【小説】空飛ぶニシン
「今、世界のどこかでニシンが空を飛んでいるかもしれないだろ?」
三人組シリーズに出てくる三人組の出会いの話。
「ごーん、ちょっとそれちょうだい」
桜色の箸が視界に入ったと思った次の瞬間にはアジフライが宙に浮かぶ。止める間もなく、フライは真正面に座っていた少女の口の中に消えた。
「おいさくら、俺のフライ返せよ。結構楽しみにしていたんだぞ」
席を蹴って立ち上がると、快晴を切り取ったような瞳と目が合う。洋画俳優のような大げさな動作で肩をすくめ、さくらはこちらを宥めかかった。
「まあまあ落ち着けごん。私だって何もお前のフライを取って終わりというわけじゃない。代わりにこれをやろう」
己の黒い弁当箱に放り込まれたのは一口大より一回り大きい唐揚げ一つ。食欲をそそる香りをまとうそれは、薄すぎず、厚すぎない丁度良い厚さの衣をつけ、冷えていても唾液が自然と流れ出る。
単純な光太はそれだけですっかり気をよくして席に座り直した。かぶりつくとカリッとした衣から肉の旨味がじゅわりと溢れる。
「相変わらずうまいな。誰作ったやつ?」
「姉さん。当たり前でしょ」
「あいかわらず料理うまいな」
さくらの口元が誇らしげに弧を描く。ふふんと上機嫌な鼻音が聞こえてきそうだ。
「そうでしょ。ってかこれどこのやつ? めちゃくちゃ美味いんだけど」
声の弾みからよほど気に入ったようだ。いつまでも止まらない咀嚼音をBGMに光太は顎に手を当てた。
「うーん……俺分からねえから今日帰ったら母さん聞いてみるわ」
「頼んだ」
「いや、お前ら何やってんだ」
向かい合う二人の横に席をつけていた龍が呆れ顔でこちらを見つめる。
「なにっておかず交換」
「どうした? 龍もなんかほしい? ごめんな、魚のフライはさくらにとられちゃったからないけど。あ、卵焼き食う?」
「いやそういうことじゃねえよ。そもそも俺は菓子パンだから交換できるものもないけどな」
龍の手の中にあるのは五個入りあんぱんうちの一つ。机の上には残りのあんぱんと焼きそばパンが乗っている。いつも通りの光景だが光太は眉をひそめた。
「龍、また菓子パンだけ? 体に悪いんじゃねえの?」
テレビで菓子パンばっかり食べていると将来大変な病気になるとか聞いた気がする。なんか栄養がどーたら、こーたらいっていたような、いなかったような。テレビ特有の派手な効果音に芸人の笑い声が耳の奥で響いた。
病気になるのは嫌だし、やはり何かつけてあげたほうがいいかもしれない。卵焼きくらいならあげてもそこまで腹は減らないし、大事な友達の健康が守れるのならばむしろ積極的にあげたいくらいだ。
伸ばした手は、しかし龍によって制された。
「だからそうじゃなくてさ」
あーとかうーとか唸りながら龍は歯切れ悪く濁した。首を傾げていると、別の声が割り込んだ。
「いや高校生にもなって男女でおかず交換って距離感おかしくね? いくら幼馴染でもそれは有り得ないだろ」
「お前ら本当に仲いいな」
視線を上げればくせ毛の二人の少年が目に入る。一人はからかうようにニヤニヤと、もう一人は単に感心したようにこちらを見つめているが、すぐに弁当箱に視線を移してしまった。笑っているほうが森田迅介、既に興味を失せかけているのが玉川総助。自分たちほどの付き合いの長さではないものの血縁関係でもないのに双子と呼ばれる剣道部の名コンビだ。
「いやお前らには言われたくないでしょ。剣馬鹿ツインズ。いつも一緒にいるくせにさぁ。特に迅介、アンタは別のクラスなのになんでここにいるわけ?」
冷めた冬空が無遠慮に割り込んだ部外者を見据えるが、その返しは予想がついていたのか、やれやれと首を振って迅介は答えた。
「そりゃ俺は部活のことでコイツに用があったからな。ちゃんと用ありまーす。それに毎日来ているわけじゃないぜ」
「いやほぼ毎日見ている気しかしないんだけど。あと龍、それもーらい」
二人の応酬に気を取られていた龍から白い指が粒あんぱんをかすめとる。龍が声を上げる間に手頃なサイズのあんぱんは半分以上消えてしまった。
「おい、ちょっとお前な……」
「それうまい?」
「うーん、画一化された工業製品の味」
わざとらしく舌をだしたさくらにすかさず龍が反論した。
「お前その企業に謝れよ。値段安くて五個も入っている、おまけに安定した美味しさだぞ。並々ならぬ企業努力の成果舐めんな」
「難しい言葉知ってんな二人とも」
素直に拍手すると後ろから心底呆れた視線が突き刺さった。
「どっちもツッコむところ間違えているんだよなぁ……」
「ところでお前らっていつ頃からの付き合いだっけ。俺とじんが知り合ったときには既に三人固まっていた気がするんだけど」
総助がおにぎりをかじりながら問う。訊いてはいるが、その目は片時も持参してきた弁当箱から離れない。
ぶっちゃけもうほとんど話を聞いてはいないだろう。相変わらず興味ないことにはとことん関心が薄いヤツである。
それはそれとして自分たちの出会いはいつだったか。頭を捻ってみても随分前の出来事のため記憶が覚束ない。
「えー俺らって会ったのいつだっけ?」
「小一のときだろ」
「まあそうだな。小一のときクラスで席が近くて、すっげえうるさかったの覚えているわ」
すかさず返したさくらと龍の補足で急激に記憶がよみがえる。
「あっ、思い出した! そういえばそうだわ。俺らが会ったのはたしか――」
初めて入る教室。まだピカピカのランドセルを机の横にかけた子供たちは落ち着きなく教室を待っていた。もちろん光太も同じく。
右も左も知らない子ばかり。誰と友達になれるかな、なんて期待に胸を膨らませ周りを見渡せば、後ろにライトブラウンの髪色の少女が座っていた。
黒髪だらけの教室の中でその色は羊の群れに混じる山羊のごとく目立つ。おまけに彼女の目は空を切り取ったような青。周りの子供たちも気になるのか、視線をチラチラよこしている。
少女はそんな視線にも気にせず、片肘をついてつまらなさそうに唇を突き出していた。
隣の教室の声は聞こえてもまだ教師が来る気配はない。光太は思い切って後ろの少女に話しかけた。
「なあ、すっごいきれいな目だな。あおぞらみてえ。もしかしてガイコクジン?」
ぱちり。瞬いた碧眼がこちらを見た。
「ちがうよ。わたしのかあさんはレッキとした日本人! これはばあちゃんゆずりなの!」
「へえ、ばあちゃんの目なんだ。きれーだね。かみのけのいろもそう? おひるの木のはだみたいないろだよな」
初めて見る容姿に感動していると、少女の目が大きく見開かれる。
「えっ、そう?」
「うん、めっちゃきれい。こんないろみたのはじめてだから、すっごいきれいだとおもう!」
ぬける青空のような瞳も陽だまりのような明るい髪色も美しい。この感激を何としてでも伝えようとしたら予想以上の大声がでてしまった。
しかし少女は気分を害すどころか、太陽のような笑みを浮かべた。
「ありがとう、いいヤツだなおまえ! わたしのなまえはさくら。おまえは?」
「かがみこうた。よろしく」
ニッと笑って手を差し出す。握られた手は力強く暖かかった。
「ねえ、さくらちゃんのおばあちゃんってガイコクジンなの?」
「はなしききたーい」
光太が話しかけたのを皮切りに周囲の子供たちもさくらに話しかけようと身を乗り出す。
「はい、みんな席についてー。今から大事なお話があるからね」
ところが運悪く教師が教室に入ってきてしまったために、彼女への質問は中断せざるを得なかった。教師の話を聞かなければいけないのはわかっているが、それでも浮ついた気分は抑えられず、内容が右から左に流れていく。
説明だけで一日が終わったような長さの気がした。実際のところ、時計の短針は一つ上の数字に移動しただけであったが。
「はい、これで終わります。今から休み時間だけど、短いから外に行くのは駄目ですよ」
皺一つないスーツを着こなした女教師は角ばった眼鏡を直しつつ、号令をかけた。元気のよいありがとうございましたーという声が響き渡る。
教師がでていった瞬間、光太は早速さくらに話しかけた。
「なあ、さくらはいえどこらへん?」
「ひがしどおりのいっちょうめ」
「えっ、めっちゃちかくじゃん! あそびいっていい?」
「ゆるしてしんぜよう」
腕を組んで尊大な態度で言い放つさくらに光太は吹き出した。
「なにそれ。ゆるしてしんぜようってヘンないいかた」
「テレビでちょんまげのサムライがいってた」
それは恐らく午後によく流れていた時代劇のことだろう。光太自身も見たことがあった。菓子の下に小判を潜ませお主も悪よのうと笑う恰幅のいい男たちの顔が脳裏に浮かぶ。
なんでおかしなんだ、どうみたっておかねじゃんと口を尖らせたとき、傍らにいた年上の従兄弟が苦笑しながら、あれはお金だとわかっているけど、偉い人にお金をわたして自分のやりたいことをやらせてもらうのは悪いことだから、お菓子だって言い張っているんだよと教えてもらったことを思い出す。ああ、そうだ。従兄弟と言えば――
「そういえば、さくらっておねえちゃんいる? おれのふたつうえのいとこがクラスにね、さくらみたいなおんなのこがいるっていっていたんだけど」
「なまえは?」
「えーっと、たしか……るりだったきがする」
記憶の底から何とか名前を引っ張りだす。瞬間、さくらの顔が真夏の晴天のように輝いた。
「あっ、じゃあわたしのねえさんだ!」
「そうなの? すごいな!」
すごいぐうぜんーと手を取り合って盛り上がったそのとき、
「ていうかホントにさぁ、にほんじんなのおまえ」
嘲笑交じりの横槍がはいった。発言の主は二人の会話を遠巻きに見ていた子供たちのうちの一人だ。短く刈り揃えた黒髪に周囲の子供たちよりも一回り大きな体。漫画からそのままでてきたような、いかにもガキ大将といった風貌の男子だった。
ふざけるにしては悪意に満ちたその発言は、明らかに傷つけようとする意図を含んでいる。幼い顔立ちに浮かぶ笑みはひどく醜悪だった。
当然そのようなことを言われてさくらが言い返さないわけがなく、すぐさま無礼者にかみついた。
「なによ、それどういうこと」
「だってさ、おまえのかあちゃん、にほんじんなんだろ。でもふつうそんないろになるわけないじゃん。もしかしてほんとうのおやこじゃないんじゃないの」
「そんなことあるわけ」
「でもたしかにそうだよな。おかしーもん」
「そうだ、そうだ」
取り巻きらしき男子たちが囃し立て、さくらの声がかき消される。ニヤニヤ笑う目が二人を取り囲んだ。これではどんなに意思が強かろうが多勢に無勢。さくらは強く唇を噛んだ。
一人の女子がやめなよと声を上げたが、中には同調する者もいる。光太も言い返してやろうと口を開きかけたそのときだった。
「バカじゃないの」
たった一言。ただし世界中からありったけの侮蔑をこめたようなその一言は教室中を静まり返させるのに十分な力を持っていた。皆が一斉に振り返る。光太の席の隣の列で一つ前。つまり斜め前の席に一人の少年が座っていた。色白でほっそりした体つきの少年は極寒のごとき目でこちらを睨んでいた。
「なんだよ、なにがいいたいんだよお前」
ガキ大将が食ってかかったが、少年は微動だにしない。それどころか挑発するように口角を上げる。
「だってさ、その子のおばあさんが外国のひとだったとしても、たとえば、おかあさんがこの国のひととけっこんして、この国にくらしていて、こくせきが日本ならその子はにほんじんでしょ。だいたい、にゅうがくしきのときみかけたけど、そっくりだったよ。あれがおやこじゃないなら、どこのいえもおやこだなんていえないね」
最後にほんとうくだらないことでいい争っているねと締めくくり、少年は鼻で笑った。
たしかにと頷く子、こくせきってなんだと頭に疑問符を浮かべる子、反応はさまざまだったが、とにかく祖母がこの国出身でなくても日本人になることはできるらしいということは伝わった。教室の空気が一瞬でひっくり返る。先ほどまでは一切聞こえなかったひどーい、いけないんだーという批判があちこちから上がった。
「っ……」
不利を悟ったガキ大将の顔は即座に赤黒く染まり、彼にずんずん向かっていく。
まずい、このままでは彼をなぐるかもしれない。背中に冷たいものが走る。
慌てて止めに行こうとした光太の肩を誰かが押しやった。
目の前に広がったのはうねる飴色の波。白い腕が伸びあがる。流れるような美しいフォームでさくらは小さな何かをガキ大将の背に投げつけた。
「な、なんだこれ」
ギャッと飛び跳ねたガキ大将の取り巻きが背中についたものを見て悲鳴を上げた。
「うわ、きもちわる! イモムシだ」
ガキ大将の背中についたもの、それは親指ほどもあろうかと思われる大きな芋虫だった。それもモンシロチョウの幼虫のようなかわいらしい若葉色の芋虫ではなく、黒地にオレンジや黄色で目玉模様が描かれた気味の悪い蛾の幼虫。おまけにそれは手がギリギリ届かない背中の絶妙な位置でしがみついている。
「おい、とってくれよ」
だが丸々太った不気味な塊に触れる猛者もおらず、下手に刺激してその芋虫が自分につくことがないよう、周囲の子供たちは潮が引くように一斉に遠ざかった。
「さっきはよくもわたしのかあさんをブジョクしてくれたわね。アンタがわたしのあたまをつつくなら、わたしはアンタのくびねっこをひっつかんでタールのようなあぶらでクソまずいフィッシュアンドチップスみたいにあげてやるわ」
この長口上を一気にまくし立て、さくらは参ったかとでも言うかのようにふんぞり返る。
「ちょっとこれはどういうこと!?」
悲鳴を聞きつけ、教師が血相を変えて駆け込んできた。背中をかきむしりながらとってくれと泣き叫ぶガキ大将、仁王立ちしたさくらとその後ろで困惑している光太、席についてはいるもののさりげなく机をずらし、ガキ大将から距離とっている色白少年、それを同心円状に囲む他の子供たち。教室は実に混沌としていた。
「えっと、まず森君は落ち着こうか」
教師はとりあえずパニックに陥っているガキ大将を落ち着かせにかかる。
「せんせい、せなか。せなかが」
「背中がどうしたの? とりあえずみせてみて……って、キャッ!?」
もぞもぞうごめいている芋虫を認めた瞬間、教師も飛び上がってしまった。大きさ、色合い共に本能的な嫌悪感を呼び起こすそれは教師に対しても同様の嫌悪感を抱かせた。
だがここで取り除かなければ、この場を収めることができない。教師はテッシュを持ち出し、嫌々ながら妙にやわらかなそれをとることに成功した。そのまま窓に近寄ると窓を全開にして、全力でテッシュごとそれを外に放り投げた。
そして周りを睨みつけ、厳しい声音で問いただす。
「誰ですか。こんなひどいことをしたのは」
一斉にさくらに視線が集中する。が、当のさくらは平然とした顔で反省した様子もない。
「アイツ男のくせにイモムシごときで泣いたわよ、みた? すっごくかっこわるいわよね」
それどころか、半泣きのガキ大将をせせら笑ってこちらに話しかけている。
「たしかにかっこわるいよな。あとあたまつつくってなに?」
「ばあちゃんの国のことばでムカつくっていみなんだって」
それに同意する自分も大概であったが。
「さくらさん、これはどういうこと?」
教師は肩を怒らせ、眼鏡のレンズごしに鋭い視線を向けた。
「ソイツがいきなりおれにイモムシをなげつけてきたんだ」
教師の背に隠れながら、ガキ大将が哀れっぽい声を上げる。自分の行動を棚に上げて、さくらだけを非難するその意地汚いやり口を目の当たりにして、一気に血が頭に上った。
「はあ!? さきにイヤなこといったのそっちだろ! さくらだけわるものにするのかよ、このヒキョーもの」
「でもイモムシなげるなんてひどい! おれそこまでいってないじゃん」
正直なところ芋虫を投げつけたのは驚いたが、まだマシな部類ではないだろうか。もしもこれが自分だったら一発殴っていたかもしれない。
再び喚きだしたガキ大将に言い返そうとしたそのときだった。
「森君、火上君、さくらさんは一回職員室に来なさい。お話があります。他の皆さんは席についていなさい。他の先生方を呼んできますから、その先生のいうことをちゃんと聞くこと」
口答えを一切許さない口調に三人は思わず口を閉ざす。他の生徒たちも一斉に自分の席についた。硬い靴音を響かせ、早足で教室を出ていく教師に三人は渋々従った。
入学早々職員室で説教されるというある意味伝説的なことをやらかした三人は、二対一に別れ、互いに睨みつけ合いながら教室に戻った。扉を開けると視線が集中し、だが次の瞬間には四散する。ガキ大将には取り巻きたちが集まってきていたが、光太たちには関わりあいたくないとばかりに視線をそらされた。
居心地の悪さに肩を落としたところで、かばってもらった例の少年を思い出す。
たしか斜め前だったはずだ。かばってもらったお礼くらい言わないと。
果たして少年は同じ席に一ミリも変わらずそこにいた。光太は迷うことなくその席に向かう。
「なあ、さっきアイツにいってくれたヤツだろ? さっきはありがとうな」
黒板を見つめていた、退屈そうな目がこちらを見上げる。だが光太の顔を認めた途端、迷惑そうに顔をしかめ、目をそらした。
なんだコイツ。いいヤツかと思ったけどいやなヤツじゃん。
ムッとしたところで、追いついたさくらも机に身を乗り出し、覗き込むように話しかけた。
「こうたのいうとおりだな! ありがとう! ……えっとなまえは」
「なまえなんてなんだっていいだろ。だいたいうるさいのめいわくだったから言っただけだし」
突然目の前に現れたさくらの笑顔にぎょっと身を引いたが、歯切れ悪くぼそぼそ答えて顔をそむけた。少年からはもう話す気はないことがありありと伝わってくる。普通はここで会話が終了しただろう。が、さくらは普通ではなかった。
「ああ、もしかしてなまえをきくなら先に名をなのれってこと? わたしはさくら。で、こっちが」
「こうた。よろしく」
さくらが手を差し出したので、光太もそれに倣い少年に手を差し出す。
「いや、だから……」
少年が何か言おうとしたが、その眼前にずいっと小さな手を押しつけると観念したように深いため息をついた。
「わかった。おれはりゅう。でもよろしくはしないからな」
渋々名のった龍は手を振って追い払おうとした。だがしかしやはりさくらはひと味違う。
「というかさんすうすきなの? つくえのうえにひろがっているのさんすうのほんじゃん」
机の上に広げられていた本を手に取り、パラパラとめくり始めた。光太も中身を覗いて歓声を上げる。
「ホントだ。みてもぜんっぜんわかんねー! すごいな、りゅう。もうわかるんだ」
「いやはなしきけよ」
二人でこれどうやってとくのか、あっ、あめ玉おいしそうと盛り上がっていれば、ついに龍が両手を上げた。
「わかった、わかった。おまえらにかまってやるからそれかえせ」
「なんでこれやっているの。まだならってないところなのに」
さくらが小首を傾げて問いかける。
「すきだから。それにさんすうはすこしのきまりをおぼえれば、あとはどうとでもなる。かんがえをくふうするだけだし、正しい、正しくないがいっぱつでわかるだろ」
「はっきりただしいかただしくないかわかるのがいいの?」
さくらは更に尋ねる。
「だってあいまいなのは、はんだんに困るじゃん」
たしかになあ。マルバツクイズみたいだったらわかりやすい。光太は素直に納得したが、さくらは全く違う反応をみせた。
「はあーおまえってほんっとつまらないヤツだなー」
深々とため息をついてさくらはそうのたまった。龍の眉間に皺がより、目つきが鋭くなった。
「はあ? どういうことだよ」
「だってせいかい、ふせいかいしかなかったらつまらないじゃん。おまえって、いませかいのどこかでニシンがそらとんでいるっていったらしんじないヤツだろ」
ニシン? ニシンってたしかサカナだっけ? スーパーでみたような、みなかったような……。
光太があいまいな知識を手繰り寄せる中、龍は露骨に顔を歪めた。
「魚がそらとぶわけないだろ。おまえはなにをいいたいの?」
「ほら、そうやってすーぐおすましして首をふるじゃん。でもさ、そらからカタツムリがふってきたこともあるんだぞ。もしかしたらいまこのそらからうっかりもののニシンがふってくるかもしれないじゃない」
「ありえねえよ。ニシンが空とぶわけないだろ」
一蹴した龍にさくらは鼻を鳴らした。
「じゃあ、おまえはいっしょうせまいかんづめにとじこめらたニシンをみていればいいさ。わたしはそらとぶニシンをつかまえにいく! こうたはどうする?」
突然話を振られて光太は目を見開いたが、言うべき言葉は決まっていた。
「えっ、じゃあいっしょについていくよ。おもしろそうだし。りゅうはホントにいかないの?」
龍にしっかり目を合わせて尋ねる。龍は嫌そうに眉をひそめ、しばらく沈黙していたが、やがて呻くように答えた。
「いみわからないから、となりでおまえらのバカバカしいすがたをわらってやるよ」
言葉だけみれば悪口以外の何者でもないが、発言主の頬は薄っすら紅潮しており、口調も弱弱しい。
あれ? これはもしかして――
期待を胸に隣へ視線を向けると、三日月のように弧を描いた青と目が合う。
疑念が確信に変わり、二人はどちらともなく笑いあった。
「そうか、そうか。よろしくなーりゅう!」
「なかよくなれてうれしいよ、りゅう」
「おい背中をたたくな、さくら! おまえもなにうれしそうにわらってんだ。なかよくするなんていってないだろ!」
叫ぶのも憎々しげに睨むのも最早気にならない。いい意味で長い付き合いになりそうな予感に光太は腹の底から笑った。
「聞けば聞くほどさくら節が光ってんなあ。小一からさくらは既にさくらだったか」
苦笑と呆れの混じった息を吐いて迅介は言った。いつの間にか弁当を食べ終わった総助が、弁当箱を鞄にしまい込みながら問う。
「で、結局空飛ぶニシンは見つかったのか?」
「いーや、ぜんぜん。でも今テレビで池の水ぬく企画やっているじゃん。私もあれやりたいなって。でっかい怪物みたいな魚を捕まえて、捌いて食う!」
真っ白な歯が血色のいい唇から覗いた。親指を立てる彼女はまだ見ぬ怪魚に挑むように口の端を上げる。
「モンスターがモンスターを捕まえにいくのか……」
「ごん、怪物には怪物をぶつける理論やめろ」
不敵に笑うさくらはあの頃から変わらない。初めて会ったとき仲良くなれそうだと期待したが、まさか高校まで続く腐れ縁になるとは流石にあの頃の自分も思いもよらなかっただろう。
「はあ? 本当に失礼なヤツらだな。こんなレディをつかまえてモンスターなんて、なんてデリカシーのないヤツらだ」
「えっ、お前がレディなら世の中のレディと呼ばれる人たちはなんなの? 聖人? あっ、ヤバい。レディの上がわからん」
「まあ、淑女じゃ同じ意味だしな。とにかく、同じレディとしてくくるにはあまりにも失礼すぎるだろ。というかお前は男、女の区分けに当てはめるのは不可能だからお前の性別は細波さくらにしとけ」
「はあ? 彼女なし歴イコール年齢のお前らだけには言われたくないね」
ギャーギャー言い争っているうちに迅介が席を立つ。盛大に肩をすくめるオプションつきで。
「俺から見たら三人同レベルな気がするけどな。類は友を呼ぶってよく言ったもんだ」
「いやお前らも大概だからな、双子ども。そういうお前らはどうなのよ」
「話してやりたいところはやまやまだが、もう昼休み終わっちまうからな。それはまた今度」
ひらひら手を振って迅介はさっさと教室を後にした。さくらが立ち上がった瞬間、タイミングよく予鈴が鳴り響く。
簡素な文字盤の短針はもうすぐ1を指そうとしていた。
「あー! はやく食べ終わらないと授業遅れんじゃん。早く食べ終えるぞ」
箸でこちらを指差しながらさくらが叫んだ。光太も残りのおかずをかきこむ。龍はしれっと空の袋を鞄に詰め込んでいるところだった。
「お前ら早くしろよ。もうすぐ先生来んぞ」
「龍はもう食べ終わったのかよ、ずっる」
「知るかさくら。食べないで話し込んでいたお前らが悪い」
薄情者の龍は自分の席に戻り、平然と自分だけ次の授業の準備を始める。
「おいおいまだ食べてんのかよ」
「こっちにもいろいろあったんだよ!」
クラスメイトのからかいが飛ぶ。光太はそれに叫び返しながら最後のおにぎりをほおばった。
いつもと変わらぬくだらないほど騒がしい日常の一幕。
窓の外はあの日と同じ青空が広がっていた。
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