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【小説】回想、あるはなについて(7) 散り桜

前作「回想、あるはなについて(6) 菖蒲」の続きです。後二話で終わります。

「不完全なワンダーランド」にでてくる妖怪はなの過去話。
結婚式も無事終わり、またいつも通りの日常がやってくる。しかしその平穏は長くは続かず――

第一話はこちら

「あーあ、せっかく咲いたのにね。残っていたらここでお花見しようと思っていたのに」

はなの足元には無惨にも根元からぽっきり折れた枝が転がっている。泥水にまみれ、人を惹きつける薄桃色の花びらには醜い土気色のまだら模様が浮き上がっていた。

「昨日は雨風が強かったですからね。致し方ないといえばそうなのでしょう」
「ここ最近、変な天気よねえ。この前も春なのに急に冬に戻ったような寒さだったし」

なにも起きないといいけど、と呟くはなの視界が暗くなる。
太陽に再び重苦しい灰色の雲がさしかかっていた。


その年はやはりおかしな年だった。夏だというのに流行り病が流行して、あちこちで大勢の死者がでた。そしてそれは一女の住む村も例外ではなかった。

それでもどこかで彼女は罹るはずはないと楽天的に考えていたのは、彼女が風邪一つ患ったことのない健康良児だったからか、それとも単なる現実逃避か。

どの道はなが自身の感じていた違和感から目をそらしていたことには変わりなかった。
あの桜のように咲き誇る花々も突然の嵐に見舞われて、いとも容易く手折られることを知っていたはずなのに。

始まりはいつも決まったときに届けられる手紙が来なくなったことだった。忙しいのかと特に気にせず、はなはいつも通り畑仕事に勤しんでいたのだが、流石に蝉の大合唱から物哀しいツクツクボウシの鳴き声だけになっても、何の便りもないのはおかしいと山を下りようとしたときだった。

「はな様、これを」

唐突に木陰から影が現れた。その手には一つの文が握られている。

「あら、やっと手紙が届いたのね。よかった、何かあったかと思ったじゃない」
「はな様、今すぐ中身をご確認いただけますか」

影は胸をなでおろしたはなとは対照的ににこりともせず、むしろ硬い声ではなを急かす。一抹の不安を覚えながら、はなは封を切った。目を通していくうちに、その瞳が見開かれていく。読み終わったときには、先程とは打って変わってひどく険しいものになっていた。

「影、今すぐいっちゃんのところまで行ける?」
「お任せください」

影はぐるりと扉のような形へと変化する。変わるや否や、はなはその中へ駆け込んでいった。

残された手紙がひらりと水たまりに落ちた。墨が滲み、透明な上澄みが汚されていく。しかしそれを気にする者は誰一人としていなかった。


「いっちゃん!」

突然現れた黒衣の少女に平右衛門は目を丸くしたが、鬼気迫る表情に圧されて、何も言えずに道を開けた。それにお礼も謝罪も返さず、行儀悪く盛大な音を立てて、襖を開いた。

「はな、廊下は走るものじゃありませんよ」

横たわっていた一女が穏やかに言った。

「今話すことはそこじゃないでしょ!」

はなはずかずかと近寄ると彼女の手をとった。いつも生気に溢れていた血色のいい肌はくすみ、大きかった彼女が一回りも二回りも小さくなってしまった気がした。

「どういうことなの、医者は!? もう手の施しようがないって嘘でしょう!?」
「手紙に書いた通りです。まさかこの歳になって病を患うとは思いませんでしたよ」

私も弱りましたかね、とふざけたように笑う彼女は、だが命の灯火が消えかけていることをまざまざと感じさせるような弱弱しい笑みを浮かべた。

「噓よ、そんなの噓。きっと治してくれる医者がいるはずだわ。ここは田舎だからいないかもしれないけど、江戸にいけばきっと」
「はな」

落ち着いた声がせわしなく動いていた口を止めさせた。

「わかっているでしょう。もし例え治してくれる医者がいたとしてもここまでどうやって来てもらうのです。着くころには多分、私はもうこの世にいない」
「そんなこと言わないで!」

はなは彼女の言葉を遮るように叫んだ。それだけは聞きたくない。それだけはどうしても認めたくなかった。

「そうだ、影を使えば……」

はっと後ろを振り返る。だが控えていた影は静かに首を振った。

「はな様、たとえ向こうに行ったとしても医者探しから始めなければいけませんし、向こうも病がかなり蔓延していると聞きます。行ったところですぐ診てもらえるかと聞かれれば難しいかと」
「なに? 私の命令が聞けないわけ?」

威圧するように睨みつけても、影はただ首を振るだけであった。

「ねえ、はな。賢いあなたならば分かるでしょう。私が今回筆をとったのは、あなたに最後のお別れを言うためなんです」
「嫌よ、ぜったいに嫌。ねえ、いっちゃんお別れだなんて言わないでよ。そうだ、前行きたがっていたお団子屋さんあるでしょう? 新しい味がでたんだって。また一緒に行こうよ。いっちゃんが読みたがっていた本の新刊もでたんだよ? ねえ、お願いだから約束して。また遊びにいくって」

彼女は自身の言葉に責任をもつ人だ。だからここで約束を取り付ければ、彼女はどんなことがあっても守ろうとするだろう。馬鹿みたいで浅ましい考えだったが、そんなものにでもすがりたいくらい、はなは切迫していた。

しかしそんな考えを見透かすように一女はただ静かにこちらを見つめた。

「はな、すみません」
「すみませんってなによ。ねえ、いっちゃん」

己の手が虚しく彼女の体を揺さぶった。

今までどんなわがままを言ったとしても最終的には折れてくれた彼女の、優しく、しかし断固とした拒絶が、目を背けたかった現実を突きつけてくるようで愕然とする。

「私は、はなに出会うことができて本当に幸せだったんですよ」
「いっちゃん! もうそれ以上言わないでよ!」

いやいやと幼子のように耳をふさぎ、じたばたと暴れて必死にその言葉を飲みこまないように、理解しないようにする。それでも彼女は困った子だと慈愛溢れる目で眺めるだけであった。

暴れるはなを何者かが抱きかかえる。目を開ければ、表情の読めない黒が眼前に広がった。

「一女様、申し訳ありません。このままでは一女様も平右衛門様もご迷惑でしょう。一旦はな様を落ち着かせますので、暫しの間、席を離れてもよろしいでしょうか」
「ええ。すみませんね、突然こんな話を」
「いえ突然押しかけた上、散々非礼を働いたのはこちらのほうですから、謝るのはこちらのほうですよ。では暫し失礼いたします」

視界が全て黒に覆われる。気がつけば、家の前に立っていた。

「影、なんで止めたのよ」

詰め寄るはなに異も介さず、影は淡々と答えた。

「はな様、率直に申し上げますが、あそこで稚児のように駄々をこねたところで何になります。一女様に残された時間は僅かであることはもうお分かりでしょう。それをつまらない駄々で消費してどうするのです。あなたがすべきことは何か、今一度お考えください」

言いおわると影は溶けて消えてしまった。
静寂が訪れる。がらんとした部屋の中にへたり込むはなだけが残された。

本当に、本当にもう手立てはないのだろうか。幾度も幾度も考え、新たな考えを思いつき、その度に有り得ないのだと冷静に分析する自分がいて、それでも諦めがつかず、また荒唐無稽な考えを浮かべてはそれを消し、気づけばすっかり日が沈んでしまった。
冷たい暗闇に存在するのは己だけ。はなは膝を抱えた腕に力をこめた。

「はな様、どうなさいますか」

いつの間にか立っていた影が問う。はなも流石にもう何をすべきかわかっていた。

「……今からいっちゃんのところ行っても大丈夫だと思う?」
「それは行ってみて聞いたほうがよろしいのでは? 普段のあなた様ならば、聞くより先に行動していると思いますよ」
「じゃあ影」
「御意」

全てを言わずとも常に寄り添ってきた影ははなの望みを汲み取り、扉の形に変化する。

「あとでいっちゃんの旦那さんにも謝らなきゃね」

小さな体は闇に飲みこまれていった。


「夜分遅くに申し訳ありません」

一応裏口を控えめに叩くとすぐに平右衛門が顔を出した。その顔色はやや憔悴して見える。はなを認めると、怪訝な顔が納得の色を帯びた。

「ああ……妻の友人の」
「先ほどは大変見苦しい姿をお見せて申し訳ありませんでした。この時分に訪ねるのは非常に迷惑だとは心得ているのですが、一度いっちゃん……じゃなかった、一女様とお話したいのです」

お願いしますと頭を下げると、彼は眉を下げた。

「いえ、妻からもあなたの父からも事情は聞いております。お二人ともどうぞお入りください」

父? しかも二人? と首をかしげるといつの間にやら、人間の姿に変化した影が平然とした顔で答えた。

「お気遣い痛み入ります」

そのままごく自然に背を押して、進むよう促してきたので、誰が父よという意思をこめて睨みつけたが、影は一瞥をよこしただけであった。

「誰が、誰の父ですって?」
「仕方がないでしょう。はな様、ご自身のお姿をわかっておられるのですか。こんな夜分に小さな童一人で見舞いにくるなど、怪しまれること間違いありません。全く誰かさんがいつまでもうじうじと悩んでいたせいで」
「ああ、もう! はいはい私が悪いんでしょ」
「ええ、はな様が悪いのですよ。まあ、そもそもいきなり現れた時点ではな様が人でないことを証明してしまっていますけど」

こそこそと話していると、平右衛門が立ち止まった。

「着きましたが、お二人とも先ほどから何を話していたのですか?」
「「いえ何も」」

ぴったりと声がそろう。彼はわずかに口角を上げた。

「仲がよろしいのですね」

何と返したら良いのか分からず、はなは曖昧に笑うだけに留めた。

「もう来ないのかと思っていましたよ」
「そんなわけないじゃない。私をなんだと思っているの」

頼りなく揺れる行灯の光が一女の顔を照らしていた。

「では私の話を聞く気になりましたか」
「違うわ。私はいっちゃんのところにくる死神を返り討ちにするためにここに来たの」

往生際が悪いことはわかっている。それでもはいそうですかと、諦められるほどはなは聞き分けの良い子ではなかった。

ぷいと顔を背けると、彼女は小さく笑った。額に手をあてて嘆いている影が視界の隅に入ったが、無視を決めこむ。

「そうですか、しかし、ここでただ座っているのもなんですし、何か話しでもしましょうか」
「じゃあ、昔のいっちゃんの話でもする?」

はいはいと寺子屋の子供たちのように手をピンと伸ばして主張する。はなの明るい声に底にたまっていた鬱屈した空気が少しだけ和らぎ、皆の表情も緩んだ。

「それはいい。是非とも聞いてみたいですね。昔の話はあまり聞いたことがなかったので」
「じゃあ昔、木に登ってクワガタムシとった話でもする? ああ、それとも田んぼで蛙とって意地悪な男の子の背中にいれた話とか」
「はな」

咎めるように一女がねめつけたが、意外にも平右衛門が食いついた。

「ほう、うちの妻はなかなかお転婆だったのですなぁ」
「そうそう。もうほんっとうにすごかったんだから。男の子以上に野山を駆け回っていたのよ」

大げさな身振り手振りで、はなは一女の過去を話し、逆に平右衛門ははなの知らない一女の話をした。影はほとんど口を挟まず、平右衛門に場所を教えてもらってからというもの、汗を拭う用の布を変えに行ったり、水を汲んできたりするだけであったが、はなの話があまりにとっちらかった場合に限り、それとなく諫めて暴走を止めた。一女は時折、二人の話に訂正をいれたり、主にはなに対して言い返したり、恥ずかしそうにしながらも楽しそうに聞いていた。

その晩はうだるような湿気もなく、五人は穏やかな夜を過ごした。

しかし朝が近づいてくるにつれ、彼女の意識はぼんやりとすることが増え、額にのせた手ぬぐいを替えても、替えてもすぐにぬるくなっていった。

目を凝らしても、死神が来る気配はない。だがそろそろ限界が来ていることは誰の目にも明らかだった。はなは出来る限り話を途切れさせぬよう、いつもよりもせわしなく口を動かした。

「そういえば、いっちゃんのお父さんは?」

「義父殿はどうしても外せない用がありましてね、今馬を走らせて朝までには戻ると言っておりましたが……」
「そう……」

間に合うといいね、とは口に出せなかった。一女はもう返事もしない。ときたま焦点の合わない目がこちらを見るだけだ。覚悟を決めるしかなかった。無意識のうちに唇を噛む。
火影が心もとなく揺れ、濃い陰を作っていた。


眩い朝日が部屋を照らす。そのときどすどすとこちらに向かって走ってくる足音がしたと思った瞬間、襖が勢い良く開いた。

「一女!」

駆け込んできたのは彼女の父であった。袖には泥がこびりつき、丁髷も乱れている。しかし彼はそれを気にする素振りも見せず、枕元に駆け寄った。父の呼びかけに彼女は薄っすらと目を開いた。

「お父様……」
「一女、わかるか」

父の必死な呼びかけに彼女は微かに頷いた。

「今までの恩も十分に返せず、先に旅立つこの親不孝な娘をどうかお許しください。私は、あなたの娘で幸せでございました」
「それはこちらの言葉だ。今まで散々苦労をかけたな。お前が私の娘で本当に良かった」

彼は唇を引き結び、一度手を力強く握りしめると、その手を離して平右衛門に席を譲った。

「平右衛門様」
「一女」

平右衛門は枕元に近寄って、優しく触れた。

「妻としての役目を果たせず、申し訳ありません。あなたと夫婦になれたことは、私にとって幸福でございました。空の上であなた様のご活躍を見守りたいと思います」
「いや、こちらこそ中々贅沢もさせてやれず、申し訳なかった。いつもお前には支えてもらってばかりだったな」

互いに微笑みあい、平右衛門も同じように彼女の枕元を離れて奥に座った。

「はな」

小さくとも強い光を宿した黒がはなを見据える。はなはよろよろと彼女に近づいた。

「いっちゃん」
「ねえ、はな。先ほどまた遊びに行こうと言いましたよね」
「うん、いったね」

彼女ははなの手を掴んだ。怪力と恐れられていた昔の彼女とは信じられないほど、弱々しい力だったが、その熱だけはいつまでもはなの中に残った。

「それは約束できませんが、代わりに」
「うん」
「代わりに、いつか、どれほど長くかかったとしても」
「……うん」
「必ず、必ず会いにいきますから」
「う、ん」

言いおわった途端、彼女の目の奥の確固とした光が揺らめき、急激に薄れる。

ああ、消える、消えてしまうと思ったときには、言葉が飛び出ていた。

「待って、いっちゃん! いかないで!」
「私を、おいていかないでっ!」

口に出して気がついた。私はずっと寂しかったのだと。
じっちゃんも、故郷の村人たちを始めとする自分と仲良くしてくれた人間たちも、愛した者たちは皆、自分をおいていってしまう。

いや、それはわかっていたのだ。じっちゃんを見送ったあの日から、ずっとわかっていたことだった。

ただ彼女は、彼女はあまりに逝くのが早すぎた。彼女の子供をあやしにいって、一緒に成長を見守って、真っ直ぐな背が海老みたいに曲がって、すっかりおばあちゃんだねなんて縁側で座ってお茶をする、そんな未来を思い描いていたのに。

もしも死神なんてものがいるとするならば、これはあんまりな仕打ちではないか。彼女が一体何をしたというのだ。

ああ、神様お願いだ。彼女をどうか、どうか連れていかないで。

神に対して殊勝な信仰心などほとんど抱いていなかったはなだが、このときばかりは神に心の底から祈った。が、願いも虚しく彼女の手から力がふっと抜け落ちる。

瞬間、悲痛な絶叫が耳をつんざいた。夜泣き婆でも現れたのかと思ったが違った。

それが、自分の喉から発せられたものだと気づくには、ずいぶんと時間を要した。

あの後、どのようにして帰ったのかは正確に思い出せていない。影によると、取り乱した非礼を詫びてきちんと家に帰ってきたらしい。平右衛門も自分の正体に薄々気づいているであろう一女の父も何も咎めず、逆に一女のことをそこまで想ってくれてありがとうと礼まで言ったようだ。

だがそれすらも記憶に残っていなかった。そんなことはどうでもよかった。

残っているのはあの命の灯火が消える瞬間と、もう二度と握り返さない彼女の手の感触だけ。

ぼんやりと葬列を遠くから眺める。彼女の棺桶を彩っているのは野辺に咲く彼岸花。それはまだ夏の残り香が香る彼岸の季節だった。


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