほうが正しいか。炎は燃えている。だが温度がない。炎の映像をテレビで見ているようにぽっかりと距離ができている。
 それが正しいことなのかわからない。蛇に問いかけても返事は返ってこないのだから。しかし日に日に輝きを取り戻す鱗が私の行為を肯定している。だから大丈夫。きっと大丈夫なはずなのだ。

「何か悩み事でもあるのですか?」
「……え?」

 突然話しかけられて、思わず肩が跳ねた。声の方向に顔を向ければ、気遣わしげな顔をした神主が立っていた。
 あのとき声をかけてきたのをきっかけに、彼とは軽い世間話をするようになった。だが彼がこちらの事情に踏みこむことはない。軽い挨拶に天気やニュースの話題を一つ二つ付け加えるようになっただけだ。ささやかなプライベートはおろか、願い事の内容さえ彼は尋ねてはこなかった。
 それがなぜいま。
 私の動揺を見てとったのだろう。神主が苦笑した。

「すみません。差し出がましいとは思いましたが、どこか心あらず、といった顔をしていましたので、つい話しかけてしまいました。私であれば、お聞きしますよ」
「いえ、そんな……」

 首を振って断りかけたそのとき、再び美咲の言葉が脳裏をよぎった。

『なんかさ、最近あんた遠いよ』

 ぎゅっと手を握りしめる。汗で指が滑って不快だった。

「あの、実は冬にペットが亡くなって」

 神主はじっと私の言葉を待っている。心臓が跳ね上がって血液がごうごうと回った。

「最近は結構ましになってきたと思うんですけど、どうしてもふとした瞬間に思い出してしまって……。おかしいですよね。たかがペットごときに、もう死んでいるのに、こんな、こんな、諦め悪く縋っているなんて。でも、私、どうしても諦めきれなくて」

 正しくはペットではなく居候だが、いくら蛇の目くらましの術が効かない不思議な力をもった神主といえど、喋る蛇と一緒に暮らしていたなんて言った日には頭のおかしい奴だと思われるだろう。
 誤魔化そうと言葉を重ねるたびに、思考がこんがらがって、何を言っているのかわからなくなる。

「そんなことはありませんよ。ペットも家族と考える人は増えています。きっとその子はあなたにとってのご家族だったのでしょう。でもたしかに今のままでは少し危ういかもしれません」

 落ち着いた神主の声は混乱した頭にもすっと入りこんできた。

「ということで、出雲はどうでしょう」
「出雲、ですか……?」

 出雲ってどこだっけ。頭の引き出しをひっくり返していると、神主が私の思考を読んだように説明を付け加えた。

「ええ。出雲の国……島根県に実は黄泉の国の出口とされる場所があるのです。知っていましたか?」

 首を振る。神主は微笑んだ。

「日本神話に出てくるイザナギノミコトが死んだ妻のイザナミノミコトを諦めきれずに黄泉の国に向かったはいいのですが、イザナミノミコトとの約束を破り、変わり果てた妻の姿を見てしまうのです。怒った妻に追いかけられたイザナギノミコトが大岩で黄泉の国との出口をふさいだ場所、それが島根県にある黄泉比良坂です。
 実はそこに天国に送ることができるポストがあるんですよ。一度、紙に書いてあなたの今のお気持ちを送ってみたらどうでしょう。紙に書くと亡くなったその子とも、あなたの心とも向き合ってみると、今までとは違うものが見えてくるかもしれませんよ」
「そんなこと――」

 わざわざ手紙をしたためなくともやっている。何のために毎朝読経と参拝をしていると思っているのだ。何度も考えた。こんなことして本当に彼のためになるのかと。無意味な行為をただ反復しているのではないかと。
 だが現に効果は出ているのだ。私は間違ってない。私はちゃんと彼の夢を叶えるために一歩ずつ進んでいる。そのはずだ。

「まあ、そう言わず。たまには遠出してみますのも良い気分転換になりましょう。それに似た傷を抱えた人たちの願いが集まる場所です。その地の空気を吸ってみるだけでも何か得られるものがあるかもしれませんよ」

 神主は宥めるように優しい口調で言った。
 ここであからさまに無視するのも大人げない。

「まあ、考えてみます」

 自分でもわかるほど歯切れの悪い返答だったが、神主は嬉しそうに微笑んだ。

「ええ、島根はいいところですよ。海はきれいですし、食事もいい。もし黄泉比良坂に行く気が起きなくても、島根には出雲大社もありますしね。一度歴史ある荘厳なお姿を見に行くのも良いと思いますよ」
「そうですか」

 ぺこりと軽く頭を下げて、背を向ける。先ほどまでありありと感じていた清らかな芯は霧散して、ただ夏の湿気を含んだ不快な暑さだけが肌にまとわりついた。

「そういえば、あなたのペットは蛇ですか」

 背筋が凍った。振り返ると思いのほか真剣な顔をした神主と目が合う。その眼差しは私の中にある執念を見透かしていそうだった。無意識のうちに一歩後ずさる。

「……なんでそんなことを聞くんですか?」
「いえ、もしも蛇であったらここと相性が良すぎるので注意が必要だと思いまして」

 私は首をかしげた。

「相性がいいのなら別にいいんじゃないですか?」
「いいえ。相性が良すぎるというのも、時として不幸な結末をもたらすことがあるのですよ。神は私たちの願い事をすくいとってくれるかもしれませんが、あなたの心まで救ってくれるとは限りません。神の視点は私たちとの視点とは違うのです。最初から最後まで救いの手を差し伸べられるのは、自分自身しかいないのですよ」

 ひゅっと息をのむ音がした。出所は自分の喉からだ。何か、自分が今まで目をそらしていたことに、光をあてられたような後ろめたさと恐怖がない交ぜになった冷気が私の心を締め上げる。
 神主はふっと表情を崩した。

「まあ、こんなことを言うと神主失格だと叱られてしまいそうですがね」

 いたずらっ子のような笑みを浮かべて、神主は笑った。私は何も答えられなかった。
 神主は特に追及することもなく、私から視線を外して境内の掃き掃除を再開した。
 私は半ば駆け下りるように階段を下りた。下りて、脇目もふらず一直線に家に帰った。しかし、走っている最中も部屋に帰ってからも、神主の言葉は美咲の声と共にいつまでも私の頭の中を回っていた。


 八月の終わり、私は島根に行った。
 スマートフォン片手に住宅街を歩く。本当にこんなところに黄泉比良坂に続く道があるのだろうか。地図上にはあるが、見渡す限りただの住宅街だ。
 苛烈な日差しが肌を焼く。ぬぐってもぬぐっても汗が流れる。
 熱でスマートフォンが壊れたのではないだろうか。一抹の不安を覚えながら、灼熱地獄を歩く。コンクリートからはゆらゆらと熱気が立ち上り、到底人が歩ける世界とは思えない。
(この時期に訪れたのが間違っていたのかも)
 既に朝のニュースを確認した時点で嫌な予感はしていたが、想像以上の暑さだ。
 きつい。帰りたい。クーラーの効いた部屋でアイスを食べたい。何度もわき上がる誘惑を振り落として重い足を動かした。
 そうしていつまで歩き続けたことだろう。画面の矢印が急に方向を変えた。顔を上げるとコンクリート塀に「黄泉比良坂」という文字と赤い矢印が鬱蒼とした森を指している。
 草木は伸び放題で雑然としていた。ただし、道の周りは整備されていて歩くことはそれほど難しくなさそうだ。
 私は額の汗をぬぐって、森へ一歩踏み出した。
 森は人気がなかった。すれ違う人はおろか、人影すら見えない。木陰が日光を遮ってくれるおかげで炙られるような暑さからは逃れられたが、代わりに寂しい影が全体を覆っている。
 同じ緑であっても精彩に欠け、くすんでいるように感じた。木漏れ日すら温かみよりも冷たさが前に出る。寂寥感の漂う静かな世界。
 葉を踏みしめる音だけが響く。静かだが、あの神社のような清廉さはなく、ただ寂しさだけがあった。
 やがて視界が開け、池の奥に何か細長いものが立っていた。近づくと、それは二本の石柱にしめ縄をかけた、簡素な鳥居だった。やはり人はいない。
 赤い鳥居に慣れているせいか物足りなさを感じた。石碑や説明看板はあるが、他の神社と比べて圧倒的に構造物が少ない。ぽつり、ぽつりと佇む物たちは、夕暮れに伸びる影法師とよく似た雰囲気があった。
 さらに進むと私の身長よりも大きな岩があった。私が見た情報が正しければ、これが黄泉の国の出口をふさぐ大岩とされる岩だ。
 私はリュックから白い箱を取り出した。発泡スチロール製の棺。
 それを左腕に抱いて、手のひらと額を岩につける。ひんやりとした感触が触れた箇所から広がった。
 あちらはここよりもずっと寂しいだろうか。日のささない常夜の世界は、日向ぼっこが好きだった彼には苦痛ではないだろうか。
 なぜイザナギノミコトは待てなかったのだろう。逃げたのだろう。私だったら、彼が答えをくれるまで待ったのに。もし願いが叶えられないのならば、振り返って、そのまま彼と一緒にいたのに。蛆がわいていようが、内臓がまき散らされていようが、私は逃げない。
 ただ、あの鬼灯色の目でもう一度私を見てくれさえくれれば、私は――
 ガサガサと何かが動く気配がして思考が霧散した。周りを見渡すも何も見えない。何かの拍子に枝でも落ちたのだろうか。
 なんだか急に馬鹿馬鹿しくなって私は岩から手を離した。
 何をやっているんだろうか。修行と関わりがあるわけでもないのに、こんなところに来て何を期待していたんだろうか。まさか、こんな観光じみた旅で彼が帰ってきてくれるとでも。
 一歩、二歩と距離をとると、途端に周囲の音が戻ってくる。
 岩の傍らには小さなポストが立っていた。ご丁寧にも便箋とペンまでついている。てっきり死者宛ての手紙だから白一色の便箋かと思ったが、花の模様があしらわれた可愛らしい便箋だった。
 ペンを手にとって考える。
 手紙をしたためるとしたら、どんなことを書くべきだろうか。

『紙に書くと亡くなったその子とも、あなたの心とも向き合ってみると、今までとは違うものが見えてくるかもしれませんよ』

 神主の声が頭の中を回る。
 蛇とはちゃんと向き合っているはずだ。だって彼が望むとしたら一つしかない。じゃあ私の心は? 私は何を望んで彼の願いを叶えようとしているのだろう。
 ああ、私が望むとしたらきっと――
 ガサッと再び草むらが揺れる音がした。また枝でも落ちたか。
 緩慢に首を回した私の視界に飛びこんできたのは赤。血が滴るような赤と、逆に血の気のない雪のような白。

「――あ、」

 草の間から覗く双眸は私を認めるや否や、さっと身をひるがえして消えた。

「まって、ねえ待って」

 背後で箱が落ちる音がする。が、今は構っている暇はない。

「まって。あなたなの、ねえ」

 草むらをかき分け、白を追う。命を宿した一対の鬼灯を追う。が、それはあっという間に草木の間を縫って、私の視界から消えてしまった。
 それでも諦めきれずに私は何度も呼びかけながら森をさまよった。ズボンの裾から出た足首には擦り傷がついて、無防備にさらされた腕には同じ擦り傷や蚊の吸血痕が刻まれた。
 痛みも痒みも感じなかった。ただもう一度、あの姿を見たかった。必死に草をかきわけた。地面に頬をつけてあの純白を探した。
 気づけば赤々とした夕陽が木々の間から私を照らしていた。私は例のポストの前に立っていて、足元には彼の棺が転がっていた。
 恐る恐る蓋を開ける。彼は今朝と同じ姿のまま、ただ静かに眠っていた。なぜだか無性に悲しくなって、熱い雫が数滴落ちた。

「ねえ、そろそろ就活とか本格的に始まるじゃん? ほんとめんどう」
「そんなこと言って、もう何社か受かったんでしょ?」

 まあそうだけどさ、と言って美咲は勢い良くストローを吸い上げた。
蝉はとうの昔に死に絶え、青々とした葉は全て落ち、再び冬がやってきた。美咲はクリームを盛りに盛った甘ったるいコーヒーを飲んでいる。外はコートを羽織らなければいけないのに、よく氷のたっぷり入ったものを飲めるものだ。
 あれから蛇に変わりはない。毎日欠かさず経を唱えても、神社でどれほど熱心願っても、彼が目を開けることはない。
 あの日、見た光景は私の願望が見せた幻なのだろうか。そんな思いがどんなに読経に集中しても、神社に通っても拭い去れない。
 そのせいで、どちらも身が入っていない状態が続いていた。
 本当はわかっている。残された時間は少ないのだ。卒業すれば、きっとこの街を離れる。読経はともかくあの神社に毎日通うことはできないだろう。タイムリミットがくれば、私は前に進まなければならない。
まさか蛇一匹のために無職になるのは許されるはずがないからだ。
 それでも私は――

「なんか、やっぱ嫌な感じするんだよね」

 ぽつりと落ちた美咲のひと言に意識が引き戻される。私は重苦しい思考を振り払って美咲に目をやった。

「何が? 内定もらった企業ブラックなの?」
「違う違う。あんたのこと」
「え? まだふわふわした感じするの?」

 島根から帰ってきてから、美咲は「ちょっとだけマシになった」と言って笑い、その後話題に上げることすらしなかった。てっきりもう忘れたものだと思っていたのだが。

「うん。なんかさあ、前みたいに世界から一センチ浮いたところにいるみたいな感じはしないんだけど、どうもね嫌な感じが拭えないんだよね。あんた、ふわふわ期間中に変なものくっつけてきたんじゃない? お祓い行ったら?」
「なに? オカルトにでもはまってるの?」

 へらりと笑うと美咲は肩をすくめた。

「違うって。私の勘。でもわりと当たってると思うよ。昔っからこういう悪い予感はあたるんだよね」
「そう? でも金縛りがあったとか、閉めてあった扉が開いたことなんてないけど」

 美咲はむっと唇をとがらせた。

「だから人をオカルトにのめりこんだ変人にするのはやめてくれない? 別にあんたに胡散臭い壺とか売りつけないし」
「そんなことしたら、縁切るよ」

 軽口で返せば、美咲はそっぽを向いて、一息で残りを飲みきった。

「まあ、ちょっとは心においといてよ。今、あんたに甘い言葉かけてくるような奴がいたらさ、多分そいつはあんたの味方じゃなくて敵だってこと」
「ありがと」

 へらりと笑って手をふると、美咲は深々とため息をついた。

 冷凍庫から箱を取り出す。
 くすんでいた白は、人工的な光の下で真珠のようにつやつやと輝いている。いっそ生きていた当時よりも光り輝いているが、その目が開くことはない。
 無性に命の色を見たくて閉じた瞼に指をそわせる。今、この目をこじ開ければ、怒りか呆れを宿した眼差しで私を見てくれるのではないだろうか。そんな馬鹿げた夢想が頭をもたげるが、結局無理やり。
その晩夢を見た。私はいつものように神社の階段を上がっていって、鳥居をくぐる。
 だが社の前にいたのは神主ではなかった。腰あたりまである長い髪をなびかせる女性。衣はぞっとするほど白く、日の光に反射してきらきらと輝いている。それは蛇の鱗が日光に反射したときの光によく似ていた。

「よくぞここまで来ました」

 その声は凛として、全身を震わせた。思わずこうべを垂れたくなるような威光が女性から放たれている。
 神様というのは彼女のような人を指すのだろう。自然とそう思った。

「あなたの様子をずっと見守っていました」

 女性は真顔で告げる。顔が整っているだけに、いっそう冷酷な色が強調されていた。

「なんとも歪な願いですね。あんなに醜悪で呪詛じみた願いは初めて見ました」

 突きつけられた言葉の刃は私の喉元すれすれをえぐる。反論したくとも体は凍りついていて、指先一つ動かすことはできない。

「ですが同時にあなたの願いは本物だった。毎日、毎日欠かさずあなたの祈りは誰よりも切実で純粋だった。醜いのに美しい祈りでした」

 そこで女性の声にわずかに温度がのった。

「その心に免じて慈悲をあげましょう。明日の早朝、棺を持ってここにいらっしゃい。あなたの望みを叶えてあげましょう」
「ほ、本当ですか!?」

 身を乗り出した私に、彼女はにこりともせず言った。
「二度は言いません。ほら、もう目を覚まさなければ。夜明けは近い」
 彼女が指を指した瞬間、急激に私の体が遠のいて、私の意識は世界から押し出された。

 はっと目が覚める。枕元に置いた目覚まし時計の短針は五を指している。空はまだ暗く、星々が瞬いていた。

「夢……?」

 だが夢にしては妙にはっきりと頭に残っている。
 私の執念が見せた紛い物かもしれない。実際、蛇が息を吹き返して龍になる夢は何度も見た。そして目を覚まして、前日と同じように凍ったままの亡骸を見て落胆するのだ。
 しかし今回は蛇ではなく、見知らぬ神様らしき女性である。
(もしかしたら、本当に――?)
 元々勝率なんて無いに等しい賭けだった。死んだ蛇が龍になるなんて聞いたこともなかったのだから。だからたとえ私の願望がみせた夢だったとしても、確認もせずに諦めることはできない。
 冷凍庫を開けて、定位置に座る箱を引っ張り出す。
 夜明けは近い。彼女の声が反響する。一瞬、誰かの声が呼び止めた気がしたが、輪郭をつかむ前に散ってしまった。それに、私にはのんびり思い返している時間はない。
 化粧もせずにコートをひっつかみ、私は痛いほど冷たい早朝の街を駆けた。

 神社までの距離が倍以上に感じる。階段はここまで長かっただろうか。もつれる足が煩わしい。なぜ私の足はもっと速く動かせないのだろう。なぜすぐに心臓は音を上げてしまうのだろう。思い通りに動かない
 はっはっ、と口から白い息が吐き出される。ようやく見慣れた朱色が見えたとき、冬だというのに私の体は汗で濡れていた。
 さすがに日も昇っていない境内には人影ひとつない。竹箒を持った神主の姿さえなかった。当然、あの女性の姿もない。
(やっぱり、ただの夢……)
 へたりこむと小石がズボン越しに食いこんだ。
 やはり叶わぬ夢なのだろうか。視界が滲んだそのときだった。

「あなたなら来ると思っていました」

 夢と寸分たがわぬ声が鼓膜を揺らした。はっと振り返ると、あの女性が真後ろに立っていた。

「その箱をおよこしなさい」

 震える手で箱を差し出す。ひとりでに蓋が開いて、蛇の亡骸があらわになった。
 女性の眉間に微かに皺がよる。

「ああ、なんて醜い……。でもまあいいでしょう。大変面白いものを見させてもらったのですから」
 白魚のような指先が蛇の体をなぞる。
 するとふるりと凍った体が震え出して、蛇の体が膨れ上がった。私の手首ほどの大きさだった胴体はみるみるうちに丸太ほどの大きさになって、手足が生える。鼻は長く伸び、ちょうど背骨の上あたりを覆うように純白の毛が生えた。
 そしてついに目が開かれる。あの鬼灯色の目が私を見た。
 ああ、ああ! やっと私を見た! ようやく私を見てくれた!
 頬に雫がつたう。今、このときなら死んでもいいと本気で思った。
 寝起き直後でぼんやりとした目が徐々に光を取り戻していく。私に焦点が結ばれたとき、彼は驚いたように目を見開いた。
 だが彼が言葉を発することはなかった。言葉を発するより前に割りこんできた雑音があったからだ。

「さあ新たな同胞よ。歓迎いたしましょう。ただし、あなたの身はあまりに汚れている。このままでは天に昇ることはできません。ゆえにその身を禊ぎましょう。あなたを繋ぎ止めるそこの人間の女との記憶を消し去ることで」
「え……?」

 女性は緩く腕を振った。
 瞬間、鬼灯色に眩い金が浸食してきた。命に燃える赤を、何もかも超越した神の金が塗りつぶしていく。目はあっているのに、合わなくなる。私を見なくなる。
 やっと気がついた。私は、蛇を龍にしたかったんじゃない。私が、わたしがほんとうに望んでいたのは、彼の死を先延ばしにすることだった。私はただ、彼ともっと一緒にいたかった。それだけだった。

「まって」

 無意識のうちに長く伸びた髭の先端を掴む。龍は煩わしげに身をよじった。
 そこにはもはや何の思いやりもなかった。ただ動物がハエを払うような動作に、私個人への感情は何もなかった。

「お離しなさい。あなたの未練が龍へと昇る道の妨げになる」
 彼女は無表情のまま、私に近寄る。
 いやいやと首を振る私の手を、細身の体とは思えない凄まじい力で一つずつひきはがしていく。
 ああ、龍になっていく。私だけの蛇ではなくなっていく。
 もう蛇は私を私として見ない。私を救うべき一個体としか見ない。それが龍だからだ。

「駄々をこねてはいけません。稚児のような我儘があの蛇の夢を妨げていると何故わからないのです」

 いかないで、と伸ばした手から髭が滑りぬけて、その身が天へと昇っていく。

「なぜ悲しむのですか? 望みが叶ったなら喜ぶべきでは?」

 違う。私の願いは、私の本当の願いは――
 手を伸ばしても、彼の毛先にすら触れられない。虚しく凍えた空気をひっかくだけだ。白みはじめた空に私の純白が溶けて消えた。

 その後、私は魂が抜けたように境内に座りこんでいたらしい。なぜ自分のことであるのに伝聞表現かというと、その後の記憶がすっぽりと抜けてしまっていたからだ。
 気づけば病院にいて、泣きはらした両親の顔があった。
 いろいろな人に事情をきかれたが、私は沈黙を貫いた。本当のところを話したところで信じてもらえるはずがない。結局、就活のストレスだろうと片づけられ、しばらくはカウンセリングを受けることで事態は収束した。
 その後、私は無我夢中で卒業論文の執筆と就活に勤しんだ。何か手をつけていなければ、蛇のことを思い出して発狂しそうだったからだ。そのおかげで望んだ企業に入ることができたのは皮肉という他ない。
 ニュースの通り、空は重苦しい雨雲が覆っている。
 遠雷が轟く。もしかしたらあの雷のどれかは蛇が鳴らしているのかもしれない。空っぽの棺を抱いて私は目を閉じる。きっともう彼と出会っても彼は私を見ないのだろう。その眼に映ったとしても、彼にとってはどこにでもいる人間の一人にしか見えないのだろう。
 それでも。それでも私は忘れることができない。忘れてしまえば、それこそ本当に全てが無に帰してしまう気がした。
 遠雷と共に翔ける純白を想う。彼が思うままに天をかけてくれればいい。そして願わくはもう一度私を――
 一人の部屋は寒い。私は布団を巻きつけて、空の箱をぎゅっと抱きしめた。


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