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【小説】龍成り 中

ある日、ひょんなことから家に転がりこんできた蛇が死んだ。「私」はなんとしてでも蛇の夢、「蛇が龍になる」ことを叶えてやろうと決心するが――

上記の話の続きです。
上下で終わる予定でしたが、終わらなかったので上中下にわけます。次で終わる予定です。

 死んだ蛇を龍にするにはどうすればいいか。
 その方法を考えなければならないが、あいにく蛇の話は右から左に聞き流していたので、彼がいったいどのような方法で龍になろうとしていたのか定かではない。だが手がかかりはある。
 押し入れを開けると、埃っぽい匂いが鼻を刺激する。むずむずと動く鼻をおさえて、私は暗闇に手を伸ばした。
 指先が柔らかい布団とは違う、弾力のない乾いた表面に触れた。私はそれが破れぬよう慎重につまんで引っ張り出した。
 現れたのは一冊の本。風雨に晒され、酷く破損した表紙は今にも消えてしまいそうなほど薄い緑。それはあまりに薄く、少しでも爪を立てれば破れてしまいそうだ。当然、表紙に書かれていたであろう字は判読不能。
 これは蛇が肌身離さず持っていた本で、蛇いわく修行に欠かせないものらしい。
 この内容を理解することができれば、蛇を龍にするヒントが得られるかもしれない。少しでも彼を龍にする足がかりがつかめれば、と私は角のとれた表紙をめくった。

「うわ、なにこれ」

 思わず本から手を離してしまった。乾いた音を立てて本が畳に落ちる。黄ばんだ内部を外に晒しながら仰向けに倒れているそれは、道端で事切れた蝶のようだった。
 さらけ出された内臓には上から下までびっしりと漢字が並んでいた。無数の漢字の列は、やたらと画数が多いせいか、読む者を威嚇しているようにすら感じる。
 武装した文字の羅列を眺めているうちに、ふとその横に芋虫の這った跡のような小さな線が列をなしていることに気がついた。鼻先がページにくっつくまで顔を近づけると、ようやくその正体がわかった。読み仮名だ。誰にでも読めるようにご丁寧にも読み仮名がついている。

「でもこんなの虫眼鏡でも使わなきゃ読めないじゃない」

 自分のぼやき声にため息が混じる。
 よくもまあ呪文のような言葉の羅列を毎日、毎日唱えられたものだ。それともこの程度易々とできなければ龍になることはできないということなのだろうか。

「なんか、お坊さんのお経みたい」

 いや、本当にお経なのかもしれない。彼は龍になるためには修行が必要だと事あるごとに言っていた。彼の言う修行が、私が想像する修行と同じであるならば経典を持っているのも納得できる。
 とりあえず最初の数文字を検索バーに打ちこんでみた。変換できない漢字もあったが、優秀な検索エンジンは一発で求めるものを叩き出した。
 予想は的中。彼が持っていたのは仏教の経典だった。

「ほんとに真面目に修行してたんだ……」

 それにしては善行を積んでいる様子はあまり見られなかったが。蒸した鶏肉に難癖をつける蛇の顔を思い出して、笑った。笑ってから、首をすくませて周囲を見渡す。だが「なにが面白くて、そんなににやけておる」と鋭い声が飛んでくることはない。あるのは冷たい静寂だけだ。
 肌が冷気を鋭敏に感じとる。暖房の設定温度を確認したが、リモコンが示す値は二十度。いつもと同じ温度設定だ。

「……カーディガンとってこよ」

 誰に聞かれるでもないのに呟いた。ハンガーにかかった若草色のカーディガンは、どことなく擦り切れたあの表紙に似ている気がした。


 朝の空気は一日の中で最も澄んでいる。冬は特に皺一つないシャツのように空気がパリッとしていて、息を吸いこむたびに内側から清められていく。そんな錯覚を覚えるほどに朝の空気は清らかだ。
 だがここ最近は薄氷のように透明で硬い薄皮が僅かに緩みはじめている。春が近づいてきているのだろう。命が芽吹く明るい春の足音が遥か彼方から微かに聞こえる。たしかに感じる。目に見えぬ季節のうつろいを肌で感じながら、私は背筋を伸ばした。
 朝六時。近所迷惑にならない程度の音量で本を読み上げる。彼がかつて毎日欠かさず行っていたように、押し入れと向き合う形で正座し、膝には彼が入った箱を乗せて、読み上げる。願いをこめて。祈りをこめて。
 この漢字の意味は一割も理解していないが、これを読み上げていると、さまざまな考えが頭に浮かぶ。
 仏教が目指すのは、悟りをひらき、仏になることだ。悟りがひらければ、地を這う蛇も天に舞い上がる龍になるのだろうか。
 調べた限りではどうも蛇も人間と同じように修行して、龍になるらしい。あるいは気が遠くなるほど長く生きた蛇が龍になるのだと。後者は論外だ。だって彼はもう死んだ。
 と、なれば私が中途半端で終わった彼の修行を修了させれば、彼も龍の仲間入りができるのではないか。
 荒唐無稽な方法だとわかってはいたが、私は何が何でも彼を龍にすると決めたのだ。どんなに馬鹿馬鹿しい考えでもすがらずにはいられなかった。
 だが悟りのためには煩悩を捨てねばならぬとも書かれていた。
 願いと執着の違いは何なのだろう。この思いも捨てるべきものなのだろうか。
 しかしこの思いを捨ててしまえば、この行為の意味がなくなる。私の一方的で呪いじみた思いは今も私を駆り立てる原動力だ。
 大体、私は別に仏になりたいわけではない。私はただ、夢半ばで終わった同居人の夢を叶えてやりたいだけである。
 が、この思いが障害になるというのなら、これも雑念として消すべきか。前のような勢いはなくとも、今も熾火のように静かに胸を焼くこの思いに水をかけるべきなのだろうか。
 やめよう。今は読経に集中すべきだ。本に意識を向けると、余計な考えが一つ、また一つと剝がれ落ちていった。
 読経が終われば、彼を冷凍室に戻し、すぐに作り置きのおかずを電子レンジで温める。予約炊飯していた米を茶碗に持っておかずと共にかきこんだら、さっと洗って洗面所に駆けこむ。軽くファンデーションをつけて眉毛を整え、身支度を済ませたら、カバンをひっ掴んで玄関のドアノブに手をかけた。


 大学に行く道とは正反対の道を突き進むと目的地が見えてくる。住宅街に突如現れた森。その真ん中を割るようにして階段が続いている。
 一歩森に足を踏み入れた。瞬間、空気が変わる。植物の青々とした匂いが周囲を包み、清涼な空気が肺を満たした。朝の空気は澄んでいるが、ここは特に澄んでいる。目を覚まし始めた街のざわめきも遠のき、この場所だけが世界から隔絶しているようにさえ思えた。
 階段を上がった先にはところどころ朱色がはげた鳥居が見えてくる。その奥にはこぢんまりとした社が座っていた。どこにでもある木製の社だ。
 鳥居をくぐると、ただでさえ澄んでいた空気がいっそう透明になって、息がしづらい。ここを訪れるときはいつも清流に住む魚の気分になった。
 すくむ胸をおさえて鈴を鳴らす。完成された空間をけたたましい鈴の音が壊す。錆びついているのか、ざらついている音だった。その雑音が今は心地よい。きれいでないものがあると、自分の存在も許された気がするからだ。

「熱心ですねえ。こんな朝早くから」

 背後から声をかけられて振り返る。立っていたのは袴姿の神主だった。竹箒片手に柔和に微笑んでいる。
 刹那、嫌悪感が湧き上がった。神主が嫌なわけではない。むしろいい人だ。だがこの儀式に他人が入りこんでくることが嫌だと思った。不純物が入られると何かが決定的に駄目になってしまう。
 と、そこまで考えたところで自嘲した。先ほどまで清らかすぎる世界に肩身の狭さを感じていたのに、自分の願いには混ざり物一つとして許さない。ひどい矛盾だ。あまりに自分勝手な考えだ。修行が足りていない。
 そこで思考をいったん止めた。いつまでもぼうっと立っていると不審がられる。

「ええ、おはようございます。神主さんも朝早くから掃除なんてすごいですね。それでは」

 私は小さく会釈して、そそくさとその場を後にしようとした。

「毎日ここにきておられますが、何か願掛けでも?」

 足を止めた。神主の顔を注意深く見る。彼の顔は常と変わらぬ微笑を貼りつけていた。そこから読み取れる悪意は、ない。

「……そんなところです」

 神主は笑みを深めた。

「そうですか。毎日熱心に祈っておられるので、お若いのに大した方だと」

 そこで神主がふいに視線を遠くにやった。

「ここ最近は御使い様が訪れていらっしゃらないので、何か気に障ったかと心配しておりましたが……空気が淀むこともなく、ご機嫌を損なっているようにも思えませんでしたので、きっとあなたの願いも聞き届けられることでしょう」
「御使い様?」

 神主は私に視線を戻した。

「ここは少々小さいながらも龍神様を祀っていることはご存知ですか?」

 私は頷いた。
 だからこそわざわざ大学とは正反対に位置するこの神社に毎日お参りにやってきているのだ。
 蛇いわく、この神社に祀られている龍は、かつては蛇であったらしい。修行に修行を重ねてついには龍にまで成り上がったと。その縁にあやかりたいの? とからかい混じりに尋ねたら、存外真面目な顔で、この神社を訪れると雑念を振り落として、また励もうという気になるから訪れるのだ、と語った蛇を思い出した。
 そのときは変な意地張って……と内心呆れたものだったが、今思えばあれは本心だったのかもしれない。彼が肌身離さず持っていた経典通りの教えを実行していたのならば、ひたむきに修行に打ちこむこと以外は雑念のうちに入るのだろうから。
 そのくせ私の料理や私のミスにはいちいち余計な一言を付け加えずにはいられない蛇だった。だから自分の命が尽きる前に龍になれなかったのだ。憎まれ口を叩いても言い返す者がいなければ張り合いがないので、口にはしないけれども。

「こう言われれば、オカルトチックな話で胡散臭く思われるかもしれませんが、私は少々気配に敏い性質でして、時おり目には見えぬ何かが訪れているのを感じていたのです。形からして、恐らく蛇と思うのですが……。
 おや、信じられませんか? ええ、なかなかこの感覚を説明するのは難しいのですが、目に見えなくてもその輪郭が浮かび上がってくることはありますよ、ええ。
 ここは龍神様をお祀りしているところでしたから、私は勝手に御使い様だと思って密かに来るのを楽しみにしていたのです。ああ、もちろん、この話をしたのはあなたが初めてですが」

 神主はいたずらっぽく笑った。が、すぐにその顔に影がさす。

「ですがちょうどひと月かふた月ほど前でしたかね、ぱったりと御使い様の気配が感じられなくなりました。いつもは三日もあけずに訪れてくださったのに、何の前触れもなく、御使い様の気配が感じられなくなってしまった」

 彼の言う御使い様は蛇だ。私は確信した。彼は襟を正すためによくこの神社を訪れているのだと、彼自身が話していたのだから。来なくなった時期も彼が死んだ時期とちょうど一致している。
(何が、目くらましの術をかけているから安心しろ、よ。しっかりばれているじゃない!)
 やはりあの蛇は肝心なところでぬけている。あの馬鹿。未熟者。そう罵ってみても返ってくる言葉があるわけでもなし。虚しい脳内問答はすぐにやめた。

「何か私が余計なことをしてしまったかと思い悩んでいたのですが……」
「それはないと思います」

 思った以上に強い口調で否定の言葉が出た。顔に熱が集まる。

「ええ、そう思います。御使い様が来られなくなったのは残念ですが、それは決して凶兆ではないとそう思うのです。ただ、御使い様の身が心配ですが……」

 神主が目を伏せる。その顔を直視できず、私も倣うように目を伏せた。
 まさかその御使い様は自分の部屋に居候していた蛇で、ちょうどふた月ほど前に亡くなりましたという事実を馬鹿正直に話すわけにもいかない。

「……そうですね。元気だといいです」

 曖昧な笑みを作る。自分でも不自然な笑みだと思ったが、神主は特に気にすることなく、再び笑顔を向けてきた。

「参拝者の中で誰か一人を贔屓するのは褒められたことではないでしょうが……私はあなたの願いが叶うことを祈っておりますよ」

 私は小さく頷いて踵を返した。吹きつける風が冷たい。春の訪れはまだ先だ。


 今日も唱える。箱を乗せて、どうか彼が地を這う蛇の身を脱ぎ捨てて天翔ける龍になれるよう、願って経を唱える。鈴を鳴らして、祈り続ける。
 湧き上がってくる余計な考えをそぎ落としながら。

「なんかさあ、最近雰囲気変わったよね」

 美咲が片肘をついたまま、ぽつりと言った。食堂のざわめきが急速に戻ってくる。私は右隣に座る美咲に目を合わせた。美咲は大学からできた友人だ。学部も一緒、サークルも一緒、実は花が好きなところも私と気があった。
 彼女の目は良い。道端に咲く野花の蕾のほころびに気づける人だ。彼女が変わったというのなら、何かが起こったのだろう。だがそれが何なのか見当もつかない。
 いや、嘘をついた。一つだけ思い当たることがある。蛇のことだ。
 しかしあの呪詛まがいの決心を抱いたのは冬。今はもう過酷な夏の日差しが肌を焼く七月だ。路地の紫陽花も暑さにやられてしぼんでしまっている。森は蝉の大合唱で、静謐な空気は散った。物寂しい冬の気配はとうに失せ、騒々しい生命の叫びがあちらこちらから聞こえる。
 ふとした瞬間に蛇の面影を見て、心乱されることも減った。それも読経のおかげだろうか。それとも龍神が私の願いに耳を傾けはじめたのか。
 まあ、それはひとまず置いておこう。
 わからないのはなぜ今になって美咲が踏みこんできたのか、ということだ。
 冬よりもずっと私の心は安定している。未だこの方法があっているかはわからないが、心にのしかかっていた暗雲が消えて、心が軽くなっている実感はあった。
 それに蛇は何も損なわれていない。何度か龍神巡りやら、実際に蛇が龍になった伝説が残る場所に彼を連れていったが、彼の体は腐ることなく、溶けることなく、発泡スチロールの棺に収まっている。もちろん、保冷剤を詰めてなるべく温度を上げないようにはしていたが、特別な道具もなしに長い時間冷凍したまま運ぶには無理がある。
 そうして解凍と再冷凍を繰り返したというのに、彼の体はあの日のまま、時を止めている。無くなったのは彼の魂だけ。だから今もこうして意味があるかもわからない読経と参拝を続けている。
(そういや魂を呼び戻す方法は探してなかったな)
 今度探してみようか。胡散臭い話しかヒットしない気もするが。

「ねえ、聞いてる?」

 美咲が眦を吊り上げる。
 いけない。考え事に時間を割きすぎた。私は慌てて笑みを作った。

「うん、もちろん聞いてるよ。ちょっと意外な問いかけでびっくりしたっていうか……。でもイメチェンした覚えはないし、そんなに変わった?」
「本当にわからない?」

 素直に頷くと、美咲はため息を落とした。

「なんかさ、最近あんた遠いよ」
「遠い?」

 私は目を瞬いた。彼女と距離をとったつもりはないし、彼女の機嫌を損ねるようなことをした覚えもない。
 美咲はまた嘆息を落として、私を真っ直ぐ見つめた。茶化すことも誤魔化すことも許さない、真剣な眼差しだった。

「前もさ、酷く落ちこんでた時期あったでしょ? ちょうど年変わったあたりの冬くらいに」

 私は素直に頷いた。美咲に嘘をついても仕方がない。

「心配してたんだけど、なんかあのときは下手に踏みこんじゃったら、あんたが壊れそうで様子見てた。でも今のあんたはもっと駄目。だからごめん。直球で聞くね。何があった?」
「……ないよ。何も。冬のときはごめん。ペットが死んじゃって、ちょっと落ちこんでた。でも今はもう大丈夫。立ち直ったよ」

 蛇が死んでから私がやることは変わっていない。彼を龍にする。伝説はどれも生きた蛇が龍になるという話ばかりだったが、それでもどこかに方法はあるだろう。そう、信じていたかった。

「ねえ、そんなに私のこと信用できない?」

 美咲はむっと口をとがらせる。私はぶんぶんと首を横に振った。

「ううん。美咲を信用していないとかじゃない。本当に心当たりがないだけで」

 沈黙が落ちた。美咲は真顔のまま、私を見つめている。私もその目を見つめ返した。こげ茶の瞳に光が入っている。
 ふと神社の木の幹を思い出した。日の光に当たって、穏やかに佇む樹木の肌を。もっとも目の前の茶色は平穏とは程遠い色を帯びているが。
 ああ、日の光といえば、蛇は日光浴が大好きだった。真夏はさすがにしなかったが、晴れた日はよくベランダに続く掃き出し窓に陣取って、なるべく日の光を浴びようと体を伸ばし、それこそ白い紐と化していた。鬼灯色の目は瞼に隠されて、口元には微笑みがある。洗濯物を取りこむのに邪魔だったから蹴飛ばしてやろうと思ったが、その顔を見て足を引っこめた。代わりに日の光を反射する艶やかな鱗に手を伸ばした。
(どうせなら、あのとき触ればよかった)
 結局、心地よく寝ているところを起こすのも悪くて、伸ばした指を握りしめ、蛇をまたいでベランダに出たのだ。
 あの感触を確かめる術はもうない。だって彼はもういないのだから。
 胸が軋む。指先から温度が消える。
(違う。諦めるな。龍になったらまた会えるんだから)
 冷えた指先を握りしめる。手のひらに爪を立てているうちに、徐々に体温が戻ってくる。
 前から深いため息が聞こえて、私ははっと美咲を見た。

「なんかね、地に足がついてない感じがする。ずっとふわふわ浮いたまま。気づいてる? 最近、ぼうっとしているの。さっきもそうでしょ。心がどっかいってた」
「そうかな。冬よりはずっとましになったって思っていたんだけど」

 口角を上げる。表情筋を動かす。笑顔を作る。大丈夫だよ、と空っぽの言葉を吐く。
 美咲の眉間に皺が寄った。

「今のあんた見てると、おばあちゃん思い出すよ」
「美咲のおばあちゃん?」
「うん。おばあちゃんがおじいちゃん亡くしたときとそっくり。魂が抜けちゃったみたいに、ぼんやりしてた。あんたも一緒。ほっとくとこのまま風船みたいにどっか行っちゃいそう」
「そんなことないよ」

 私は風が吹けば飛ぶ綿毛ではない。強風によろめくことはあっても方向音痴でも放浪癖持ちでもないのだから、急に姿を消すなどあるものか。だって私はまだ彼の望みを叶えてない。まだ、彼を龍にしていない。

「ねえ、あんたとそのペットがどういう時間過ごしてきたのか知らないけどさ、」

 美咲は一度口を閉じた。迷いなく私を見据えていた目がぶれる。躊躇ちゅうちょする。あーと、言葉を探すように宙に視線を彷徨わせた美咲がようやく私に視線を戻した。

「そのさ……後追ったりとかしないよね?」
「まさか! なに言ってんのよ。するわけないじゃない。もう意味深に間ためるから何言うかと思ったじゃん」

 私の声が湿気と熱気が混ざった空気に溶けていく。
 よかった。ちゃんと周囲の喧騒と同じ音だ。内心密かに安堵した。

「だよね。考えすぎかな」

 私の笑い声に緊張が解かれたのか、美咲はほっと息をついた。

「そうだよ。考えすぎだって。もしぼうっとしてるように感じたのなら、多分寝不足だったからじゃないかな。最近暑いじゃん? もう七月なのに熱帯夜ばっかでさ」

 けらけらと笑う私につられて笑みを浮かべた美咲は、ふいに表情を落とした。

「でもさ、本当に心配なの。寝不足ならいいけどさ。……なんかあったら相談してよ? どんなに長い話でも付き合ってあげるからさ」

 もう電気代ケチってないでクーラーつけなよ、と釘を刺して、美咲は席を立った。美咲は興味があるとわざわざとった韓国語の授業が昼休み後にある。
 人混みに消えていく彼女を見送って、彼女の頭すら見えなくなったところで息をついた。
 握りこぶしを作る。ちゃんと指先の温度はあった。
 大丈夫。寒さはない。もう私は乗り越えた。後は目標に向かって歩むだけ。そう心の中で呟いてから私も腰を上げた。


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