見出し画像

【小説】ブレイン・ペット 最終話

前回の話はこちら

第1話はこちら

 男は退職を決めた。辞めてもさして業務に支障が出るようなポジションにではなかったし、引き留めてくれるような相手もいなかったので、突然の申し出でも辞表はあっさりと受理された。
 隣の加藤は「え、辞めんの~? ま、薄々そんな気はしていたけどさ」と肩をすくめただけだった。別れを惜しむ素振りは一切ない。恐らく一番付き合いが長かったであろう加藤ですらこれなのだ。他は推して知るべしである。
 だが男には唯一心残りがあった。
「佐藤さん」
 出社最後の日、男は早足で歩く佐藤に声をかけた。
「あの、聞いているかもしれませんが俺、今日でこの会社辞めます」
 佐藤の足が止まった。だが振り向きはしなかった。真っ直ぐ伸びた背はいつもならば威圧感すら感じるというのに、今日は今にも泣きだしそうな子どものように見えた。
「次はもう決まっているんですか」
「はい」
 男は微笑んだ。佐藤が思い描いている答えと男の答えは違う。だがそれでいい。男と佐藤の関係が深まったのは一、二か月の僅かな間だ。たかだか両手で収まる程度の回数食事を共にしただけの男などすぐに忘れ去られることだろう。佐藤が人生を振り返る最期の時に、ぱっとしない男と下らない話で盛り上がったな、と懐かしんでくれれば御の字だ。
「そうですか……」
「佐藤さんには本当にいろいろとお世話になりました。ありがとうございました。どうか、どうかお元気で」
 深々と頭を下げ踵を返す。後ろ姿しか見られなかったことは残念だが、既に彼女のいろいろな面は見せてもらった。もう十分だ。
「待ってください!」
 佐藤の声が反響した。思わず振り返ると、涙に濡れた佐藤と目が合った。初めと逆になったな、なんて頭の片隅でそんなことを考えた。
「あの、そのどこ行くのかだけでも教えてくださいませんか?」
 よく見れば彼女の指先は白くなるほど握りしめられ、小刻みに震えている。どれほどの勇気をもって話しかけてくれたのか、かつて同じ立場だった男には彼女の気持ちが痛いほどわかった。
 こんなしがない男の縁なぞ持っていても仕方がないだろうに、今にも千切れそうな縁の端を握りしめる彼女はいい人だ。だからこそもうこれ以上自分に心を割かせるわけにはいかない。
 男は小さく笑った。
「すみません。これから行くところはずっと遠いところなんです。だから行き先を教えても会うことはできないと思います。とてもお世話になった佐藤さんにこんなことを言うのは心苦しいのですが……」
「……もしかして海外ですか? それとも離島とか人里離れた山奥とかに行くつもりなんですか?」
 男はただ静かに笑みを浮かべた。
「佐藤さんと会えて本当によかった。ありがとうございます。佐藤さんのことは忘れません」
 もう一度深々と頭を下げる。佐藤が何か言おうとする気配がしたが、男はそれに気づかぬふりをして背を向けた。
 廊下に落ちるのは己の足音のみ。追いかけてくる足音はなかった。
 
 会社を去ってからもするべきことはある。
 まず両親に遺書を書く。とはいえブレインのことを馬鹿正直に書くわけにはいかない。親以外の誰かの目に触れてしまう可能性は捨てきれないし、いくら親でも息子が空遊病になったと知れば泣き崩れるだろう。親より先に逝く不孝のみならず、余計な心労をくわえるのは男としてもためらわれた。
 不幸中の幸いと言ったらバチがあたりそうだが、ブレインがくるまでの男の生活はお世辞にも良いものとは言えなかった。上司からのいじめや無関心な同僚たち。何より時が経つにつれて浮き彫りになっていく自分の無能さ。これらのことを上手くまとめると予想以上に誰がみても納得できる遺書が出来上がった。
 その紙は机の上のファイルに保管されている。日取りが決まり次第実家宛てに郵送するつもりだ。
 それ以外にも荷物の整理や口座の移し替えなどなどやるべきことは多い。男の部屋からはどんどん物が消えていった。悲しいとは思わない。むしろ荷物を捨てていくたびに身が軽くなっていく気さえした。
 死神の鎌は間近に迫っている。この前なんて茜色に染まる空を目にしたところから記憶がない。次に我に返ったときには男は部屋の真ん中で仰向けに倒れていた。
 部屋が必要最小限の物になったため、片付けの必要はほとんどなかったがどこかに足をぶつけたのか小指がじんじんと痛む。まったく人の体で怪我するのはやめてもらいたい。自分の体ではないからといって好き勝手動くのは横暴すぎやしないだろうか。
 今は夕方近くになるとカーテンをひいて閉じこもっている。ブレインはどうも青空には反応しないらしい。発作がおきるのは必ず夕方だ。だからその時間帯だけ閉じこもればよかったのだが、ここ最近は赤を見るだけで心臓が奇妙な音をたてる。残り時間は少なかった。
 それにしても夕焼けに反応する脳網虫など聞いたことがなかったので空遊病を改めて調べてみたが、やはり患者たちが発作を起こすのは昼間だったようだ。夕方に発作を起こす者は全体の一割にも満たない。昼間の時間帯だけ突出したグラフを見つけたときには、男は苦笑いを浮かべずにはいられなかった。
 思えば男の体内に入ってからすぐに脳に向かえばいいところを呑気に腕で満足していた時点でずいぶんな変わり者だが、こんなところでも変人だったとは。それともブレインも自分と同じく落ちこぼれ組だったのだろうか。
 彼らの母体となる鳥らしき生物がどんな生態をしているかは知らないが、こちらの基準で考えるのならば夕方に餌探しをするイメージはあまりない。もしかしたら夕方でも活動するのかもしれないが、他の連中が青空に一番反応するのだから彼らの終宿主は夜行性ではあるまい。こんなところまで宿主に似なくてもよかったのにな、と男は腕を撫でた。
 思いの外、残された日々は平穏に満ちていた。発作さえ起きなければ普段の生活と変わりないし、仕事がない分、感覚は学生時代の連休に近い。
 男は嚙みしめるように残りの日々を過ごした。
 毎日の食事はバランスを考えながらも好物を積極的に取り入れた。明日には正気に戻れなくなっているかもしれない。これが最後の食事になるかもしれないと考えると流れ作業のように口に放りこむなんてとてもじゃないがすることはできず、食事の時間は倍になった。
 午前中は散歩をよくした。みずみずしい深い緑の葉は乾いて色が薄くなり、道行く人は半袖が多いとはいえしきりにタオルや腕で汗を拭う人はいない。肌を焼く凶悪な日差しは鳴りを潜め、過ごしやすくなってきた。
 歩きなれた街ものんびり歩いてみれば、新しく開店したカフェだとか、昔好きだったチェーン店が新作メニューを出していただとか、小さな発見が毎日のようにあった。男がモノクロだと思っていた世界も少し視線をずらしてみれば彩りにあふれていたのだ。ただ男が目を向けていなかっただけで。
 死の間際になって健康的な生活を送り、生を謳歌するというのも何とも皮肉な話ではあるが、男はこの穏やかな時間をそれなりに気に入っていた。
 数少ない友人たちにも連絡をいれた。会える者は直接会って、都合がつかない者は今までの感謝をこめたメッセージを送った。突然のメッセージに困惑したり呆れたり反応は様々だったが、茶化して濁せば男が死への準備を着々と進めていると感づく者はいなかった。
 ただし一つだけ難航した作業がある。それは死に場所探しである。
 何せ写真を見ただけでブレインは男の体を乗っ取ろうと暴れ回るので、画像であろうと夕陽を見るのは避けたい。が、夕陽が美しい場所を探したいのだから検索すれば当然見事な夕焼け空がディスプレイに表示されるのだ。視界に入るといもしない母体を求めてブレインが暴走する。当然その間作業は中止。よって場所探しは遅々として進まなかった。
 しかし男は誓ってしまった。美しい日暮れ時に一緒に死んでやると宣言してしまった。発作ごときで倒れている場合ではない。
 ならばアプローチを変えよう。こうなったら検索方法を変えるなり地図上から探すなり方法はいくらでもあるのだから。
 男が求める条件は見晴らしがよいこととあまり人が近寄らない場所。最低それだけは譲れない。すぐに発見されてしまったことで、ブレインが死滅する前に他者に感染してしまったら意味がないからだ。
 できれば感染を自覚するきっかけとなった例の写真のような住宅地を見下ろせる丘があればいいのだが、そうなると毎日誰かしらが訪れる公園などになってしまう。滅多に人が入らなくて見晴らしがいいとなるとそれこそ私有地ぐらいしかない。
 いくらよそ様に迷惑をかけないための行動とはいえ、それで別の罪を背負うのは本末転倒だ。まあ外で死ぬ時点でそれなりの迷惑をかけるのだが。
 もはやなりふり構ってはいられなかった。国内ならどこでもいい。最悪海外でも可。タイムリミットが訪れるより前に男は二人だけのラストダンスを行うステージを見つけなければならない。
 ようやく男の条件と合致する場所を見つけ出したのはそれから一週間後のことだった。県外だが電車でいける場所で、住宅街を見下ろせる小高い丘だ。近くには大きな公園もあるが、かつて空遊病の感染者が亡くなった現場らしく、十年経った今も良からぬ噂がこびりついて人がほとんど近寄らないらしい。
 これほどうってつけの場所もないだろう。再び不名誉な実績を積ませてしまうのは心苦しいが、どうか許してもらいたい。男は約束を果たさなければならないのだ。
 地図上にフラッグをたて、男は早速天気予報のサイトをクリックした。

 天気予報は確認した。両親への手紙も投函した。
 男の遺書に気づいた両親が警察に連絡して、ただの自殺者として処理してくれることが一番いいが、まあ上手くいかなくても次の犠牲者を出さなければそれでいい。
 車窓を流れる木々たちは葉の先をほんのりと黄色く色づかせている。澄み渡るような青がバックにあるためかよく映えていた。
 だが電車に座る人々は手元のスマホに視線を落としていて外の変化にこれっぽっちも気づかない。もったいないなと思ったが、男自身もこんなことにならなければきっと小さな秋に気づくことなく手元の端末ばかり眺めていただろう。
 ああ、死出の旅路にはいい景色だ。まっさらな項をひと撫でし、男は口元を緩ませた。

 丘の斜面は思ったより急で、頂上についたときには汗がつたっていた。頂上には三角屋根の休憩スペースがあったが、ベンチには蜘蛛の巣が張って、板もひび割れている。コンクリートの床には落ち葉が舞いこんでいて隅には埃なのか何なのかよくわからない灰色の塊がうずくまっていた。
 男は蜘蛛の巣をはらって腰をおろした。背の高い草が揺れる原っぱの向こうにトラロープが揺れているのがちらちらと映る。その向こうには家々やら道路やらが見渡す限り続いていた。
 秋風が頬を撫でていくのが心地よい。ふもとの公園は小さな子どもと見守る親が何組かいたが、ここには人影一つとして見当たらない。男は胸をなで下ろした。……ネットには自殺スポットとしても挙げられていたので先客がいたらどうしようかと不安だったのだ。
 西に太陽が傾いて長い影を作り出しているが、まだ空は青い。男は草原に腰をおろし、ぼんやりと眼下に広がる街並みを見下ろした。
 家々が手のひらにのるほど小さい。まるでよくできたジオラマのようだ。あの一軒一軒に住む家族がいて、それぞれのドラマがあり、歴史がある。もしもブレインと共生できていれば自分も目下にある家々のように誰かと寄り添いあって暮らす未来があったのだろうか。
 脳裏に一人の女性が浮かんだところで男はかぶりを振った。
 今更になって往生際が悪い。たらればを考えたところで意味などないのだ。二人の命は今日で終わるのだから。
「お前も災難だよなブレイン。命がけで体についたってのに結局バトンを次に渡せないんだから」
 ちらりと腕に視線を向ける。そこには雑に包帯が場違いなほど浮いている。男はそれをとり外した。赤いシミがいびつな水玉模様のように点々とついた白い紐がリボンのように揺れる。
 ふいにひときわ強い風が吹いて、男の指から包帯をさらっていった。天へと舞い上がっていく。きっとブレインもあの包帯のように空を舞いたかっただろう。だがどれほど希っても迎えは来ない。男の体ごとさらってくれるかぎ爪は存在しない。
「まあでも独り身同士全力で走り抜けようぜ。俺が最後まで付きやってやるからさ」
 剝き出しになった傷口は、既に血液が固まって赤黒い血餅となっているが、まだぐじゅぐじゅと膿んでいるところもあった。
 こうなるくらいだったら無理に破壊しなければよかった。腕についた出来損ないの脳みそのようなこぶは不気味だったが、ブレインらしいといえばブレインらしかった。今の傷は男の癇癪の証拠でしかない。
 ベンチに背をもたれると、どっと眠気が襲ってくる。逆らう間もなく男は夢の世界に落ちていった。
 
 目を覚ましたときには空は見事な茜色だった。男を真っ直ぐ照らすように赤々と太陽が燃えている。この星に温度を、命を与える恒星が真っ直ぐ二人だけを見つめている。金と橙の混じった球体がただ二人のためだけに輝いている。
 その光景は今まで見たどんな美景よりも心を震わせた。男は網膜が焼けるのも気にせず食い入るように斜陽を見た。
 どくりと心臓が鳴る。男の手を誰かがとる。誘われるがままに男は立ち上がった。
 手を伸ばす。茜色のスカートは男の手があと少しで届く、というところでひらりと躱される。裾は淡い紫色で楚々としているのに、どこか男を誘う色があった。
 くすくすと誰かが笑っている。もうおしまい? と小首をかしげている。
 まさかそんなわけがないだろう。男は誘われるがままにそれを追いかけた。
 手を伸ばす。逃げられる。追いかける。あと一歩のところでするりと抜ける。くるりと身を翻して一回転。
 ふと視界に黄色と黒のどぎつい虎模様が入ってきた。完成された楽園にゴミを投げこまれたような、いかにも不似合いな人工物に男は眉をひそめた。まったく邪魔者のせいで興ざめだ。せっかく楽しく踊っていたというのに。
 いや待て。これはたしか――
 不味いと思ったときには遅かった。ぐらりと体がかしぐ。と、次の瞬間視界が凄まじい速さで回転した。
 ようやく視界が安定したときには男の体は虫の息だった。打ちどころが悪かったのか足はあらぬ方向に曲がっているし、数えるのも億劫になるほど様々なところから血が流れ出ている。
 どうも台風か何かで地面でも崩れたのか、崩壊した斜面から滑落したらしい。
 ひゅうひゅうとかぼそい息が口から漏れた。自分でも駄目だと理解できるのにそれでも肺は空気を取りこみ、心臓は血液を送りだしている。
 彼らは本気で生かそうとしている。最後の最後まで生を諦めないでいる。その司令塔は今日この体を終わらせようと決意していたというのに。
 滑稽で哀しいほどまでに純粋な細胞たち。自分でなければ彼らももう少し生きられたのだろうか。はは、と男は小さく笑った。
 視界が己の汚い赤で染まる。鉛のように重い腕を何とか持ち上げて拭うと惚れ惚れするような空が再び顔を覗かせてくれた。
「ほら、おまえが……みたかった空だぞ」
 震える腕をかかげると腕がずきりと痛んだ。男にはそれがブレインの歓声のように聞こえた。
(こんなに美しい景色を目に焼きつけて終われるのなら、それも幸せだったのかな)
 しょうもない人生だった。何かを成し遂げたこともなく惰性で人生を消費していた。
 だがブレインと出会ってから、男の人生は良くも悪くも変わった。突如降ってわいた死に慄き、体のバグが直ったことに浮かれ、異性といい雰囲気になって、再び死と向き合うことになり、最後はそれを受容した。多分今までで一番「生きた」時間だった。こうしてみるとブレインは幸福の象徴ではないが、生命の象徴ではあったのだろう。
 意識が闇に飲まれていく。今にも閉じようとする瞼を男は無理やりこじ開けた。この景色を二人でみるために。
 男の腕がパタリと落ちた。だが体の損傷具合とは対照的にその表情はひどく幸せそうであった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?