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【小説】ブレイン・ペット 第6話

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 うだるような熱気が和らぎ、肌を撫でる風からはどこか秋の匂いがする。あれほどけたたましく鳴いていた蝉も嘘のようにぱたりと止んで、今はただ寂しく葉擦れの音がするだけだ。抜け殻は街路樹やコンクリートの壁にひっそりととまっているのに、その骸はどこにも見当たらない。たしかに彼らが生まれた証拠はあるのに、彼らが死んだ証拠が見つからないのは妙に胸をしめつけられる。指が無意識のうちに平らかになった腕をなぞった。
 ブレインと決別してからの数日間、腕はかなり腫れた。当たり前といえば当たり前だろう。治りかけの皮膚をひっぺがして、あまつさえ肉をえぐり、血管を破ったのだから。突如暴虐の嵐にさらされた体はたまったものではない。もし体内を覗き見ることができたのならば、なんとか被害を最小限に留めようと駆けずり回る細胞たちが見えたことだろう。
 ずきずきと痛む腕はしかし、佐藤がくれた軟膏のおかげで前回とは比べものにならないほど楽だった。彼女のお墨付きなだけあり、膨れ上がった赤い丘に軟膏を滑らせるとすっと痛みが引いていくのだ。おかげでキーボードを叩いているときも、大事な会議で発表しなければならないときも腕を気にかけずに済んだ。
 さてその佐藤とは進展がほとんどないといっていい。
 重い過去を打ち明けたおかげか、佐藤の態度は明らかに軟化した。もちろん職場ではいつもの仏頂面で淡々と業務をこなしていく姿しか見ていないのだが、ひとたび会社の外に出ると一変する。
 きりりと上げた目尻を柔らかく下ろして、ころころとよく笑う。人のミスをほじくりおこすニワトリ女だとか、流れている血が氷なのではないかと噂されている人物とは同じ人物だとは到底思えない。一度「佐藤さんは案外笑う人なんですね」とこぼしてしまったところ、彼女は目を見開いた後、ふっと眦を下げて言った。
「あなたとだからじゃないですかね」
 その微笑みを目にした瞬間、心臓が飛び跳ねた。ブレインを手にかけてからというもの、なるべく誤作動が起きないように細心の注意を払っていたというのに、佐藤と接するときはいつも男の手を離れて好き勝手動く。だが会社でのバグとは異なり焦燥感や恐怖心はなかった。佐藤も男が挙動不審な動きをしても首をかしげるか、おかしそうに笑うかどちらかだったので、男もいつしか自然体で話すようになった。
 とは言っても社内ではその片鱗すら見せず、相変わらず隙の無い無愛想な物言いで相手を気圧しているものだから、佐藤がジョッキ片手に幼く見える顔で上機嫌に笑うことなど男以外誰も知るまい。もちろんそれは男にも適応されたので、下世話な話にアンテナを高くしている加藤にすら二人の関係が怪しまれることはなかった。
 二人の交流は密やかに続いた。
 男が気に入った焼き鳥の店を紹介したときは目を丸くして焼き鳥の美味さに感動していた。あのときはいつも以上に饒舌になってしきりに褒めていたっけ。佐藤が自分のご褒美によく行くというバーに入ったときは、ひっそりと男女が寄り添いあったり酸いも甘いも嚙み分けた初老の男がカウンター席で一人グラスを揺らしていたりといかにも大人向けの店の雰囲気に尻込みしてしまい、自分が場違いで浮いていないかをしきりに気にして苦笑されたときもあった。
 きっと男が一歩踏み出せば、二人の関係性は大きく変わったのだろう。だが男はどうしてもそのあと一歩を踏み出すことができなかった。
 足を踏み出そうとするたびに頭をよぎるのは己が手で殺めた元居候。腕は腫れがひき、脳溝のような線も消えて、ただよどんだ赤色のシミがのっぺりと浮かんでいるだけだ。だが男には今も体のどこかに潜んだ虫が皮膚の向こう側からじいっとこちらを見つめている気がしてならない。温かい血をすすりながら恨みがましい目で裏切り者を睨みつけている、その仄暗い視線が、男の頭から離れない。
 彼女は父親をブレインの同族に殺されている。もしものことを考えてしまうと、どうしても次の段階に進むことができなかった。
 いや違う。結局自分は意気地なしなのだ。ブレインがいなくなって心臓や汗腺は制御不能になる予兆を見せたが、何とか押さえこんでいるうちに改善できた。長年苦しんできた不具合を乗り越えられたのに、どうしてひと一人の関係を一歩前に進めないかなんて答えは決まっているだろう。
 勤務時間を過ぎた社内は閑散としていて、自分か隣の加藤が叩くキーボード以外の音はない。青白い蛍光灯がオフィスを照らしているが、それがいっそう寒々しさを強調していた。
「ほんとやんなっちゃうよなあ。俺たちに厄介な仕事押しつけてさぁ。はあ俺だってこの仕事がなけりゃミキちゃんに会いにいっていたのになぁ」
「ミキ? またお気に入りを入れ替えたのか?」
 この前まではユカに貢ぐとか何とか騒いでいたはずだが。キャバクラに入れこんでいるわりには、ころころとお気に入りの嬢が変わる。
「だってあの女さあ、加藤さんが一番とか言っていたくせに本命が他にいたんだぜ? そりゃ百年の恋も冷めるってもんよ」
「そりゃ向こうだって商売なんだから本音と建前くらい使いわけているもんだろう」
「そんなことはわかってんだよ!」
 ドンと加藤はデスクを殴った。じろりとこちらを睨む目は闘牛のように血走っている。男は思わず身を引いた。
「でもそれを客が察しないように隠すのがプロってことだろ? チッ、あの女、こっちがしがないサラリーマンだからって舐めやがって」
 ぶつくさと恨み言を呟いていた加藤は突如首をぐるりと回して男を見た。その顔には下卑た笑みが貼りついていて、男は先ほどとは違う意味で距離をとった。
「てかさあお前はそういうのないわけぇ? ほらニワトリ女……おっと佐藤さんとかなんかないの? あるよな? だってお前もまだまだ働き盛りの男だもんな。いつもしけた顔でぼけーっと仕事していようが、まだ枯れるほどじゃないだろ? な、ここだけの秘密にしてやるからさ、佐藤さんとの間柄くらいは教えてくれよ」
「何もあるわけないだろ。ほらあと少しで終わるんだ。仕事しろ」
 佐藤の名を出されて一瞬びくりと体がこわばったが、出た声は平坦だった。加藤は舌打ちを一つして、唇をとがらせた。
「はあ、そこは嘘でも気がありそうだとか何とか言えよ。ちょっと仕事ができるようになったからって、そんな調子じゃすぐに上から疎まれるぞ」
 そんなことしなければ出世できないのなら平のままでいい。喉まで出かかった言葉を飲みこんで男は曖昧に笑った。
「にしても何が悲しくて野郎と二人、夜景を見なくちゃなんないのかねえ。どうせならかわいこちゃんがよかったよ」
 窓の外は正方形の明かりが無数に連なって夜の闇に彩りを添えている。だが男の目に何よりも美しく映ったのは空にきらめく星々である。銀、赤、橙、青みがかった白。命を燃やして輝く光は、人工的な光よりもずっと気高く情熱的に見えた。
「でも星がこんなにきれいなんだから、曇り空よりはいいほうじゃないか?」
「星ぃ? マジで? どこにあんの」
「どこって普通にあるだろ。ほらそこに」
 ビル群の影の隙間から数多の星が輝いている。眩い作り物の光に負けず健気に輝いている光が見えないなんて、加藤は意外と目が悪いのだろうか。
 加藤は身を乗り出して何度も瞬きし、ついには窓際まで歩いて夜の街を凝視していたが、首をひねって戻ってきた。
「んー? 全然見えないけど。お前そんなに目よかったのかね」
「は……?」
 男は呆然と呟いた。男は特別目がいいわけではない。まだ辛うじて眼鏡のお世話になってはいないが、自慢できるほどでもなかった。あくまで普通。それなのになぜビルが立ち並ぶ街のど真ん中でこんなにも夜空に心震わせられる?
『中間宿主に寄生した脳網虫は脳を操作し、哀れな犠牲者を空に「恋させる」』
 まさか異様に空が美しくみえるのは――。
 ぞくりと全身の毛が逆立った。
「おーいどうした? 顔色悪いけど大丈夫そ?」
「あ、ああいや大丈夫だ」
 まさか、いやそんなことはないはずだ。だってあのときたしかに自分は息の根を止めたはずなのだ。
 しかし空遊病の潜伏期間は一か月~半年。期間的にはまだ潜伏していてもおかしくはない。
 さすった腕はいつもと変わらぬ滑らかな肌ではあったけれど、そもそも通常の空遊病は数日間の腫れが続いた後、いったん引くのだ。その段階で健常者との区別は難しい。
 それに空遊病を完全に取り除けた事例は世界に一度たりともない。専門的な道具何一つない、力任せの雑な除去方法で完全に取り除けるはずがないじゃないか。
 ぐにゃりと地面がゆがんで地面に引きずりこまれる。それは徐々に土から血液に変わっていって、男は血管内を進む赤血球たちと一緒に流れていた。やがて赤の世界に黒っぽい茶色の細長い物体が端に入りこむ。顔を向けるとそこには毛むくじゃらの虫が牙を鳴らしながら男を覗きこんでいた。八本の脚に、分厚い甲羅、巨躯のわりには小さな目。しかしそれは確実に男を捉えている。
 男はさながらSF映画でエイリアンに遭遇してしまった一般人だった。慌てて逃げようとするも赤血球が邪魔して上手く動けない。虫はそんな男を嘲笑うかのように悠々と扁平な粒をかきわけ男に迫る。カチカチと牙が耳の後ろで鳴る。ついに分厚い鋏が男の身を貫こうとしたそのとき――

 気づけば自宅のベッドの上だった。スーツもしっかりハンガーにかかっていている。いつの間に回したのか洗濯機がごうんごうんと動くくぐもった音がした。
「夢……?」
 はっと男は腕をみた。腕は変わらず楕円と呼ぶにはいびつな赤い痕があるだけだ。
 男は意味のない喚き声を上げて洗面所に駆けこんだ。洗面台横の洗濯機には余った超純水のボトルが我が物顔で座っている。
 別に飲んでも毒にはならないので、ちょくちょく飲み水として利用していたものだ。まさか再び飲み水以外の用途で使用するとは思ってもみなかったが。
 男は幾分か軽くなった段ボールを持ち上げ、浴槽の縁に置くと腕を振り上げた。
 何度も何度も入念にえぐった。血がふき出そうが、肉が露出しようが構わなかった。床も腕も真っ赤だ。そこに思い切り超純水をぶっかける。容赦なく注がれる水に細胞たちが悲鳴を上げた。
 男はそれを無視して延々とかけ続けた。流れ出る赤に奴の笑みが浮かんでいる気がして、いつまでたっても止まらない血が厭わしくてたまらなかった。
 それからいつまで水をかけ続けていただろうか。どれほど傾けてもコックからは一滴の水も出なくなっていた。床だけでなく壁まで細かい赤が飛び、醜いまだら模様を作っていた。
 腕がずきずきと痛む。立ち上がるとぐわんと視界が揺れた。
 シャワーで入念に掃除しても鉄さびた独特な匂いは未だ濃く残っている。
 我に返ると己のしでかした愚かさがありありと浮かびあがってきて男は天を仰いだ。
 奴が残っているという確証はないのだし、たまたま星がよく見えただけだ。きっとそうだ。空遊病の患者で青空に夢中になった者はいても夜空に夢中になった者なんて聞いたことがない。大丈夫、大丈夫。自分はきっと大丈夫。
 そうだ、試しに空の画像でも検索してみればいい。
 男はふらつきながら洗面台に避難させていた端末で「空 写真」と検索した。一瞬で出てくる無数の写真。わたあめのような雲、雲間から覗く太陽、真夏らしき濃い青、虹がかかった幻想的な写真。どれを見ても普通にきれいだ。病的なまでに惹かれるなんてそんなものはこれっぽっちも浮かんでこない。
 ああ、やっぱり気のせいだったのだ。自分が勝手に思いこんで怯えていただけだったのだ。
 ――本当に?
 今感じている「きれい」が前と同じ「きれい」だといったいどうやって証明できる?
 男が考えにふけっている間も指は動く。様々な空の表情を切り取った画像が無限に流れていく。と、そのときある写真が目に飛びこんできた。燃えるような赤。中心の太陽に吸いこまれていく雲。伸びる家々の影法師。
 どくりと心臓が鳴った。
 ああ、この光景を見たい。この空に触れたい。この空気を吸って、全身でこの空を感じたい。
 熱に浮かされたような衝動が体の底から湧き上がってくる。抑えようとしてもその倍以上の力で押し返される。紙ほど薄い、だが確実に自分とこの夕焼けをわかつガラスが憎くて仕方がなかった。
 気づけば男は眼球が画面とタッチするほどまで顔を押しつけて狂ったように「いきたい」と「ふれたい」を繰り返していた。
 それは空遊病の末期症状の一つ、空に対する異常な執着心に他ならなかった。

 男は真新しく巻かれた包帯を見下ろし、一人考えていた。幸いにも嵐のような衝動は数分もすれば収まったが、こうなってしまった以上、男の未来は確定したようなものだ。
 死にたくない。たとえブレインの感情が混ざっていようが、この感情は間違いなく自分から生まれている。それだけは言える。生への執着はどんな生き物にも等しく備わっているものだからだ。
 ブレインの望みは男を操って次世代に命を繋げること。これも広い視点でみれば生への欲求に異ならない。以前命を繋げるために他者の命を踏みにじるのかと憤ったことがあったが、前言撤回しよう。彼らほど真っ直ぐ生に向き合っている者はいない。少なくとも心を殺し、灰色の日々を過ごしていた男よりはずっとブレインのほうが「生きて」いた。
 だが両者の望みを同時に叶えることは不可能だ。ブレインが本懐を遂げるためには男が犠牲になるし、逆に男が生き延びたいと思うのであればブレインが邪魔になる。命の椅子は一つだけ。そして男はその椅子から蹴り出されそうになっている。
「でもお前が勝ち残ったところであるのは先のない未来だけだぞ」
 この体のどこかにいるであろうブレインに言い聞かせるように男はひとりごちた。
 男を操ってどれほど天に近い場所へ行こうとも、命がけの踊りをさせようとも、彼らが待望するものはこの星にいないのだから。
 行きつく先が袋小路だというのにどうして前に進もうとするのか。必死に男との主導権争いを制して、この体を手に入れたところで仲間は誰もいないのだ。もはや自分以外誰も残っていないこの異界の地で叶うはずのない夢を分身体に引き継ぐくらいなら大人しく腕にとどまってくれればよかったじゃないか。そうすれば無駄に使い潰される命が一つ減る。
 いや自分もブレインのことを笑えない。ブレインがいなければ佐藤と親しくなる機会なんて一切訪れなかっただろう。ブレインと出会わなければ男は誰とも深く繋がることなく生涯の幕を下ろしていたことだろう。その孤独な一生のどこがブレインと違うというのだ。
 それに仮に共生できたとして、ブレインがいつ寝返るかわからない以上、男の心に安寧が訪れることはないし、何よりブレインのことが露見すれば世間が男たちが生きることを許しはしないだろう。
 どこをとっても八方塞がり。そして遅かれ早かれ迎える結末は一緒。そうであるならば――
「なあブレイン」
 男は呼びかけた。その声は恐怖や怒り、ましてや周囲の称賛にのせられ調子づいた声などではない、悟りの境地に至ったかのような凪いだ声だった。
「どうせ望まれない、行き止まりの未来しか残されていないっていうならさ、俺とお前、二人で心中しよう。お前がみたいと思った光景最後にみせてやるからさ」
 腕がずくりと疼く。男は微笑んで包帯を撫でた。

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