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【短編小説】What a coincidence!

それは何とも不思議なめぐり合わせ。
ハッピーハロウィン!ひょんなことから英国の妖精ブラウニーと一緒にハロウィンを過ごすことになった小豆洗いの話。

上記の話と世界線は同じですが、読まなくても読めます。

 人気のない夜の森にショキショキと響く不気味な音。音をたどって草木をかきわけるとたどり着いたのは川だった。暗闇に目を凝らすと岸辺に誰か座っているようだ。恐る恐る覗きこむと、それは目ざるを持って小豆を洗っているらしい。ふいに人影が振り向く。にやにやと笑う老人の目が妖しく光った。
 キャー!  
 甲高い悲鳴が夜の静寂をつんざいた。

「ってんなことあるか」

 くだらない妄想につっこみを入れ、小豆洗いは嘆息を落とした。
 手の中にある小豆はつやつやと輝いている。だがそれがどうしたというのだ。もはや熱心に小豆をといだところで怖がってくれる人間などいやしない。
 安定して暗闇を照らす光を手に入れてから、以前にも増して人間は夜を恐れなくなった。それでも強い妖である鬼や天狗、頭が回る狐などはまだ人間を驚き慄かせることができるが、小豆を洗うしか能のない自分にはもはや人間を怯えさせるなど不可能だ。
 そもそも人間の大半はもはや小豆を洗う習慣すらないのだろう。
 指先がすうっと透ける。存在が薄れかけているのだ。しかし自身の存続がかかっているとしても抗う気はなかった。消えるのならばひと思いにやってくれとすら思う。どんなに努力しようが所詮小豆洗いは小豆洗い以外の何者にもなれない。夜を我が物顔で闊歩するようになった人間たちにたかがいち小妖怪がいったいどうやって立ち向かえというのだ。
 枝々が軋み木々がざわめく。今日はやけに騒がしい。いつもは静かなこの森もまるで祭りのように浮きたっている。

「そういや、今日はたしかはろうぃんとかだったか」

 外の国から入ってきた祭事の一つだ。なんでも自分たち夜の者が主役の祭りらしい。外の国ではこの時期にこちらと人間界の距離が近くなるらしく、流れこんでくるこちら側の者から身を守るために仮装するようになったのだとか。もっともこの国発祥の祭りではないためか、本来の意味は形骸化し、ただ思い思いの仮装をして馬鹿騒ぎするだけの催事と化してしまっているようだが。

「ま、おれにゃ関係ねえことよ」

 祭り好きな妖たちはこの催事に乗じて人間界を練り歩いていることだろうが、自分には縁のない話であった。
 重い嘆息を落として石の上に座り直す。板のごとく平らでほどよい厚みのあるこの石は数年前川辺に流れついたところを拾ったものだ。これがあるかないかでしんどさが天と地ほども違う。

「Hey, hello! ……じゃなかったコンバンワだっけ? あれ、まだ夜じゃないからコンニチワ? おーい、赤いビーンズを洗っているそこのおじいさん、ちょっと聞きたいことあるんですけど、イイデスカー?」

 変な声が聞こえた気がするが無視だ、無視。こういうものは関わらないのが一番である。祭りに浮かれ過ぎてこんな森の奥まで迷いこんできた浮かれ外人なぞ知るものか。

「ねえ、ちょっと! 聞いてる?」
「ああ“?」

 腕をむんずと掴まれて小豆洗いは不機嫌丸出しの顔で振り返り、そのまま固まった。

「なんだ、見えてるじゃん。そうならそうと言ってほしいよね。それともジャパンの小鬼は僕らみたいにとってもいい性格してるのかい?」

 そこにいたのは自分と同じくらいの背丈の男だった。澄んだ黄褐色の瞳に赤い頭巾、そこから覗くぼさぼさの茶髪、ブラウンの擦り切れた布を何とか服の形に仕立て上げたようなみすぼらしい服。浮浪者と言われても納得してしまうような小男がそこに立っていた。その大きな目は友好的な輝きに満ちている。だがそんなことはどうでもいい。重要なのは小男から滲み出るこちら側の空気だ。間違いない。こいつもこちら側の住人だ。

「……お前いったい何者だ」

 身構えた小豆洗いとは対照的に小男はにっこりと笑った。

「Oh, sorry! 自己紹介を忘れていたよ。僕の名前はメイソン。ブラウニーのメイソンだ。君の名前は?」
「ぶらうにぃ?」

 聞きなれない言葉に小豆洗いは眉をひそめた。

「そう、Brownie。家に住み着く善良な妖精さ。で、君の名前は?」

 相変わらずきらきらした瞳でメイソンは問いかける。視線が痛い。腕は掴まれたままであるし、こちらが答えるまで何が何でも離さないという気迫を感じる。小豆洗いはため息をついた。

「……小豆洗いだ」
「アズキアライ? うーん、聞いたことないけど、ユニークな名前だね。 気に入ったよ。でもアズキアライだと長いからアズキでどう?」
「おい、なんだそんな女童めのわらわみてえな名前はよ」

 いきなり可愛らしいあだ名をつけられて、小豆洗いの眉が跳ね上がる。

「いいじゃないか。似合っていると思うよ?」
「おれはよくねえよ」

 こんな醜いチビの妖怪つかまえて何を言っているのだか。心底呆れた目を向けたが、メイソンはにこにこと笑っているだけだ。その邪気のない笑みにすっかり毒気を抜かれ、嫌味を言う気すら失せてしまった。

「んで、ぶらうにぃのめいそんとやら。お前は何しにこんな森の中までやってきたんだ」

 聞きなれない言葉に彫りの深い顔立ち、明らかにこの国の者とは異なる空気。外の国から来たのは明白だった。
 だが理由がわからない。小豆洗いがいるのは街にほど近い森の中だ。少し歩けば住宅地にたどり着くが、特に特色のある街でもなし、わざわざ異国の者が足を運びにくるとは思えない。それはこの森にも言えることだ。中途半端に人の手を入れられたまま放置されたこの森は、草木が自由に伸びて生命にあふれているが、人の手を加えられているせいで原始林のように神秘的な力で満ちているわけではない。俗世にまみれ、ありふれた雑多な森である。だからこそ小豆洗いのような小妖怪でも住めるのだが。
 つまり何が言いたいかというと、目新しいものは何もなく、ゆえに異国の妖がここにいる理由がわからないのだ。
 小豆洗いの疑念を感じとったのか、メイソンは勝手に話し始めた。

「実は僕、ジャパンにくるのが初めてでさ、地図を見ながら来たんだけど、いつの間にかどんどん木が増えてきてね。この森もうん、まあ素敵なところだと思うんだけど、ちょっと落ち着きすぎているというか……僕はもっと賑やかなところがいいというか」
「つまり迷子ってことか」
「そうともいうね」

 メイソンはいい笑顔で言い放った。小豆洗いは頭痛すら覚えはじめた。
 なんてついてない日だ。いったい自分が何をしたというのだろう。小豆洗いは再びせりあがってきた嘆息を押し戻し、メイソンに向き直った。

「で? どこに行きたいんだ? 街までなら送ってやるが」
「Thank you! 助かるよ。ところでシブヤってどこにあるかわかる? 多分徒歩で行ける距離にあると思うんだけど」
「……言っておくが徒歩で行くにゃ、渋谷は遠すぎると思うがな。今から行っても着く頃には朝日を拝むことになるだろうよ。もっともお前さんが空を飛べるなり、足に大層自信があるってんなら、話は別だが」

ぎょっと目を見開いてメイソンはのけぞった。

「Bloody hell!  そんなにかかるのかい!?」
「当たり前だろうが。渋谷がどこにあると思っていやがる」
「いやだってこの地図には……」

 ぶつくさと呟くメイソンの手には黄ばんだ紙が握られていた。ちらっと見えた地名が妙に古めかしい。小豆洗いは眉根をよせた。

「ちょっと貸してみろ。で、お前はどこを想定していたんだ? ……あ? ここ? 違えよ。今お前がいるところはここだ。にしてもずいぶん古い地図使ってんな。何年前のやつだ。下手すりゃ戦前だぞこれ」

 地図に刻まれていた文字はこの国の文字で、その隣にとってつけたようにアルファベットが振られている。その地名もずいぶん懐かしい名前だ。今はもう呼ばれなくなった名がそこかしこに散りばめられている。
 ――この地図が活躍していた頃はまだ自分のような小妖怪にも居場所があったのだ。
 旧友がふいに街角から現れたかのような、郷愁に近い感情が胸に迫ってきて小豆洗いはぐっと唇をかんだ。

「Bollocks! あのクソジジイめ! よくもこんなガラクタ売りつけやがったな!」

 しんみりした空気をぶち壊したのは、天に向かって唾を吐くメイソンの悪態だった。意味こそわからないが、恐らく一般人なら眉をひそめるような酷い罵詈雑言を並べたてている。その聞きなれない罵倒を聞き流していくうちに小豆洗いは心が落ち着きを取り戻していくのを感じた。

「いやこれだけ古いと逆に価値があるだろうよ。よくまあこんな物を発掘してきたもんだ」

 隣につけられた外国語は雑音に感じるが、それに目をつぶったとしても当時の空気を伝える資料としては優秀なのかもしれない。

「たしかにね。そう考えれば愛着もわくよ。ま、今はおよびじゃないんだけどさ」
「そりゃそうだな」

 しかしメイソンはそう言いながらも丁寧な手つきで懐にしまいこんだ。
 さてこうしてのんびりおしゃべりに興じている暇はない。このはた迷惑な迷子を森の出口まで送り届けなければ、自分は子守りから解放されないのだ。
 しばらく小豆洗いは淡々と足を動かした。が、その間もメイソンは喋り続けた。おかげでメイソンが英国出身であるとか、遺物を言葉巧みに売りつけてきたのは長年付き合いのある妖精仲間だとか、日本の飯は美味いが餡子は受けつけないだとか、いらない情報ばかりに詳しくなった。
 森を出ると既に太陽は西の山に沈んで、残照が太陽の名残を伝えるだけだ。

「じゃあな。街に着いたことだし、おれはここまでだ」
「えっ!? アズキは来ないのかい?」

 目を丸くするメイソンに小豆洗いはやれやれと首を振った。

「おれは街までは送っていくとは言ったが、それから先は約束してねえ。あとはお前さん一人で好きに楽しみな」
「そんな! 見知らぬ土地に僕ひとり置いてくってのかい? 妖精同士のよしみじゃないか」
「誰が妖精だ。おれぁそんな生き物になった覚えはねえぞ」

 顔をしかめて言い放つと、慌ててメイソンは追いすがった。

「ねえ、待ってくれよ。そりゃ僕はひとりだって慣れっこだけど、さすがに土地勘もない土地でひとり。おまけに頼みの綱は時代遅れの紙きれ一つ! こんなのでどう楽しめばいいって言うんだい」

 英国出身の妖精は大げさな身振り手振りで切々と己の不幸を訴える。こいつは家事をやるより舞台に上がって役者でもやったほうがいいのではないか。だが小豆洗いの心は一寸も動かない。

「その勢いで誰かに話しかければ誰かしら助けてくれるだろ」

 初対面であだ名をつけるくらい図太い奴だ。人間だろうが、妖怪だろうが押しに弱い奴なら世話を焼いてくれるだろう。

「お褒めの言葉どうも。でもそんな幸運何度も舞い込んでくるわけじゃわけじゃないからね。幸運の女神はいつだってチャンスを棒にする奴には厳しいんだ。ってことで今時間ある?」
「ねえよ」
「あるんだね。よかった! 今日君に会えたことが一番の幸運だよ」
「いや話聞け」

 逃げようにも既に腕は捕らえられた後だった。しかも小柄な体格に反して力が強い。全力で腕を振ってみてもびくともしなかった。

「それじゃ楽しいハロウィンにしようじゃないか」

 無理やり腕を組まされ、小豆洗いは賑やかな夜の祭典に引きずり出されたのであった。


「にしてもその恰好なんとかしろ。さすがに見るに堪えねえ」

 こちら側の者は人間の目には見えにくい。が、たまに見える目をもつ奴もいる。わざわざ目につくような真似はすべきではない。
 何より見ているこちらが寒くなる。擦り切れた茶色の襤褸切れから覗く体はそれほど肉がついているようには見えないし、十月末の夜は秋とはいえ冷える。街行く人間たちの中にはぞっとするほど丈の短い袴やら紙のように薄い布やら風邪でもひきたいのか? と疑問を感じるほど危うい服装をしている人間もいたが、それはまあいい。所詮一瞬のすれ違いだ。だが隣のこいつは、少なくともこいつが満足するまでは付き合わざるを得ない。

「着がえろって? でもこの服装はブラウニーのアイデンティティさ。僕の根幹。だから変えることはできないね」
「じゃあ上に何か羽織るなりなんなりしろ。はっきり言って、こっちが寒くなってくらあ」
「僕が人間の店に行ってコートくださいって言ってもらえると思う? もしそれができるんなら、この国は聖人ばかりということになるね。素晴らしいよ。このままこの国に住み着きたいくらいさ」
「ほんとお前がこの国までやって来れたの奇跡だと思うぜ、まったく」
「いやあがんばったよ」

 当の本人は寒さなど感じていないらしく、興味深げに街を見回している。
 街はいたるところに外の国の妖怪を模した派手派手しい装飾が飾りつけられていた。特に目につくのはオレンジの実。同じ表情を浮かべている彼らは夕闇の中でも妖しげに輝いていた。

「うーん、やっぱりここでもジャックオランタンを飾るんだね。そういや去年か一昨年のハロウィンだったかな、ジャックがさ、ランタンを新調してたんだ。いやーあのランタンはcoolだったね。アンティーク調で、ガラスにカブも彫られていたし。いや死にかけのカブも風情があったけど、あれじゃいつ死ぬかわかったもんじゃないし。あ、本人はもう死んでるんだっけか」

 あはははは! と何が楽しいのかわからないが、メイソンは腹を抱えて笑っている。そのけたたましさに小豆洗いは顔をしかめた。

「誰だよジャックって」
「あれ? ジャックオランタン知らないのかい? あっちにもこっちにも吊り下げられているじゃないか」

 メイソンが指さした先には例のオレンジが笑っていた。記憶の限りでいえばあれは南瓜である。なぜ緑ではなく橙なのかはわからないが、あれは間違いなく南瓜だ。

「でもお前さっきカブって言っていただろうが」
「本家ではカブなのさ。海を渡ってからなぜかカボチャになったけどね」

 メイソンは大きく肩をすくめた。どうもこいつはいちいち大袈裟に表現しなくては気が済まない性質らしい。
 と、そのとき、前から目の場所だけ穴をあけたシーツを被った子どもがこちらに向かってきた。見知った気配だ。小豆洗いは足を止めてその子どもを凝視した。
 向こうもこちらに気づいたらしい。ただ前に進むために動かしていた足が明確な意思を持ってこちらに向かって進み始めた。あと一、二歩でこちらとぶつかる程度の距離でシーツお化けが停止する。二つの黒々とした穴が小豆洗いを見上げた。
 シーツが落ちる。ぼろぼろの学生服を着た少年がそこに立っていた。袖から伸びる手は小枝のように細く、一番小さな大きさの学生服にでさえ袖が余っている。顔全体はすすけ、その表情は能面のように無表情だ。
 傍らでひゅっと息をのむ音がしたが、それを無視して小豆洗いは少年の頭をかき混ぜた。

「無事に菓子はもらえたらしいな。よかったじゃねえか」

 少年の手には小さなかごがある。その中には色とりどりの飴玉やらチョコレートやらがぎっしりと詰まっていた。表情のない顔にどことなく喜色が滲んでいる気がするのは気のせいではあるまい。

「これから帰るのか」

 こくんと少年は頷いた。無言のままシーツを手に押しつける。

「お? なんだ、くれるのか」

 再び少年は首肯した。

「ありがとな。気をつけて帰れよ」

 手を振って少年は駆けだす。小さな背はあっという間に夜の闇に溶けていった。

「ちょうどいい。これを羽織っていればちったあマシに見えるだろうよ」
「ええー、だからこの恰好には僕の種族を示す大事な個性の一つであって」
「うるせえ。乞食と思われたくないんなら、さっさと着ろ」

 有無を言わさずシーツを放ると、メイソンは渋々ながらそれを羽織った。

「ねえ、さっきの子ってさ……」

 メイソンが声をひそめて尋ねる。小豆洗いはなんて事のない顔を作って答えた。

「ああ、お前が思っている通りだ。前から子どもが菓子をもらえるこの祭りに興味をもっちゃいたんだが、ま、今年ようやく踏ん切りがついてな。まあ上手くいったようで何よりだ」

 隣の空気が一気に重くなる。沈んだ顔でメイソンは呟いた。

「……この時期にああいう子が来るんだ」

 夜を追い散らす煌びやかな光に照らされて、横顔に落ちる影は黒々と淀んでいた。

「別にどこの国にもああいう存在はいるだろうが。珍しくも何ともないだろ」

 はろうぃん自体、原義としては外の国版お盆のようなものだ。死人が来るなどこちらよりありふれているだろうに。

「うーん、まあそうなんだけどね。ああいう子を見るとどうにも昔いた家の子を思い出してしまってさ。そういえばあの子は結局帰ってこなかったなあ」

 小豆洗いは動きを止めた。思えば初めてこいつの口から「家」という概念が出た。本人は家に住む妖精だというのに、だ。その事実に小豆洗いは眉をひそめた。

「というかお前、家の連中には旅行のことちゃんと言ったんだろうな」
「言ってないよ」

 メイソンはさも当然の顔で言った。啞然とする小豆洗いとは対照的に、本人は店先で回っている魔女の飾りを弄んでいる。

「おい、それいいのか」
「だって僕が帰る場所はもうないからね」

 小豆洗いの言葉に小刀を差しこむように妖精は言った。しかしその視線は未だ安っぽい玩具に固定されたままだ。

「僕がいた家は取り壊されちゃったんだ。ま、しょうがないのさ。家としてはずいぶん長生きだった。家の年齢を表にまとめたのなら、十指には入らなくても百番目までには入っているはずさ、きっとね」
「そんなことはどうでもいいだろうが!」

 声を荒げてようやく暗い橙色と目があった。ぞっとするほど凪いだ目だった。その底に横たわる諦観を認めたくなくて、小豆洗いは言葉を並べたてた。

「お前は家に憑く妖なんだろう? じゃあその家がなくなったら、お前は、」
「そうだね。でもいいんだよ。最近は僕らが仕事してもミルクを置く人間も少なくなってきたし、消えるのならそれまでさ。それに念願のシブヤ観光は叶わなかったけど、こうしてジャパンのハロウィンを楽しめたわけだしね」

 妖精は小さく笑った。空気の読めない騒がしさはそこにはなく、あるのは夜に溶けて消えてしまいそうな儚さだけだった。

「良いわけねえだろう! 勢いでこんな東の小国に来るくらいの度胸があんのなら、来年はもっと早くに来い! 渋谷くれえおれがいくらでも案内してやらあ」

 馬鹿なことを、と理性が冷淡に見つめていたが止まれなかった。自分の消滅には無関心であったのに、いざ他人が消えゆこうとするのを目の当たりにすると必死に引き留めるなど酷い矛盾だ。しかも今日あったばかりの赤の他人、何だったら先ほどまで疎んじていた奴だ。だが黙って見送ることはどうしてもできなかった。

「いいか、渋谷にはそれこそ百鬼夜行のようにな、魑魅魍魎ちみもうりょうが闊歩するんだ。この国の妖怪も、西洋の妖怪も、漫画やあにめとかいうやつに出てくる奴らだって、画面から飛び出して歩き回るんだからな。食べ物に仮装するとかもう本来の意味はあるようでねえ、混沌した世界だが、それに紛れて本物だって歩いてるぞ。しかもおれみたいなちんけな妖怪じゃねえ。鬼やら天狗やら力のある大妖怪だ。一目見りゃ驚くぞ」
「そりゃ面白そうだね」

 妖精は微笑んだが覇気がない。小豆洗いは思いつく限り言葉を並べたてた。

「だがそこに行くまでは案内役が必要だ。東京は魔境だからな。今回のことでわかったろ? 土地勘のねえ奴がいくところじゃねえ。まあ気は進まねえが案内してやる。だから来年また来い」
「……僕も君も消えてなかったらの話だけどね」

 妖精は視線を僅かに下げていた。それをたどると己の手に行きついた。薄っすらと透けた指先に。
 気づいていたのか。自分が消えかかっていることに。だからこいつも容易に諦められたのか。自分と同じ、じきに世界から忘れられる種族だからと?
 冗談じゃない。驚くほど強い怒りが腹の底から沸き上がった。
 同類だと憐れまれ、勝手に同じ運命をたどるものと親近感を抱かれるのは御免だ。もういい。自身の消失を受容していた弱っちい心なんてものは便所にでも流してやる。
 小豆洗いは口角をつり上げた。

「はっ、おれのことを誰だと思っていやがる。妖怪なぞ大半の人間が信じなくなったこのご時世にしぶとく生き残っているのがおれだぞ。このくれえの危機を乗り越えるなんぞお茶の子さいさいよ」
「オチャノコサイサイ?」

 いい感じに決まったと思ったのに、無邪気に話の腰を折られてずっこける。頬が熱くなったのを誤魔化すために小豆洗いは乱暴に頭をかいた。

「あーくそ。てめえには通じねえのか。簡単って意味だよ」
「へー、勉強になったよ。今度から使ってみようかな、オチャノコサイサイ」
「おうおう使え使え。祖国くにに帰って広めやがれ」

 メイソンは大きく目を見開いて、二、三度まばたきしたあと、ふはっと口から笑みが漏れる。

「はは、そうだね。こんな面白い言葉広めなきゃつまらないよ」

 メイソンは腹を抱えて笑った。その瞳にはもう似合わない翳りはない。そして唐突にその小さな腕を天に突き上げた。

「ごめん、さっきのなし! 僕らしくなかったよ。そうだね、まだまだ伝統を重んじる家だってたくさんあるし、こんなところで腐ってちゃブラウニーとしての名が泣いちゃうよ。Many thanks! アズキ、君のおかげで忘れていた大事なものを思い出すことができた」

 メイソンはぱっと振り返り、小豆洗いの手を掴むや否や、力任せに腕を上下に振った。

「わかった、わかった。いいから離せ。手が千切れる」
「こうしちゃいられない。まずはこの街のハロウィンを全力で楽しまなくっちゃね。時間はあっという間に過ぎていくんだから」

 メイソンは手を掴んだまま駆け出した。何の前触れもなく走り出したので小豆洗いの足がもつれ、危うく地面に膝をぶつけるところだった。

「だから人の話聞けって言ってんだろうが! あと手を離せ! あぶねえだろ!」
「そんなこと気にしている場合じゃないよ! もたもたしてたら今年のハロウィンが終わっちゃう」

 小さな二つの影はあっという間に祭りの喧騒に溶けこんでいった。


 空は気持ちのよい秋晴れだった。鳥たちは目を覚まし、太陽を讃える歌を歌う。そんな爽やかな朝にガリガリと耳障りな地面を引っ搔く音が響いていた。

「こんなちゃちな陣で本当に帰れるのか?」

 円の中には多くの図形が複雑に組み合わさり、さも高度な技術ですと言わんばかりの雰囲気を醸し出しているが、なにせ作成者がこいつだ。不安しかない。

「知り合いの魔女に教えてもらったから大丈夫さ。彼女の実力は本物だからね」

 片目をつぶってみせた妖精に小豆洗いはやれやれと首を振った。

「そうかい。まあ気をつけて帰れよ。間違えててもおれは助けてやれねえからな」
「もちろんさ。行きは成功したんだから、帰りだってきっと成功するよ」
「どうだか」

ため息混じりに肩をすくめると、メイソンは頬を膨らませた。

「アズキはすぐそうやって否定的なことを言うんだから。悲観的なことばっかり言ってると悪いことしかやってこないよ」
「へいへい、悪かったな。性分なもんで。じゃあ次会うときは来年だ。忘れるなよ」
「そうだね。またハロウィンで! See you again!」

 にっと笑ってメイソンは魔法陣の中に飛びこんだ。瞬間、円が光り輝く。光がおさまったときには騒がしい妖精も奇妙な円もまるではじめからそこになかったかのように、きれいさっぱり消えていた。
 しかし昨日の朝よりもしっかりと地に足がついているのが奴の存在が嘘でなかったことを告げている。約束は契りで繋がりだ。消えゆく存在に約束という名の枷が繋ぎ止めている。だがそれだけではまだ弱い。消えかかった者同士の繋がりなんてたかがしれているからだ。このままではじきに再び消滅の危機に晒されることになるだろう。

「まあでも、約束しちまったからには来年まではいなきゃなんねえからなあ」

 まずは噂好きの鳥たちが言っていた漫画家の家でも訪ねてみようか。妖怪を主題にした漫画を描いているらしいから、それに小豆洗いを登場させられないか掛け合ってみよう。希望は薄いが叶わなくても構わない。仮にも妖怪を主として描いている人間だ。確実に興味を持つはず。何より一人の人間に認知されれば、存在はより確固としたものになる。
 軽やかな足取りに気づかないふりをして、小豆洗いは朝日差しこむ森に足を向けた。

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