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【短編小説】骸の夢

ゆらゆら、ゆらゆら魚は夢見る。
常連客から持ち込まれた白骨化した魚が泳ぐ金魚鉢と店主の話

上記の話に出てくる店の話ですが、読まなくても読めます。

 透明な壁のむこうに深い青がゆらめいている。
 そとにいるものはそれを「うみ」とよんだ。
 ――うみ。うみ。うみ。
 いい響きだ。天にのぼっていくあぶくを眺めながら、なんどもなんども口ずさむ。
 いつかあのひろい青でおもう存分あそべたらどんなにいいだろう。
 ああ、いきたいなあ。強くそう思った。

 雑居ビルとビルの、猫が一匹入れる程度の隙間がふいにゆらめく。次の瞬間、ビルが押しのけられて、一軒の店が生まれていた。それは一階建てのこぢんまりとした雑貨屋のような見た目をしている。
 扉は西洋の屋敷に登場しそうなアンティーク調の扉だ。重厚な木製の扉にはダイヤ型の小窓がはめこまれている。両脇には花壇があり、季節外れのハマエンドウが風に揺られていた。
 しかし突如現れたこの店に視線を向ける人は誰もいない。当然だ。彼らはこの店の商品たちに呼ばれていないのだから。

「ここに来るのは久しぶりですねえ。さて、今回はどんなお客が来るのやら」

 店主は倒れこむように椅子に腰掛けた。
 先ほどまでやれあっちに動かせ、やれ次は棚の上がいいだ、倉庫から出せ、最近出ずっぱりだったから休ませろとこき使われて、身体の節々が痛い。おかげで明日は筋肉痛決定だ。しばらくは動かないからいいじゃないか、と彼らはのたまったがそういう問題ではない。

「にしてもまた変わった趣向を……」

 天井からつり下がる満月のランプは青白い光を店内に投げかけている。その周りにはクラゲランプの触手が乙姫の衣のごとく優雅に舞っていた。
 天井近くまである巨大な棚の最上段からは渋い萌黄色のコンブが垂れ下がっている。それも床まで。
 多くの生物のゆりかごとなる巨大なコンブはおかの上でも子守唄を歌っているのでベッドに置いておくと安眠できるのだとか。もっとも自分は試したことがないので真相は謎のままだが。
 それにしても乾燥しない海の木はそのままベッドに持ちこむと塩水でシーツが駄目になってしまう気がするのだが、これを購入する客はどうやって使っているのだろう。……これを好んで買う客は味噌汁を飲むといい夢が見られると言っていたが、まさか……。
 下の棚には大小さまざまな瓶がずらりと並んでいる。歴史を刻んだ貝の化石に、深海に沈んだクジラの骨、枯れないハイビスカスと錆びた大砲の欠片。その他全て海に関するものばかりが詰めこまれている。
 海に染められたのは室内灯と棚だけではない。
 流木で作ったシェルフの上には今にも動き出しそうなアホウドリの剥製が休んでいるし、棚の足元には浮き玉が転がっている。透き通った薄青色の玉は、見ているだけで言いようのない郷愁が湧き上がってくるのだ。
 立ち上がる入道雲。カモメの声。潮風が運んでくる濃厚な夏の匂いに誘われて道を進めば、懐かしい海の家が見えてくる。声を張り上げれば、日に焼けた叔父が満面の笑みで手を振った。あの夏が再び回り出す――。
 遠い青へと駆け出しそうになった足を店主は寸でのところでおさえた。
 いけない。久しぶりに出したのでこのガラス玉の力をすっかり忘れていた。このガラス玉に詰まっているのは元持ち主の甥っ子の記憶。見る者の記憶に自身が持つ夏の思い出を挿入し、今は寂れたとある港町に自身を運ばせようとする、ある種呪いの品のようなものだ。もっとも大なり小なり店の商品たちは気に入った者に干渉するので呪いの品だらけと言っても過言ではないが。
 だからこそ扱いには十分注意しなければならない。不用意な扱いをすれば不幸な「事故」が起こってしまうときもあるし、悪意の塊が紛れこむときもあるのだ。
 そうでなくともうちの商品たちはそろいもそろってクセが強いものばかりなので、こちらの言うことはまったく聞きやしない。客が商品を選ぶのではなく商品が客を選ぶため、自分にできることは少ないが、それでも人が物に使い潰されるのを目の当たりにするのは後味が悪い。それも自分の店をきっかけに縁ができてしまったのなら尚更。
 ほとんどの人間には視界にすら入らないが、念には念を、だ。店主は重い体を動かして通りに面する窓のカーテンを閉めた。
 海の底を表したようなカーテンは、よくよく見れば織りこまれた糸がさざ波のように揺れているのがわかる。十年以上海につけたウミカイコの糸は陸に上げてもなお波に揺れているのだ。ひんやりと心地よいその肌をひと撫でして、店主は再び定位置に戻った。
 以前よそにだした海のグラスはまだこちらに戻ってきていないし、女好きなクラゲも旅立ったという話をきいていない。ここにいる誰かが新たな主人のもとへ旅立つことになるのだろうか。
 客が来るのは今日とは限らない。時には何日も客が訪れないときもある。そういうときは読書などしてのんびり待つのだ。
 と、噂をすれば、だ。
 カランコロンと呼び鈴が震えてドアが開く。

「おや、いらっしゃい。……ああ、誰かと思えばあなたでしたか」

 扉を開けて入ってきたのは白いワンピースを着た女性だった。青空色のリボンをあしらった麦わら帽子をかぶり、水色のキャリーケースを引く様はまさに夏の観光客そのものだ。

「今日は何をお求めで?」
「残念。今日は買いに来たんじゃないの。引き取ってもらいに来たのよ」

 店主は眉を上げた。

「おや、何か面白い品でも入手しまして?」

 女は頷いた。

「ええ、これをもらってほしくて」

 女はキャリーケースを開けた。横に倒すこともなく、立てたままで。
 中から出てきたのは段ボールだった。厳重に巻かれたテープが物々しい。ごとんと重いものがぶつかる音と共にカウンターが揺れた。

「ああ、本当に重いわね。折れちゃうかと思ったじゃない、まったく」

 女は額の汗を拭ってテープに手をかけた。
 何重にも巻かれたテープをほどいて、ようやく中身がお目見えする。

「これは……」

 店主は息をのんだ。
 水しぶきをそのまま形にしたような口に、滑らかな曲線。淡い青がのった硝子の肌は涼やかだ。美しい金魚鉢だった。しかも水入り。
 いや、そんなことはどうでもいい。注目すべきなのは中を泳いでいるモノだ。
 一匹の魚がいた。恐らく金魚。なぜ「恐らく」かというと、それは金魚というにはあまりに細く、あまりに白かったからだ。肉は完全にそぎ落とされ、土台だけが動いている。
 水槽の中を泳いでいるのは白骨化した魚だった。
 骨の魚は時おりプラスチック製の水草をつつきながらくるくると泳いでいる。これが骨だけでなければ、夏の面影をこの水槽に見いだしていただろう。
 手のこんだ悪戯だとは思わなかった。これでもこの店を始めて三十年以上。いわくつきのモノを見極める目は培ってきたという自負はある。
 黙ったままの店主に焦れたのか、女が眉をひそめた。

「金魚よ。見ればわかるじゃない」
「いや、わかるたってあなたね、いきなり白骨化した魚が泳いでいる金魚鉢だされても反応に困りますよ」
「あら? てっきりこういう手合いのものには慣れていると思っていたのだけれど」

 女が微笑を唇に浮かべる。挑発的にも見えるその笑みに店主は肩をすくめた。

「それで、これはどういった経緯で手に入れたので?」
「この魚はね、私が去年まで飼っていた金魚なの。名前はサニー。五、六年は生きたかしら。でもある日、水面に腹を出して浮いていたの。本当に突然だったわ」

 女は目を伏せた。骨の金魚が主人の空気が変わったのに気づいたのか、女を見上げるような仕草をする。女は硝子越しに金魚の体を撫でるように指を滑らせた。

「冷たくなったサニーは庭に埋めたの。丸くてすべすべの小石を墓石代わりにしてね、手を合わせてそれでおしまい。空っぽの水槽だけを残して、また日常に戻った。
 だけどね、一週間くらい前だったかしら。ふっと真夜中に目が覚めたのよ。月が恐ろしいくらい澄みきった夜だったわ。なんとなく庭先を見たら、一か所だけぼんやりと光っていたの。ちょうど星の光を集めたみたいにね」
「そこが金魚を埋めた墓だったと?」

 女は首肯した。

「ええ、そうよ。土を掘り返したら、この子が出てきたの。肉はとうに朽ち果てて、骨だけになってしまったけれど、光の源はこの子からだった。ああ、あなたにも見せてあげたかったわ。月の光に照らされた乳白色の骨を。内側から光り輝く美しい骨を」

 女は頬に手をあててうっとりと言った。
 店主はそっと金魚鉢に触れた。硝子の肌はひんやりしている。突然現れた皺だらけの指に興味を惹かれたのか、金魚がつっと身をひるがえしてこちらにやってくる。
 天井に浮かぶ満月が滑らかに動く骨を照らす。不気味というよりは綺麗だった。指をそわせたら平滑な面が肌に吸いついて、きっとえもいわれぬ手触りだろう。
 彼女が掘り起こしたときも、この金魚は美しく輝いていたのだろうか。
 真夜中の庭の一角に光が漏れている。暗く湿った土を掘り起こすと、共に過ごした魚の骨が発光している。星を集めて光り輝いている。かつての面影を残したまま。想像だけで感嘆の息が漏れた。
 この世に知られぬ奇々怪々、さまざまな恐ろしくも美しい世界を見てきたが、身近なものがそれに変貌する様を間近で見るという体験を店主はしたことがない。店主が目にするのはいつだって成ってしまったあとである。

「あんまりにも完璧な状態で出てきたものだから、私、思ってしまったの。このまま水槽に戻したら、また泳いでくれるんじゃないかって」
「それで試しに入れてみたら泳ぎだした、と。ではなぜ私のところに? 魚とはいえ、五、六年も共に過ごせば愛着もあるでしょうに」

 自分ならば手放すまい。一度は失ったと思っていたペットが姿はどうであれ、こうして戻ってきてくれたのだ。再び動かなくなるか、自分の最期が来るまで手元に置いておこうとするだろう。

「ええ、そうね。あなたが思うのも無理はないわ。私も最初はずっと一緒にいようと思っていたのよ。
 私、この子が生きていた頃はリビングに置いていたのだけど、それだと距離がありすぎてね。よその人が見る可能性があるところに置いておくのもなんだし、寝室に飾ることにしたのよ。でもね、この子が来てからある夢をみるようになったの」
「夢、ですか。どのような?」

 ふとある仏像を思い出した。一度狙った獲物は何年経っても虎視眈々と狙う、仏の皮をかぶった悪魔を。
 少なくとも今はこの水槽から悪意らしきものは感じとれない。だがあれも幼子が虫の手足を引きちぎるように人を不幸に陥れるだけで故意はないのだ。この金魚もいつ人に悪影響を及ぼす痛ましい品に成り果てるかわからない。

「あら、そんな暗い顔をしないで。夢を見るとはいっても可愛い願望よ」
「そうならいいのですがね」

 店主は深々とため息をついた。結局、あの像を買った男性からは一度も連絡がきていない。手遅れになる前に手放してくれているといいのだが。

「なあに? 久々に招かれざるモノでも紛れこんだの?」
「ええ。残念なことに」

 女は目を見開き、気まずそうに頬をかいた。

「それはお気の毒に。……話を戻すわね。サニーが戻ってきてから毎晩夢をみるようになったの。魚になって海に行こうとする夢を」
「海に“行こうとする”夢ですか。海にはたどりつけないのですね?」
「ええ。川を下ってついに海に到着するその寸前で目が覚めるの。深い青が目の前にあるのに、あと少しひれを動かせば憧れの地にたどり着けるのにってところで目が覚めるの。胸をかきむしるほど切なくて、泣きながら目が覚めたこともあるわ。
 でも肝心な海のイメージはぼやけているの。私、海に何度も行ったことあるのに、潮騒も海水の塩辛さも伝わってこないの。あるのは海の底のような深い青だけ。海の入り口なんて最高でもエメラルドグリーン、場所によっては濁った茶色なのにね。きっとこの子は行ったことがなかったから、想像ができなかったんでしょう。
 それはいいのよ。ただ海に行きたい、行きたいって気持ちが積もっちゃって、最近寝ても疲れがとれなくなっちゃったのよね」

 女の目の下には薄っすらとだが隈が見える。よくよくみれば、以前きたときよりもわずかにやつれている気がした。

「きっと海を見せてあげれば満足してくれるとは思うのよ。……その後も泳いでくれるかどうかはわからないのだけど」

 声に寂しさが混じる。毛先まで整えられた前髪が目に影を落とした。

「だったら、あなたが海の見える街に住んであげればいいではないですか。私の店に寄こさなくても」

 女は嘆息を落とした。

「そうしてあげたいのはやまやまなんだけど、私、今度海外いくのよ。それも海から離れたところなの。川はあるけど海はない」
「長年共に過ごしてきたペットよりも仕事をとるのですか」

 思わず声に非難がのった。女もそれを敏感に感じとったのだろう。とたんに眦が吊り上がった。

「仕方ないでしょう。ただの異動だったら私だって辞表つきつけて、旅先で気に入った港町にでも引っ越していたわ。でも、ずっと憧れの場所だったんだもの。この機を逃したらいつ行けるかわかったものじゃないんだもの」

 と、胸の内に燃える怒りを吐露した後、女はふいに目を伏せた。

「わかっているわ。飼い主として無責任な行動だって。でもよその人に託すことなんてできないでしょう。よくて廃棄、最悪実験モルモットか見世物よ。でもあなたならちゃんとした扱いをしてくれるでしょう。これが私の最善なの。私が帰ってきてくれたこの子に返せる最大のお礼なの」

 目を上げたとき、そこにあったのは思わずこちらが背筋を正したくなるような真剣な光だった。
 女自身も悩みに悩んだ末の答えだったのだろう。
 ある程度モノの扱いに慣れた常連客であっても手を焼く代物だ。ましてや一般人には言うまでもない。その点、そういったモノばかりが集まるこの店ならば、適切な扱いをしてくれると踏んだのか。
 昔からそういったモノに好かれる体質だった。どうにも彼らには世間一般には受け入れられなくとも、自分なら受け入れてくれると思っている節がある。この金魚がここにやって来たのもきっとそういう縁なのだろう。

「……わかりました。引き取りましょう。買い取り価格は」
「いいの。無理言ってるのはこっちだから。お金はいらないわ」

 女は店主の言葉を途中で遮って言った。

「その代わり、海の見える窓辺にこの子を置いてくれる持ち主に渡してほしいの。欲を言えば、この子をかわいがってくれる人だとなおよし」
「わかりました。承りましょう」

 女の顔がぱっと明るくなった。

「ありがとう。……じゃあね、サニー。憧れの海が見える素敵な家に行くのよ」

 名残惜しげに金魚鉢をひと撫でして女は背を向けた。金魚は何が起きたかわかってないようで、泡を吐き出しながらぼんやりとひれを揺らしている。

「もう行くのですか?」
「ええ。明日出国なの」
「なんと。うちが見つからなかったらどうするおつもりだったのですか?」

 女は口の端をつり上げて笑った。

「見つかるわよ。だってあなた言ったじゃない。お客様が必要とされたとき、この店は再びあなたの前に現れますよって」
「これは一本とられましたな」

 店主は苦笑した。まさか過去の自分の発言をとられるとは。

「でしょう。ではまたどこかで」
「ええ。またのお越しをお待ちしております」

 女は店主の言葉に片手を上げて去っていった。
 カランコロンと呼び鈴が揺れる。キャリーケースの転がす音すら聞こえなくなったとき、鈴をふるような声がどこからともなく響きだした。

“新入りだって。かわいいお魚さんだね”
“ようこそ。歓迎するよ”
“ようこそ”
“ようこそ”

 店のありとあらゆる商品が微かに震えている。滅多にない歓迎っぷりに店主は目を瞬いた。

「なんだね、いつも以上に騒がしいじゃないか」
”だって僕らこの子来るのわかっていたし”
“縁を引き寄せるのは得意なのに、相変わらず先を見通す力はないんだね”

 くすくす、くすくすと彼らは笑う。
 ああ、だから彼らは「しばらくは動かない」と言ったのか。新入りが新たな主人のもとで思う存分海を見られるようになるまで、偽りだとしてもせめて憧れた紺碧を楽しめるように、と。
 窓際の棚の上に水槽を置くと、金魚はカーテンを見上げたままぽかんと口を開けて固まった。空っぽの眼窩にも海は映るのだろうか。土の下から這い出てくるほどまで憧れた青を楽しむことはできるのだろうか。
 この様子ならば問題ないのだろう。
 店主は穏やかな笑みを浮かべて呟いた。

「次は海沿いの街に行きましょうかねえ」

 それがいいと彼らはまた声を震わせて笑った。

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